世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

5年間の振り返り


事業のモデル化。メトリクスを組成し、システムの循環を構造に落とす。

 

 

 

年末なので振り返る。1年は長いようで短い。
自分の中の何がどう変化していったのかを改めて考えようとすると、1年前の自分を思い出せなくなっていることに気づく。言語化をあまりしなくなってしまったからだと反省。

 

6/27

自分がそのような身のこなしをするのは、本当に事業を伸ばしたいからなのだ。「この社長は自分のことが大事なのか、事業のことが大事なのか」を真に問うのは意外とこのような日常に現れているのかもしれない。

今の自分は「両方大事にしないと絶対にうまくいかない」という結論を出している。もちろん、事業ありきではあるが、ここでいう自分のことが大事というのはスプラトゥーンで「勝ちたい」のか「キルしたい」のかによってプレイスタイルが異なる、というようなことを言っている。

 

 

下期から、スーツで出勤することになった。これは自分の中では大きな変化だった。ファッションとは元来、他者への配慮を前提とした所作なのだ。そのことに気づいてから、自分の行動がどのように周囲に影響しているのか、自分すらもどのようにコントロールしていくのかについて考えるようになっていった。

 

最近の自分がした発言のいくつかをピックアップする。
「従業員が疲弊してまでする成長になんの意味があるというのか。そのことをなぜもっと早く言わないのか。その問題を自分には解決できまいとでも言いたいのか」

「確かに社長は社員への奉仕が絶対的な至上命題であるが、だからといって無条件に収益を悪化させていたら会社が保たない。そのバランスを調整するのが自分の仕事」

「自分だって人間だし、なにより誰といっしょに働くかを選ぶ権利は自分にある。それくらいわがままなことを言ったっていいでしょ」

「採用の権限委譲は、自分が一緒に働きたい人を自分で選んでいい権利を持っているということ。仕事においてこれ以上の特権はない」

 

 

会社員を辞めてもう5年が経つ。この5年間の長いようで短い時間は、自分自身を大きく成長させてくれた。社長の仕事は、経営者の仕事は、自分が今認識している限りで言えば「目標や目的を達成するために、できる限りはやくなんとかすること」と言って良い。

それは問題解決能力といえばかっこよく聞こえるかもしれないが、そんなスマートでエクセレントなものでは到底ない。自分にとっては「なんとかする」が一番しっくりくる表現だった。

 

もし社長に「なんとかしろ!」といわれているとしたら、社長相当の能力を身につけてみろと言われているのに近いと自分は思う。管理職レイヤーには比較的求められる資質ではあると思うので、自分もこれからどんどん「なんとかしろ」って言ってきたい所存ではある。社長の場合、どのように「なんとかできる」のかについてはさまざまな選択肢があり、往々にしてその選択肢や手段は従業員からは見えない。

また、所有と経営が分離しているのか、一致しているのかによっても考え方が大きく異なる。相当初期の段階からもの言う株主が増えてしまうことの意思決定の歪みについてはよく考えた方が良いし、その中で舵取りができるっていうのをしっかりと握れるほど有利なカードを持っていることが絶対的な条件だ。とするならば、エクイティファイナンスの真髄は「マーケット創造が確立しており、事業計画を見通すとファイナンス以外の問題はすでに解き明かされている時」に発揮されるものでしかないことがすぐにわかる。

現時点ではワンマンを志向することのメリットに触れたいから寄り道をしておくが、スタートアップというものがなぜ流行ったかで言えば、本来「マーケットの創造が明らかになっている段階で資本投下するよりも早いタイミングで投資をすることで先行者リターンを大きくとることができて投資対効果がでかいのではないか」という期待から生まれたものだった。だが近年のVCニーズは起業家サイドのリテラシー向上によって、ペニーな株しかつかまされていかないことにつながっていっている。その結果起きている事象は、「信頼のおける実績を積んだおっさんオールスターズが巨額の資金調達を完了させる」でしかなく、シードVCの夢見た「フィクサーになってエリートモテすんぞ♪」の夢は潰えたと言える。パンチすごいから消す

出資の集まるメカニズムを考えてみるとわかりやすいが「目標や目的を達成するために、できる限りはやくなんとかすること」を、さらによりできる限りはやめようとするならば、「まだ起きていない未来の課題を未然に潰して利益創出すること」が社長や経営者の能力値を測る指標になるのではないかと考えるようになった。ただし、この能力は問題が起きなくなるのでうまくいってる感や修羅場をくぐってサイヤ人になったみたいな効用が得られないのが難点だ。本来とんでもなくうまくいっている状態は何事も波風立つことなくなぜか会社が成長している状態にデザインされていることのはずで、そうなっている場合なんか目立つことがなくなるというのが面白いところで、自分が目指しているスタイルはおそらくそういうことなんだと思う。じゃあ、いつのどのタイミングの課題を未然に解いておくのか。

 

なんとかする力が会社経営者にとって最も重要になるのはそれはオーナーである自分が「いつまでに何をどのようにしておきたいのか」すらも変数として扱うことができるから、で解答になると思っている。

つまり、問題そのものや課題そのものを「そのままにしておく」ことすらも選択肢として持ち得ているということだ。

会社の成長はなんのために行うのかについて、100人の社長がいれば100人の考え方がある。もちろん、自分の考えに近い会社で働けばいいのだが、資本主義社会にはしっかりと競争環境というものがあり、しかも今はグローバル競争主義なので、想定できない相手といつのまにか競争になっており、会社の生産性で負けるといったことが起きかねない。そうなると、長い時間軸で経営することを目的におけばおくほど、生産性を高め続けなければ、あるいは変容し続けなければ見えない敵に後ろから掻っ攫われてしまうのではないかという恐怖と戦い続けることになる。

いまの社会がM&Aによるイグジットが流行り始めているのは、経営不安によるところが実のところ大きいのではないかと考える。事業やプロダクトや組織自体が、長期的なものではなくプロジェクティブになればなるほど、会社を10年20年成り立たせる難度が高くなることが想像できる。この問題は採用労働市場の変化によっても説明がつくので、後述することになると思う。

そのような諸条件を統合的に踏まえた上で、どのような組織モデルが長期で生存できるかについて考えを巡らせて、ベストだと思う選択肢を打ち続けることが必要不可欠になる。その際に、目標自体を高くすることも、低くすることも、下方修正することも当然、「選択肢」に入っている。ただし、その合理性を説明できなければただ逃げているだけになる。

ただ考えとして持っておくべきだと思うのは、「いま暫定的に立てているアクションプランの正当性が、必ずしも正しいとは限らないし、変更されることがあることを前提条件としてまず実行することがベターである」ということだ。これには一定のあいまいさ耐性が必要だ。でもそれも社会がどのような流れに従って動いているかを理解することによって、その変容が生存に寄与することを理解できるようになってくると思う。

 

 

なぜ目標自体を変数にすることを決めたのか.

第一期から自分がどのような尺度で事業を追っていたのかについて触れると、「10年で100億円の売上を立てたい」といったぼんやりとした目標設定をもとに動いていた。これ自体はあることそのもの自体が正しいと考えており、その目標の妥当性を疑うことをあまりしなくてもよかった。

その目標を達成するための考え方として、会計基準を知ればすぐに解決できる問題だと考えた。売上原価や責任やリスクに対してどのような考え方を持つのかによって、事業上のPLはすぐにサイズアップできることを知った。

しかしそのPLのサイズアップを行うことによって、先行的に納税資金が必要になることを知った。PL上では莫大な営業利益が出ているのにCFが悪化する可能性を考えると、この問題をどう解決するのかによって売上の計上方法が変わることを解かなければならなかった。

会社のCFは事業からマネタイズできることが明らかになった。元々は運転資金をどのように生み出し、長期借入や短期借入を組み合わせて資金調達をするかについて考えていたが、営業CFから資金調達が可能であることを考えれば、資本コストがかからずに済むようになるので資金調達のための収益認識の変更はせずに済んだ。

 

元々想定したプランが実現できなくなったのは、新会計基準が適用されることになったからだった。それがなければ実現ベースで納税すればよかったので、借入もできて一石二鳥だった。ベストから検討するとしたら、まずはそれを検討すべきだった。

自分にとってうっすらと決めた売上目標は「バイブスが上がるから」以上でも以下でもなく、それ自体の有効性は理解しながらも、それよりも優先したいことがなんだったのかを知る機会であることがわかった。会社を大きくしたいという気持ち自体はあまり変わらないが、会計方法によって売上高自体が変動してしまう中で、最適なビジネスモデルに沿った最適な会計基準と組織モデルを検討することの方が重要だと判断した。

売上高も営業利益高も低ければ低いほどよく、それぞれが低いのになぜか現預金が潤沢になっていくことが理想のモデルだと思ったからその方向で考えるようになった。当然、現預金が潤沢になればよく、BSの右側についてはどのような会計区分かはどうでもよい。そしてそれこそがミソだと自分は思う。

 

そのような志向背景を持つことが、この弱肉強食の世界で生き抜く唯一の方法であり、自分にとって折り合いのつく結論だ。つまり、キャッシュがあることがもっとも生存できる方法ということだった。あらゆる交渉の優位性は、現預金によって決まる。ポーカーと一緒。

そうであれば、精度高く利益創出する強固なビジネスモデルをどこよりも参入障壁高く持ち続けることが重要であることがわかってくる。その強固なビジネスモデルの秀逸性を持続するために労働集約的に頼ってしまってはダメだし、知識や技術の集約によってしまった単純なモデルではすぐに競合が参入してきてしまう。どのように強固な壁を構築するのか。これが組織モデルを考える上で最も重要な考え方だった。

 

自分の出した結論は、「事業モデルの複雑性は組織モデルの複雑性によって構築するべき」ということだった。それは「同質的な価値観で統一された人間関係が、多様な適性によって能力の最大化を図れている状態」を意味する。

 

100億をどのような組織で達成したいのかと言う問いに帰結する。1人、10人、30人、100人、1000人。当然、人数がすくなければ少ないほど1人にかかる責任範囲や問われる能力の高さが上がる。関わる人間の数が増えれば増えるほど再現性が増していくのが通例だ。

 

そうであれば、社長の持つ未来の課題を先に解決することの正体は、
「できる限り未来の組織のあり方を現在に引き戻して組成しておくこと」になる。

その組織を作るために適したビジネスモデルを検討することとなる。そして今ここに5年間もの間したためてきた考え事をネタバレさせているのは、今の自分は「間に合った・・・」と感じており、「能力的に真似できない」「今から真似しても真似しにくい」ということが言える。それから、この文章を読んで真似できる人は遅かれ早かれ同じことを考えるだろうし、そのころには自分もより精度高く社会を透徹しているので、現在の認識を書くことのリスクは思ったよりないなと考え始めたのが大きい。自分は結構いままで「あ〜これパクられたな〜」みたいなのはたくさんあったけど、パクってそいつよりうまく行かせることは原理的に無理だから、創造性を高め続ければ気にすることじゃないという気持ちにはなってる。

 

今の僕たちが未来の社会から問われているお題は

「できる限り正社員雇用人数を増やさないまま属人化せずに組織を大きくするにはどうしたらいいか」ということ。これは桃源郷のことを言っていないか?という気持ちになるかも知れないが、本質的にはそういうことになる。

 

解は2つ

・採用労働市場の変化を読み取ること。業務は今後ますます単純化し、スポット化し、低賃金になることを踏まえた業務プロセスを設計すること。

・AI agentを活用可能な実業を持つこと。

 

令和の起業家に求められる資質は、「業務プロセスを分解してメソッド化し、疎結合の状態にした上で、それぞれの工程を誰でもこなすレベルまで落とし込むこと」「コア業務とノンコア業務を設計し、コア業務が競争優位性を生み出すまでに深化できるような分業形態を取ること」

変容型の組織に求められる適性な配置は、可能な限りの疎結合による各業務のプロセスが、代替可能なギアとして成立させることができること。その疎結合の管理運営がコア業務であり、代替可能なギアがオペレーションとして再生成されたとしても高度に運用可能な実務能力を持つ人材かどうかが採用基準になるということ。

 

ハンターハンターでいうと自分は特質系に該当する。特質系はモレナが言うには苦手系統がないので、複雑な発の習得にチャレンジができるというものだが、おそらくこれが社長あるあるなんじゃなかろうかと思う。優秀な社長の割合や10年生き残る社長の割合が人口の0.033%(3000人に1人)だったとして、自分は納得できる。

特質系の能力者が卓越した発を習得してしまうことのデメリットは、念系統には元来得意不得意があることを留保しない点にある。強化系能力者に具現化系の能力を求めるというのは、「営業に特化して強い人材をエンジニアとして配置転換する」くらいの愚行であることに注意しなければならない。社長になりやすい人は大抵「営業がバカ強いエンジニア」のように、常人が両立させない念系統を習得していることによる優位性が発揮されているように思う。自分は営業もエンジニアも向いていないが、概念を捉えるのが比較的得意で、ごまかしが効くのが強みだ。

人の適性を科学する力は自分が卓越しなくても、世の中的に科学されている。SPIやMBTIといった水見式をすれば、自分がどの念系統に属しているか理解できる。自分はENTPが主軸で、その時の状況や精神状態や必要性に応じてENTJに変化するタイプであることがわかっている。これはPとJを状況に応じて使い分けているということをおそらく意味していると解釈している。

 

 

ビジネスモデルに最適化された業務プロセスがそれぞれの履行状況をモニタリングできるようになった時、次に待ち受けている起きる事象は「KPIを達成すると目標が達成される」という現象が起きるということだ。残念ながら自分たちはまだそこに至れているわけではないが、再現性の正体はそういうことになる。アクションプランまで落とし込まれたそれぞれの履行状態が100%の時、理論上目標は達成されるはずだ、という状態になるまで高度に設計された業務オペレーションがあれば、次に設計されなければならないのは人材評価になる。

 

 

人材評価を年功序列で設計するためには、ビジネスそのものが「継続すると複利で利益が上がり続ける」ということを前提にしていることに気づかなければならない。自分たちのビジネスがそのように設計されているか、もしくは一人当たり生産性が高まり続けることが期待できるビジネスモデルになっているかどうかが重要で、その未来が描けない段階で人材評価の設計をするのは難しい。現時点ではどうしても「おれのことを信じてくれ」になるし、なにも基準がない中でエンゲージメントや貢献性に応じて自分が給与差配することになっている。その状態が不健全であることを認めながらも、制度として設計するにはまだまだ明らかにしなければならないことがいくつかあるということを理解してもらうことが重要に思う。むしろ、その設計段階から入れることに魅力を感じてほしいといっておきたい。

 

 

自分がどのような未来の潜在的な課題に取り組んでいるかについてようやく書く。

「労働が消滅していく世界で最後まで職業選択の自由を持ち続けること」

2025年からドラスティックにAIがソフトやハードに連結され、業務の自動化が進むことが高確率で予想される。自分たちはその恩恵に賜りながら組織成長をしていくチャレンジャーであって、決して大手企業に全ての業務を奪われ続ける哀れな弱者ではない。

その意味するところは「AIを活用して業務を奪い続ける側に回ってしまう」ということだ。それをいいとみるかわるいとみるか、解釈が間違っているかは人によって異なると思うが、2020年のことから一貫してこのテーマを回避するためにビジネスモデル検証を本当に行っていたのだ。

実業に接続しやすい業態から参入することができなければ生存余地のないことは最初からわかっていた。サービスや特殊なウリを持たない労働の代行といった役務提供によって成り立つビジネスが必ず終焉することは最初からわかりきっていたこと。だけど、実業においてさえ必ず労働が存在していることを思えば、本質的には「生産と販売」は人間がモノを必要とする限り残り続ける業務であることは間違い無いだろう。あるいは、介護や保育といったエッセンシャルワークなどであれば役務代行によって成立しているマーケットであるので必要性は残るだろうが、その業態の生産性は付加価値提供もしくは助成金支援(公的資金の注入)ができない限り賃金補償されない。自分は労働価値の分配として介護や保育や教育は公共ビジネスとして公務員化していくのがいいんだろうなと思っているけど。

 

AIという恐怖に常に怯えながら、本質的にはAIを使う人間との競争であることを踏まれば、後発で参入してきた企業に倒される心配は無いだろう。今の社会では大手こそもAIを使ったビジネスモデルの組成に躍起になっているだろうが、労組や反対勢力を保有してしまっている手前、大胆な改革に手が出せないのが実情で、そんなこと偉い人たちなら10年前から分かり切っていたこと。だけど、創業社長でないことの弱みは「究極的には関係ない」ということによるやんわりとした怠惰が足元を掬う。

 

 

労働の選択自由と、高収益を併せ持つ組織をつくることができた場合に訪れる恩恵は、「自分がこの人と一緒にいたい」と思える人たちに囲まれて生活ができることで、将来を考えるとどうしても「雇用機会を持つ社長に更なる権力が集中する」という見え方しかできない。いくら人手不足だとかリモートワークだとかなんだいったとして、デスクワークの未来は悲惨だ。そのことにはやく気づいた人たちから着々と準備しているし、自分で創業する資質がないのであれば、気の合う社長と連帯した方が生存確率は飛躍的に高まる。自分が間に合ったと思うのは、事業の未来を踏まえても生き残る可能性が相対的に高いことを確かめているからだと感じる。2050年の自分が相対的に有能でい続けられると想定するのは無理がありすぎる。自分が食いっぱぐれないようなスキルを身につけることが自分にとっては売上高を早期に構築することよりも重要だった。

 

 

自分たちの商圏にいる社長には大抵「こんな提案きいたことがない」と言われるくらい秀逸なモデル組成に成功している。それは法務や財務や営業やマーケティングといったそれぞれの各論の中で、キャッシュフローを成立させることに執着することができたからといってよい。そのモデル成立の複雑な過程を考えてみれば、当然の結果と思うかもしれないが、自分たちは全て手探りで検証してきた。その結果が今の結果をもたらしているのであれば、完全未経験から事業開発をすることに成功していると思える。そうであれば検討事項は同じなので、別業態や業界に対しても同じようにビジネスを成立させることができる手応えを得ることができる。おそらく考え方は変わらないだろうから、残す重要性は「そのビジネスが成立するまでに必要なキャッシュはいくらなのか」ということになる。現在販促している新規事業は、本業がなければ成立させることのできないことは想像に難くないし、今だって営業販促しながらビジネスを成立させようと躍起になっている最中だ。ビジネスの完成にはもう1年はかかりそうだが、来期の成立が間に合えば、それ以降の事業発展は飛躍し続けられることが予想できる。来年も利益創出しながらも、あと1年また下ごしらえか〜と思うと結構なしょんぼりであるんだけど、今までよりもはるかに楽しい時間を過ごせていると思う。

 

 

 

自分の認識が間違っていたことについて書く。

創業から一貫して、「自分たちが一緒に居続けるために成長し続けないといけない。だから、厳しいことも言わなきゃいけないし、変化し続けないといけない」って、そう思っていた。

だけどひょっとすると「組織が変化したり、自分の立場が変わったとしても、一緒に居続けてくれる人はいるのかもしれない。もしかしたら、その人たちに居場所を作ることが自分が今しなきゃいけないことなんじゃないか」

というふうに考えるようになった。これからの未来を思えば思うほど、強くなくったって、一緒にいたいと思ってくれる限り、自分が守らないといけないし、そのために強くならないといけない。今はそう思うようになった。

極端な甘えや依存がなく、一緒にいるためにお互いの持ち場で活躍する信頼関係を増やしていきたい。そのために強くなるのになんの苦しさなんてないと思えたら、自分の果たしたい未来の組織が見えてくるんじゃないかと思う。確かにそこには非情な意思決定に見えることもあるかもしれないし、厳しい制裁が同時に必要かもしれない。だけど総じて思うのは、それはあくまで会社の人格で必要なことだということ。何があったとしても、最後の最後に自分がその人のことを許していさえすれば、それでいい気がする。

それを自分は漢気と表現しているし、そういう人間になりたいと思った。

 

 

リクルートで活躍した大沢武志氏を大先輩と呼ばせていただけるとするならば、個をあるがままに生かすに込められた意味は巻末のこの一文に現れているのではないかと思う。

「心理学的経営にとって大切なのは、キレイごとではすまない現実の世界でアンビバレントなコンフリクトを受容し、それを乗り越えるヒューマニズムではないだろうか」

 

辛い時に前職の言葉に救われる時がある。

「まだここにない出会いに期待しよう」

 

 

自分は、本質的には売上利益の高ではなく、それに付随して得られた信頼関係の総量を追っている。