世界の輪郭に溶ける

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好きっていう気持ちは全くあてにならない話

 

「なんで結婚したんですか?」「なんで付き合おうと思ったのですか?」みたいな質問の回答にはおよそ「好きだったから」が選ばれることが多い。僕たちはなぜかこの好きという感情に対しては幸福を呼ぶ壺と同じくらいの信仰を寄せている。

正直に言うと、僕は好きとかいうなにがしは全くあてにならないと思っている。

 

最近の僕はなんとなく恋愛を強いられることが常態化しているな〜と思いながら生活をしている。きっとクリスマスが近いからなのだろう。近所のお祭りで大勢の男子が神輿を担いで汗を流している。それを横目にフランクフルトを頬張るタイプの僕は、恋愛祭りに消極的な毎日だ。

 

例えば女の子とご飯を食べに行った時、「もうしばらく彼女なんていないよ」なんていうと「ええ〜どうして〜〜」というAI的なご反応をいただく。そのお礼といわんばかりに、AI的にキザな小童を演じてやろうと思い、「好きとかもうよくわかんなくなっちゃったんだよね〜」といってあははと笑う。

 

何回か「好きとかいう感情は全くあてにならないものだよ」というテーマを壇上にぶちまけたことがあった。今からこのテーマでディベートしたろって思ったとしてもどん引かれるのが関の山だった。その経験から「こんなテイストで伝えておけば、とりあえずなんか深みのある余裕系男子ぶってるヤツぶれるな」みたいな打算を企てるも、特段採算があるわけでもなく、その振る舞いは虚空を描くばかりだ。

 

 

結論から言ってしまえば、好きっつーのは建前の話だと思う。なんでかって言われたら、「自分の経験上、何人かに対して好意を持ったことがあったから」ということになるのだろうか。あるいは「一度に複数の人に好意を持ったことがあるから」ということになるのだろうか。

もちろん、他者に抱く好意の気持ち自体は否定するつもりはない。そうではなくて、恋愛において、好きという気持ちがあてにならないということが僕にとって重要なテーマのように思うのだ。それがなんだろうな、例えば恋人関係になるとか、夫婦関係になるとかそういう人間同士の関係を繋ぐファクターとして、好きという感情はあまりに脆すぎやしないかしら、と言いたいのだろう。あくまで一般論として。

 

仮に1組のカップルがいたとして、そのカップルは両者の好意から恋仲になったとする。大抵2年もあればその口約は破棄されており、どちらかあるいは両方から漏れるのは、相手のダメなところだ。その程度なのだ、好きという気持ちは。オセロのようにいとも簡単にひっくり返るのがミソなのだ。だからかろうじてできることといえば二つで、僕が盤面にしこたま丁寧に並べた白の碁石を、たった一手の悪手によって全てひっくり返されないように慎重を期すしかないのだろう。あるいは振られた後に「あいつはとてもいい女だったよ。僕がひっくり返ったんだ」と言えるか。

 

強靭なタフネスを持っていさえすれば、「恋愛とはね、自己成長の機会なんぞい」とかいって、修験僧よりも厳しい戒律で熱いムチ打ちを日々打ち続けることができるのかもしれない。それもそれで素敵なことだと思う。ただ僕は多分そこまで強い人間ではないと思う。

 

もしくは、恋愛というのは利害関係の話なのかもしれない。秩父三峯神社までドライブに行った時、助手席に座っていたある女性は「恋愛は可処分精神の奪い合い」と評していたが、言い得て妙だと思う。可処分精神とはとてもいい言葉だ。
結局のところ、「私はあなたの時間を不躾に奪うことが許される。その代わり、あなたも私の時間を奪っても良い。」という口頭契約を交わしているにすぎないのではないか、と思うことがある。精神と言ったほうが確かに正確に表現されていると思う。相手に割いている思考時間とそのストレスも含めることができる。もう少しわかりやすく表現をするならば、可処分時間なのだろう。大抵のケースでは片務的最恵国待遇となっており、特に女の子側は「あなたの時間は私のものだけど、私の時間は私の時間なのよ。そうでないと私は愛されていないとみなす」と思っているらしいことがなんとなく会話から透けてくる。

こっちは石油を持っているけど、相手はせいぜいバナナくらいしか生産していないとか。そういうこともあるだろう。潤沢な石油を湯水のように使い、別に欲しくもないバナナを口の中にねじ込まれるなんとも胃もたれのする話。。恋愛が利害関係で成立しているとしたら、全くもって貿易赤字だ。これではトランプも激怒するに違いない。僕たちは常にテロ撲滅という名誉活動に召される弱者の側に立っているのだと。

 

ああ、これが恋愛なのか。と思うとなんだか疲れてしまった。

 

幸いなことに、僕は今までの人生を振り返って、上記のような恋愛を経験したことがない。ひょっとしたら修験僧のような生活はしていたかもしれないが。
じゃあ僕がどうして恋愛をしているのかといわれたら、実はそれもまだわかっていない。今までの経験でいえば、少なくとも「好き」とかいう儚い繋がりだけで恋愛をしようとはしていないように思う。
とは言うものの、自分が恋愛において数え切れないほどの失敗をしてきた。その中でも一つだけあげるとするならば、「自分が好きだったのはその本人ではなく、僕自身が生み出した幻想でしかなかった」ということだろうか。

僕が相手に対して何かを期待する分だけ、そうならなかった時に苛立ちを覚えたり、不快感を抱くが、それは僕の思い描くあるべき像とギャップがあるからに他ならない。
実のところ、僕は一人の他者と対等な恋愛をしているようで、まるで独り相撲をとるかのような滑稽な経験しかしていなかったのだと。

特大ブーメランがぶっ刺さってしまってしまうのは、きっと僕だけに限ったことじゃない。ただ、その右頬を叩かれたかのような思いの後は穏やかに、そして謙虚に暮らしているつもりだ。それはそれはとても丁寧な暮らしである。

 

誇大な幻想を胸に秘めながら相手を思い通りにしようなどという駆け引きなんかよりも、「そういえばこの前の研修で村上春樹の話をしていたじゃない。それで久しぶりに読んでみようと思って、パン屋襲撃事件を読んだよ」と言われて、「それで、その男はスパゲッティを茹でてた?」みたいな軽やかな口ぶりでキザったらしいことを言っているのが好きだ。

あるいはパエリアを食べながら、一通りの過去の恋愛談に花を咲かせた後に「好きっていう気持ちは全くあてにならないね」と言ったときに「わかる」と言ってくれるくらいがちょうどいいのだ。別にネイルサロンに週一で通わなくても良いし、料理教室に通わなくたって良い。
日本社会が男性中心的で、その分だけ女性の生存を難しくしていることを棚上げにして話そうなんて気持ちは一切なくて。ただもしネット言論でバズっているようなフェミニン闘争とかジェンダー論争とかを槍玉にあげて攻撃をしてくるのであれば、「まずはあなたのそのゲタを脱ぐところからはじめよっか」というしかないのだ。話はそれからであって。

その点でいうと、戦略的女性性の活用について、思うところがある。僕はできることなら自身を消耗品か、あるいは商品のように取り扱って欲しくないなと思いながら、主体者として活動することもなく、ただ傍観している。それ自体が彼女らの生活のために仕方ないことだとしても、または、それ自体が職業であること自体にはなんら偏見はないにせよ、ただ自分のことを安売りして傷つくのだけはもったいないよなあという気持ちでいっぱいだ。

"女"を武器としないというのはとても難しい生き方だと思うし、強いることはしないんだけど、僕にとって、そうやって生きている女性はとても魅力的だ。

 

女性に限らず、優れた、あるいは強靭な精神でもって自立をしているか、もしくは自分自身の弱さに対して見つめ直すだけの器量がある人のことを僕は人間として魅力的だなと思う。その点において僕の中に男女の区別は存在していない。ただなんだろう。女の子、男の子だとして無意識に思ってしまう人と、男性、女性として認識している偏見は存在している。その基準は、傍若無人な自己愛を相手に押し付けているか否か、となろうか。

 

「そろそろ恋人の一人や二人でも欲しいナァ」とかいうそれらしい言葉を発したとて、まったくそのつもりがないことについては自覚的で、その理由は上記に書いた通りだ。だけど本質的には瑣末な、部分的なことでしかなくって、問題の大部分は、おそらく、深い人間関係をまた新しく築いた時に見えてくる自分の弱さと向き合わなければならないこと、それによって自分が傷つくことを極端に恐れているだけにすぎない。