世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

叶わない夢

 

喪失とは、価値観のアップデートだ。

ポジティブに捉えるならそうなると思う。

 

 

僕は人よりも物事を悲観的に捉えやすいタイプだと思う。
人よりも答えを出すのに時間がかかるタイプだし、自分の認識に対して懐疑的な人間だ。いや、そうなってしまったと言った方が正しい。

 

 

僕にとって会社を大きくするということは、自己認識の誤りに気づいていくプロセスのように感じる。なぜならば組織は、会社は、社会との利害調整をどのように行ったかによって利潤の最大化が期待される。社会に求められる利害調整の最大公約数をシステムとして包括的に捉えたときに、会社は拡大する。大抵の場合、自己認識が間違っていたことを認めることによって拡大の兆しを捉える。

 

 

他方で、自己認識の誤りに気づくということと、創業した会社をどうしたかったのかという点、理想を追求するという点で矛盾が起こる。この矛盾こそが、意思決定の歪みをもたらし、悩み、苦しみ、間違った判断を招いている。

 

つまり、出発点が間違っていた場合、継続の意思をどのように保つのかという究極的な問いに戻りかねないのだ。

 

「左派は資本主義に向いてない」僕はそう思う。

学生時代から、自分は比較的左寄りの人間だったと思う。しかも、その左寄りの発想が稼ぎを生み出すという点で相応しくないかもしれないということもまた、おそらく大学生のうちからうっすらと気づいていたことなのかもしれない。

 

自身の持つ価値観そのものが、欲望との接合点になかった場合、もれなく葛藤に堕ちる。社会に適応することの難度が高くなっていることを実感する。

 

 

だけど自分は、今思えばその手の悩みを「生きるためには仕方ねえ部分もあるだろ。じゃあお前はもう一生社会構成員にはなれねえだろ」と一蹴できるタイプの人間でもあると思う。この社会そのものが悪意駆動ということに対して、しかたないで済ませられる程度には理解があると思う。でもそれは、なぜそう思えるかでいったら、「たまたま自分が能力的に言えば比較的上位レイヤーとして生まれ育つことができた」と自覚しているからだと思う。客観的に言えば自分は怖れられるタイプの人間だし、マッチョなことを言うタイプだと思う。そんな自分が「思想でいったら労働党寄りだし、保守層って感じでもない。」って言ったら驚かれるかもしれない。

 

これは自意識の問題なのだ。なぜそのような自意識のねじれが起きてしまうかで言えば、理由は一言で表される。つまり、

 

成熟した社会では、どんな能力を持つ若者ですら相対的な弱者であるから。

 

その構造を認識している。少なくともそう思う。

 

その中でも、「究極的な競争に身を置く」ことを決断したということでもある。これは正直普通の決断じゃない。よっぽど深刻な悪意を孕んでいるか、よっぽど誠実かつ相当自分の能力を過信していないとできないことだと思う。おそらく自分は後者だった。

 

高い能力から繰り出される成熟社会における付加価値へのこだわりは、組織拡大に悪影響を及ぼす。自己認識と社会認識のズレが引き起こす諸問題は従業員を困惑させる。

 

会社拡大は大まかにいって採用と事業二つのマーケットから価値を認められることが重要だ。正直うちらのようなサイズの会社が採用マーケットで選ばれることの難度は鬼高い。
労働集約ビジネスが個人の能力に依拠して成立するとするならば、その個人の能力が付加価値要素になると認められない限りは品質の維持ができないことを意味してしまうが、そもそもそのようなフィールドに品質で競争優位をもたらすことを兼ねてより企画してはいけないのだ。当然創業メンバーは気が狂っているので、その手のマーケットでトップオブトップの品質を出すことくらいできなければとても起業なんて博打を打ってでないだろう。だけど現実的に採用できる人員構成のことを鼻っから検討もしていないことも同時にある。

 

高い品質を維持することの難しさと、顧客定着の難しさを同時に学習する。理想論で言えば顧客定着のその割合が高ければ高い方がいいに決まっている。でもなぜ現実的にそうなっていないのかをもっと深刻に考えるべきだ。「自分であればその課題を克服できるのではないか」という安易な驕りが、成長を妨げる可能性を考慮していない浅はかさをまず呪うべきである。