世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

社会の終わりとハードボイルドワンダーランド

未曾有のパルプンテに備えることが一個人や一法人にできるのかどうかわからないって状態が続いているので、この文章がある種の預言書となるように、備忘録として書いていこうと思う。

 

 

 

大学時代の同期が外銀に勤めていた。最近話を聞いたところによると、米ドルを中心とした第一世界は相当ミシミシ言っている*1らしい。その証拠に今日も今日とてレイオフが旺盛だ。

 

もちろん、彼らはそのような経済リスクがあることを承知でキャリア形成しているはずなわけだが、基本的には経済成長性があって、それから資本収益性*2があるというのが常だ。もし経済成長性よりも資本収益性の方が優位に収益率を改善することができるとするならば、それは将来の経済成長性をアービトラージをしている期間にすぎず、将来期待された経済成長性を下回った際に一気に不況に突入するのは推して知るべきだろう。

 

 

では、この経済成長性gはどのように成立しているのか、ということが重要になる。結論から言ってしまえば、自分はここに結局労働価値説が存在しており、人々の労働生産性が経済成長率を下支えしていると考える。

 

この労働価値自体が下がってしまう原因はいくつかあるが、代表的には「代替手段の台頭」と「勤労意欲の低下」によって簡単な説明がつくように思う。

代替手段の台頭は生産手段の進化と多様化である。これはソフトウェアによって巻き起こる業務効率化と自動化である。ことwebやIT系において言えば、単純業務であれば常に代替手段が存在する時代になっている。機械化や自動化について最も先に導入されるのは有形製品の生産においてだろう。

第一次産業と第二次産業の生産効率があがっていることがおそらく経済成長にとって特に重要なレバーであるはずだが、資本を中心に据えると短期的にその指標が意味を持たなくなる感触がしてくる。資本を生み出すという点において、お金がお金を生み出す資本収益rが重要になるが、それは「生産」と「貿易」が一定程度賄えている状態が保障されている点に限定される。

生産と貿易を支えるのは人口であるが、この人口にも生産年齢という奥行きが存在している。おそらく若手人員が多い健康的なピラミッド構成であれば、労働収益性を担保することができた、他方高齢人材が増えれば増えるほど、既存のビジネスモデルに対して、高い収益性を持たない限り労働収益性が落ちてしまうという人材版のジレンマ構造に陥っているのが現状だろう。ここから新しいものを生み出すのは文化的にとても難しい。この高齢社会+人口減によって、生産と貿易を下支えするメインプレイヤーがもはや「人手」ではなくなってくる、というのが2020年代を象徴する一つのテーマとなるだろう。

 

人手ではなくなってくるというのは、ダブルミーニングである。そもそも代替手段の優位性によって人手が不要になっていくと言う側面があるが、もう一つ、今の社会に巻き起こる人手がいらなくなることの意味合いに「業務の高度化」が挙げられる。おじさんたちが口を揃えて「お茶汲みをしているだけでお金がもらえる時代があった」ということを言っているが、まさにそれだ。

「先進技術を手段として学習していきながら、抽象度の高いコミュニケーションを取りながら定常業務を推進する」こと自体がホワイトカラーに生きる人々に余儀なくされていると言うのが、人手ではなくなってくるの真奥に見えている。
つまり、そんなやつは大量にはいないということだ。

おそらく全ての人々は来たるべきパルプンテを迎えたタイミングでドラスティックに人生が変動していくということにはならない。実際的には、ひょんな拍子で今の会社で務めていくことが難しくなった時に、緩慢なホワイト職への失業に見舞われることが確定しているといったところだろう。人生100年時代と言われ、年金生活が破綻している社会の中で、どうやったって50歳以降の仕事が今行っている業務の延長では絶望的に食えない状況の中で、僕たちはどう生きるのかという問いにぶち当たる。

先進技術を若者が学習する時、今までであればおっさんの圧力によって封殺できていた社会が、どうもそれでは通用しなくなるらしいという文化的要因から、世代間バトルが勃発し、我々の生きる道筋が潰えてしまうかもしれないといった心配事が今日も僕たちの脳裏を掠め、悩まし、これからの人生にぼんやりとした不安を残し続けるハメになるのだ。

そんな時に、人々は真剣に働くのかと言われ、「そりゃしゃかりきに働きますよ!!」という人間がいようもんなら、そいつらはなにか頭のネジがぶっとんでいるか、気が狂っているに違いない。僕たちのようなクソしゃかりきに生きてやろっかな♪の方こそが狂っているという事実は、自分には相当ダメージのでかい気づきだった。

 

とはいえ、これは国家の問題である。というより、割と限定的な世界の先進課題である。この問題に直面しているのはひょっとすると西側陣営だけだったのかもしれないし、ロシア中国を中心とした第二世界*3は、もう少しビビットにその課題に直面している可能性もある。

若年失業率が相当高い可能性があるという話は、中国人オーナーの社長さんが言っていた「ECは996で月10万円で働く」と言っていた本当にあった怖い話からも察することができる。9時-21時の勤労を週6勤務で月10万円で行っている中国人が本土には大量にいるらしい。
あの人口でそんな暴力的な労働が罷り通ってしまったら日本経済が大丈夫なわけなく、対処の可能性として存在するのは「それでもホワイト職で働きたいがために労基法的に違法な996を受け入れる」社会であるが、自分個人の見解として、日本はなんかそうはならない気がしている。
理由は、「自国の未来に希望があるかどうか」によってハードワークを許容できるかどうかが決まっているように思えているからだ。中国人がその働き方を許容できているのは「将来に月100万円以上の物販オーナーになれる可能性が高い」と踏んでいるからだ。日本にはあまりそのような未来は想像できない。

他方、日本人はとにかくフリーランスになりたがる。フリーランスはとにかく大変だし、社会的地位でいうとアルバイトパート領域と同じく相当低い位置になってしまうことは認識として間違ってはならない。
なぜ日本人の、特に男性がフリーランスになりたがるのかをよくよく考えてみると、自分の仮説としては「日本男子はそもそも他者と協働して何か新しい価値を生み出すということが根本的に苦手な民族だ」というふうに言えると思う。
自分たちはあまり馴染みのないことであるかもしれないが、百姓という身分は根本的に「村のコミュニティに順応して、その相互関係によって生産性を高めている」というわけでは決してなく、むしろ、個人個人が土地を所有もしくは借り上げて、家族ないし一族として農耕するというのが一般的であったということだ。

正社員という雇用制度が日本には存在しているが、そのようなメンバーシップ型の雇用形態がなぜ成立していたかと言えば、先に書いたように業務がもう少し簡単だったことに加えて、戦後の高度経済成長期において、製造業が生み出す雇用の裾の広さと、協働を必要としない業務工程に究極までに分業してきたがゆえに、気難しい日本人と特性を抑えた発展を迎えることができた可能性が非常に高い。和犬は本当に気難しい。いわんやである。

協働が必要とされているホワイト職が苦手なのは、そもそも協働を重視する民族では意外となく、世俗的で超個人主義的であるがゆえに、「責任を誰かに押し付けて生きていくことが生存戦略として至極有効に機能することを生得的に理解している」からという残念な結末となる。フリーランスが増えるのは、職人気質の人間が多く、利潤追求という会社の合目的にそぐわない人々が多数派であるからといえると自分は考えている。

 

 

これからの日本社会や世界を考える上で、「超個人化していく社会」という考え方はおそらく回避のしようがないと思う。生来的に日本人は宗教的なバックボーンがなく、個人の利益を第一義的に信仰しているので、超個人化する社会*4との相性がすこぶる良い。

 

社会民主主義のさきがけ的存在として日本が代表モデルを構築する可能性は否定できない。おそらく段階的であるが、今の自由民主的な経済を表層として残しながら、大多数の人間が社会民主的、もう少しいうと生産や貿易という経済の根幹を担う職業については政府主導で展開していくと予想できる。その場合の雇用は守られるが、労働時間は週休4日という相当限定的な形となるだろう。労働対価はベーシックインカムのような方式で配給されるようになり、時給換算すると労働階級よりも高いということが想定される。それがEUやアメリカよりも先に日本の方が先に確立するだろうと思う理由は、その発想に抵抗感の最も少ない民族だからと言えるだろうか。

 

社会はもっともっと分断されるだろう。むしろ、その分断をひょっとすると僕たちは望んているのかもしれない。SNSが発展することによって、相対的な序列がどこまでも可視化されることによってみんな鬱屈とした自尊心を抱えてしまった。それを皮切りに、間違いなく労働階級と消費階級は区分されるようになる。これはもしかすると2020年代には実現してしまうかもしれないが、消費階級は労働を撤廃されているかもしくは先のように単純かつ政府が管理している生産や土木インフラのような仕事に直雇されていき、かつ自由経済を信望する層に対しては税制優遇をするといった措置になっていく。そうなると根本的には法人税率は上げることなく、個人消費や消費税率が上がっていくのはやむを得ない形になっていく。

 

 

 

労働階級は基本的には自由経済を信仰するが、消費階級をバカにすることで溜飲を下げる存在となり、一番不憫な存在になる。この層のマジョリティに僕たちゆとり世代がフィットするのは免れられないが、僕たちの標語は「真面目に勉強して真面目に就活していい企業に就職することができれば、自分たちは社会的地位の高い安定した職業にありつけるはずだ」というパワーワードであり、最も搾取できるしされるとみなされてしまう存在である。彼らはどれだけ搾取されようと自分の信じた人生設計を信仰するので、夢から覚めることなく絶望することが確定している。彼らがどうしてそのような憂き目に遭ってしまうのは、「誰かの責任で生きていくことが最もコスパが良いと生得的に理解してしまっているから」ということになる。

 

新しい士農工商は投経労消*5だ。農工に携わる雇用者と被雇用者はいつの時代だって不憫な存在であることに変わりない。これでなぜ暴動が起きないのか、全くもって疑問にしかならないが、みんなで一斉に仕事をやめることが許されたら良いのに、とは常々思うところである。

ただし、これがベースな生き方に仮になるというのは、現行技術進歩がそこまで発展しなかった場合においてだと自分は思う、この多次元的な未来の存在が、予測を困難にしている。もう少し長い時間軸で、2040年以降はどうなるのかで言うと、テーマは二つだと思う。

・AGIによる労働の消滅

・エネルギー問題の解決

OpenAIの創業者であるサムアルトマンの見ている世界認識が、おそらく最も未来を予言しているだろうと自分は思う。

エネルギーの供給が解決されるというのは、生産にかかる原価が限りなくゼロに近づいていくということを指している。AGIやAI、ロボットによって生産効率が♾️に近づいていくとき、モノの価値は極限までに下がっていく。そうなると付加価値を生み出す要素が自然に消滅していくようになる。もちろん、趣味嗜好として残るには残るのだけど、大多数が湯水のように湧き出るエネルギーを元手に、AIが製造するという時代になるし、一家に一台の核融合発電装置といった時代や、アンドロイドが小型核融合装置を心臓に自走し、耐久年数も100年を超えるといった時代が、全然生きている間にしかもまあまあ高確率で訪れることが期待できる。*6

 

そのような社会において「増えすぎた人口を減らすべき」という意見が出てきても仕方ないと思うが、もし我々が粛清されずに済んだとするならば、もしそのような未来で過ごしていく上で新しい精神的な富を享受するために自分が言えることがあるとするならば、

「そうした新技術の個人所有が実現できるようになった際に、キャッシュで買えるくらいお金を貯めておきなよ」という暴論になる。

自分はフィジカルがほぼ人間に近く、知能が人間の100倍を超えるようなアンドロイドがアルファード一台分の料金体系になった時に社会が根本的に変わると思う。その未来の働き方を想像することは自分にはできず、働かなくても良くなった未来の新しい労働は何かよりも、大量の時間を何で消費するのかについて今から思いを張り巡らしていくのが良いんだろうと思う。そう考えれば考えるほど、今の限定的な社会の価値基準で生きていくこと自体が全く見当違いであり、子の教育においてできることでいえば教育をせずに柔軟な考え方を持たせてあげることまでであると思ってしまう。

 

そのような未来において、しかもおそらく自分は、子を産み育てるということよりも、自己複製が流行るように思う。子供を生み出すことよりも容易に自己複製ができるようになってしまった社会、それも、エリートを中心にそのようなことを仮にしでかすようになってしまった時に、いよいよ社会分断はまた別の次元での戦争状態になるが、おそらく能力を持たない弱者は淘汰されてしまうだろう。その可能性が否定できないんだとしたら、自分たちにできる準備は筋トレくらいかもしれないが、手からビームをだしてくるような連中に勝ち目はないので、泣きながら死ぬしかない。そうならないように準備をしておけることがあるとしたら、新技術をキャッシュで買える資産という結論になる。

正直、その先の未来においてどのように生きていくかとか、今の価値観をどの程度持続的に維持するかとかって、実際のところ超どうしようもなく考えても仕方ないことっぽくて、だけどひょっとしたらなにか準備がまかり通るんじゃないかって一縷の期待に想いを馳せたくて仕方なくなってしまうのは、浅はかな人間らしいなと自分でも思う。

 

 

できることとしたら、ファンタジーな未来が現実的にまじで到来するってことにわくわくしながら、その時代の訪れに備えて、どの道中の今をどのような時代にすると良いと考えられるかを考えることが、ある意味で自分の使命のようにも思っている。仮の答えは、モノの価格を下げることだと感じている。まあそりゃ、99%人間のアンドロイドをアルファード一台分で販売もしくはリースする事業ができれば、僕の人生は最高なんだけど。

 

ヘビロテしてた曲載せる。*7

 

 

 

 

*1:米ドルを基軸通貨とした西側諸国のこと。FRBの金利上昇と合わせて米銀行は破産の危機にあるように見えている

*2:ピケティのいうr>gを元に。資本収益率rの効率を資本収益性と語るそれに対して経済成長性は経済成長率gのことを指す

*3:ロシアは実はBRICSという第三世界との戦略的な結びつきが異常に強い。中国を別として、ロシアはこの第三世界を味方にするという点で西側への最終的な対抗手段とみなしているはずだ。歴史的な因果律でいえばもちろん第一世界VS第三世界の代理戦争をロシアウクライナで実現しているという点で相当次世界のリーダーシップをとっていると言えるかもしれないし、そのようなロシアに協調する国々があることに特段の驚きはない

*4:超個人化していく社会を悪しと捉えるかどうかは正直わからない。ただ組織を持続するという点で悪影響があるのは否定できないだろう。個人の所得や所有財産が仮にどんなに少なくなり、どんなに社会的地位がなくなったとしても、不自由で隷属した人生よりも超個人化することによって生存していくのだという発想の方を信じてみようと考えることが間違った考え方だといいたいのは、既存体制側の理屈だと自分は思っている

*5:投資家・経営者・労働者のさらに下層に消費のみを担う人員が増えていくと自分は想像する。

*6:多分、人間の寿命も相当伸びることになるから、今の自分たちにできることは、なるべく致命的な病気にかからずに健康に暮らして、寿命を伸ばすまで生き延びるって感じになる

*7:これ読んでた時もきいてたから印象ついちゃった

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