世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

痛みの伴う思想変容と、その遺書。

 

 

前回ブログをかいてから、しばらく時間が経ってしまった。
書きたいことが書けなくなってしまったからだ。

それは主に戦略の話にもなるだろうし、組織の話にもなるだろうし、人の話にもなる。
あらゆるものがアップデートされていく中で、「多分いまここで書いておくべきなんじゃないか」と思うことを書く。


事業状況について先に振り返っておこう。
8月中旬時点で、あらゆる事業計画はビハインドしてしまったが、
ようやくひとつの踊り場に足をかけている状態となった。
安定的な黒字が見え始めたのだ。不安定な黒字ではなく、組織として確立されつつある安定収益の兆しだ。

1月時点ではおそらく「このマーケットに入り込むことができれば、半永続的に事業拡大できるはずだ」と思っていたが、それはあえなく失敗し、3月時点でターゲットを一気に変えるという決断をとった。

そのかわり、重要な示唆を得ることになった。「自分たちの顧客はどこにいるのか」ということだった。それはある意味で当初想定していた計画の通りに特定しており、
そのアプローチ方法も確立しつつあり、その事業拡大に至るまでの採用計画がある一定の可能性までに到達し、発生した事業を運用する方法がある程度確立し、オペレーションの体制が構築され、人材の採用可能性を明らかにし、執行・改善を繰り返していくことで生存可能性が一気にあがる、というところまで到達した。

最も重要な施策は認知拡大だ。なので、はてブで記事を書くのは将来を見据えた趣味程度に抑え、本来注力すべき発信をいくらか増やしていくことで「我々のことを知ってもらう」という活動をもう少し本格的にやろう、ということになっている。

今まで発信をあまり力強くやってこなかったのにはある意味で理由がある。
事業の確立が強く確かめられていない状態で発信をしてしまうことは、一貫性の観点で疑問が残るようになってしまうと考えてしまっていたからだ。
正味影響ないといえばないのだが、影響力の武器にあるように、自分の場合は「一貫性とコミットメント」というものがある種自縄自縛的に作用してしまい、非合理な意思決定を続けてしまうことをあらかじめ避けたかったという意味合いの方が強い。

 

いくらかの失敗を繰り返してきたが、失敗を恐れることはなくなってきた。
何が失敗なのかが明確になっているからだ。それは、資金ショートすること。

損益分岐点に対して果敢にトライアンドエラーを起こし、その中で兆しを捉え、構造を理解し、新たな打ち手を想起し、想定していた仮説の適合度をチェックする。
その過程で「想定仮説を外す」ということは「別の新たな仮説のアイデアを思いつく」ことと同義である。失敗を恐れるというのは、その仮説を得ることをしていない、と解釈する方が正しいだろう。

だからといって自分は「やってみないとわからないからやるのが大事」という脳筋精神論おばけというわけではない。自分がそういう言説に対して批判的なのは、「やる意味のないことをやってしまった結果何も示唆が得られない無駄は徹底的に廃するべき」という強い信念を持っているからだ。それは創業まもない私たちにとって死活問題だ。なぜなら、1週間無駄な検証をしてしまうと、資金繰りが1ヶ月遅延するほどのインパクトになるからだ。

何を学習しなくてはならないのか。その学習効果を得ることができればどんなアクションを実行する根拠とすることができるのか。その検証が間違っていた場合、自分たちはどんな軌道修正を行う必要があるのか。そのコンティンジェンシープランはいくつ用意されているのか。
Aの施策とBの施策があるときに、そのどちらかを選択して実行しなければならないという理由はないので、検証目的が両方に存在する場合は、常に優先順位を論点とする。
優先順位はQCDによって決まるため、それぞれに制約がない場合は「できるだけ早くライトに検証し、示唆を得ることをどれだけ早めることができるか」がとにかく重要。

無目的の施策をやるくらいだったら何もしない方がマシだと思う。
無目的の施策からなんとなく兆しを感じてしまい、その兆しを確からしいと感じてしまうことは意思決定を大きく間違えるかもしれない。

 

上記は1年半かけて培ってきた学習ノウハウのうちの部分的なものだ。自分はひょっとしたら体系的な事業開発の意思決定ノウハウを備え始めているように思う。それがあると何が良いのか。
自分にとって今手応えとして確かにあるのは「再現性の確かめられる体系的な事業開発の意思決定プロセスに従うことができれば、およそマーケットの確立された環境での新規事業は、資本の制約がなければ連続して立ち上げることができるから」
と言い切ることができる。

 

また、自分は例に漏れずマーケットの外観から捉えて事業構築するタイプなので、
再現性のある売上収益が手触りを持つことができれば、よほどのことがない限り売上拡大は一定の規模で成長させていくことができると考える。当然組織拡大が最大のイシューになることは言うまでもないが。

 

1月から8月までの間で特に悩んだことは「縛りプレイを続けていくことによってマーケット制圧が先行されてしまい、その結果自社マーケットが想定通りに伸びなくなるのではないか」という恐怖心だが、自分たちのビジネスモデルはある意味でめんどくさいので、強固な堀を築いているということがなんとなく自社の共通見解になってきた。自社が本質的に提供している価値はなんなのか、ということをいくつもの事業開発を通して学習してきた。その総量と、自分という存在は、容易に真似できるものではないと自分は思うようになった。
また、その縛りプレイによって事業成長=売上の短期的な拡大を損ねてしまうと言うことに対しても、相当に悩んだ。事業成長のスピードというのは、結局自分で決めるしかない。何を優先するのか、何を失うのか。結果として得られるものはなんなのか。
これを複雑なプランを並列的に走らせシミュレーションし、ベストではないがベターといえる選択を続けていく。うちの会社がフロービジネスとストックビジネスが複合的になったビジネスモデルを構築したのは、自分の「焦らずに急ぎたい」という気持ちからきたものに思う。いくらかの成立条件を満たすことができれば、うちの場合は通年で毎月の受け入れ人数を計画する、というやり方よりも「半期に一回どかっと受け入れる」という進め方の方が適しているのではないかと考えるようになった。
短期売上を既存させて将来的な売上の倍々成長を期待するというフォーメーションなのだが、これを実現するために当然今期はしゃがまなくてはならない。自分もまだ28歳と若い中で、売上利益という成果を急がない意思決定をするのは相当に難しかった。
ただそれは、より確実に成果を出すために必要なことだし、いそいで拡大すると後で死ぬという事例が枚挙にいとまがないので、より強固で強いフォーメーションを確立することを先行する。人材紹介のようなフロービジネスだと単月の制約数を増やすためには人を増やし続けなければならないのだが、組織規模が数億規模にとどまってしまうのは、社員の離職やマーケットパラダイムの変容や需給バランスの縮小や競合性といったもので線形に伸ばし続けるのがほんとうにしんどい。LTVをみていくということが重要になるわけだが、果たしてどれほどの企業がLTVを重視した経営ができていると言えるのか、と言ったように。それができるのであれば営業コストはますます下がるだろうし、LTVも上がれば従業員も利益を出しやすくなる。
事業の安定成長および非連続成長はLTV、言い換えると顧客基盤をいかに作り切ったかによって決まる。その確立をなによりもまず急ぐべきだが、その確立にかかるコストを勘案すると「必要な売上」というのが求められるので、それを満たすことも成立条件のうちの一つだ。

事業の確立はある意味では簡単に思う。組織や採用の確立と比べれば。
7月以降の自分は「採用マーケットの構造を理解し、需給の歪みを捉える」という作業に勤しんだ。その結果「結局自分たちは労働収益をアービトラージしているだけにすぎない」という結論に悩むことになるが、それでもデマンドサイドの需要過多を考えれば、そうしたマーケットの歪みを10年単位に埋めるプレイヤーが出てきてもおかしくはないし、根本的にいえばそういうリボンモデルと言われる形態が究極最も収益を最大化するということだ。それは前職をある意味で知っていくことで理解したのかもしれない。

私たちが提供価値の根本としているものは、ある意味で時流とは真逆の方向に進んでいると思う。それを善いと思えるかどうかが焦点で、逆にいえば、ある意味でその兆しを理解することができなければ、それ以上を望むことができなくなる。

あるいは自分たちが行なっている事業の本質的にいいことが機会の再分配でもあるということに動機づくことができるのかどうか。逆にいえば、その分配を享受する側は、そのことに理解した上で価値貢献してもらわないと困るわけだ。

今の自分は、取引先の社長からいただくありがたい助言や、そういったもので慰められることとかによって、前向きに考え始めている。「絶対的な三方よしは実現しない。結局誰かしらが割りを食う。そのことを自分は悔しいと思う」

それを忘れなければいい。自分たちが本当に実現したいことを思えば。

 

非情になれ、というわけではない。ただ、自分が今まで考えていた思想レベルでの葛藤がずっとある。自分が労働者の側に立つことができなくなってきている。
ネオリベを許容するというわけでもない。自分が犯した過ちのうちの究極的なものは、「誰よりも難しい問いを創業時から持った状態でスタートしてしまったこと」なのかもしれない。

統合的なアプローチを自分は信じている。だけど、世の中が今の状態になっているのは、権力側の恣意的なものと自分は考えがちだったが、おそらくそうではないのだということ。つまり、今の社会はほとんど全ての人に望まれてこの様相をしているんだということ。

克服行動をとるくらいだったら、易きに依存する。その結果未来の自分にとても背負いきれないリスクが顕在したとしても、そのことを忘れて享楽的に生きることを望む。
それは各々が言語化しているわけではない。むしろ、誰もそんなことは考えていないと言った方が正しい。

 

現社会に起きているアービトラージを自分は理解しなければならない。それは、適法の範囲で正しく運用されていることももちろんある。それが原動力となってビジネスは推進されている。

ただし、日本というある意味で例外的な国が過去の資産を食い潰すかのように現在を生きてしまっていることや、そのことについて誰も責任をとらないからといって、絶望した顔になるのはもしかしたら自分くらいしかいないのかもしれない。全員が自己の合理のことだけを考えている。それはもしかしたら当たり前のことなのかもしれないが、肉屋の豚が喜んで手伝っているをみるにつけて、その本人たちが「自分がとんでもなく賢い選択を続けることができている」と思っているのをみるにつけて、クソ気持ち悪いと思うようになってしまった。


ただ、自分はそうやって生きていくことがどうしてもできないタイプなんだと思う。もう少し簡単に言ってしまえば「だれかのせいにして生きていくことができない」あるいは「だれかのせいにしたいから行動を続けている」
自分はやった側の人間だ。だから文句をいう権利がある。そういうふうに思いたいだけなのかもしれない。そう言い切れなくなってしまったならば、自分は北海道かなんかに隠居するか、ニュージーランドのような牧歌的な国に移住したいと思う。既存の経済システムとは無縁の生活を送るために、ある意味で自己利益を最大化するために務める。それ自体は、もはや至極簡単に実現できると思う。でも、少なくとも今の自分にはできない。

 

ああ、とんでもない問い立てをしてしまった。そのことについて論じる人はいるかもしれないが、実践的に解決の処方箋を導き出そうとしているのはひょっとしたら自分たちしかいないんじゃないか。その孤独感を自分が抱えて、被害者面している滑稽な自分を指差して笑ってやりたい。

 

「相田さんは尖り続けるべきだ。現実を知ったくらいで丸くならないでほしい。理想を語り続けるのが大事。一人でできないのであれば、もっと周囲の人を頼りなさい。相田さんの抱えている悩みは正しい。世の中が豊かになる過程には必ず負の側面がある。それを忘れなければいい。」

 

それが人間ということなんだ。それは普通のことなんだ。
暫定的に出している自分の見解は鄧小平とだいたい同じ。「過程がどうであれ、結果が良ければそれに従うべきだ」と思う。
当人が間違った欲望をもっていたとしても、本人が無自覚であろうと、そのことに触れず、ビジネスのインテンティブ構造にハマるよう導くことができれば、それでいいんじゃないか。過程ではなく、結果を常に見続ける。それによって現実はどうだったのか。

 

今の自分の葛藤していること、そのうちの大部分が主観的な倫理観だが、
現時点でどのような思想を掲げ直すのかについて、皆目検討がついていない。
ただ、前に進むために、そのことに悩んだということだけはどうにか遺しておきたかった。