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ビジネスにスピードを求めるのは何故なのか。

僕はどちらかといえばかなり慎重派なんだけど、発言の大胆さや元々持っている性格が災いして、「リスクのある人間」とみなされることが多い。

 

僕にとってはかなり不本意な結果なんだけど、人によって感じるリスクの度合いが異なるので、それは仕方ないのかなと思ったりする。
リスクの許容度は、リスクマネジメントのための試行錯誤の総量でしか増やすことができないからだ。

 

 

今の自分の振る舞いが正しいのかどうか、正直わからないところがある。
だからこの1ヶ月で行ってきた考察を、ひとまずここで棚卸ししておく。



僕が今回悩んでいたのは、「今の自分が一度立ち止まってしっかりと計画を引き直す」という行動は果たして正しいのかどうか。

という問いだった。


僕は会社を作ってから、自分の取る一つ一つの選択の意味合いと、その適切さをものすごく注意深く観察するようになった。
採用しかり、資金調達しかり、事業しかり。。。


例えば僕は、創業初期の事業計画時、「借入額は多ければ多い方が良いのか?」
という問いかけについて「そんなことはない」というふうに捉えて、選択を誤ってしまった。

選択を誤ってしまうことは、会社の代表としては致命的だ。何故ならば、無駄な労力がかかってしまうからだ。

僕がなぜ今ここで立ち止まって考えているか、でいうとこの非効率かつ報われない労働を極力減らしたいと考えているから、ということももちろんある。
ただそれよりも、強い組織を作っていく上で、「自分の取るべき指針にしたがってついていけば、自ずと成果がでてくるのだ」という信頼関係をメンバーと築くことができなければ、まずそもそも事業の拡大というものは為し得ない、というふうに考えたからだった。



自分一人でビジネスをしていくのであれば、素早く行動して素早く失敗して、次の検証に進んでいけばいいかもしれないが、そうでない場合、失敗を繰り返すのは往々にして現場だ。
失敗から学習をしていくということが仮に重要だったとしても、それにしたがって「本当にこの方向に進んでいいのだろうか」「また失敗するのではないか」という疑念が一度でも浮かんでしまったら、なかなか一歩が踏み込みにくくなってしまうということもあるだろう。同様に、部下が誤った選択を繰り返している場合、その人のいう「こうしたほうがいい」を素直に信じることは難しいだろう。

 

 

どこまでの不確実性を許容して、どこからが検証なのか。
検証から得られるアップサイドリターンと、ダウンサイドリターン
起こり得るアップサイドリスクとミニマムのwinはなんなのか。
検証に必要な試行回数は何回で、何回(何時)までだったら検証し続けることができるのか。

ここを僕とメンバーの双方で合意し合うプロセスが僕にとっては非常に重要だった。


その点でいえば、学んだことが一点ある。
「事業をしっかりと計画することができれば、それ自体が信用を創造している」ということだ。

事業計画は信用創造の第一歩なのだ。

 

僕のような慎重派のタイプは、スタープレイヤーのきらびやかな経歴ときらびやかなプレゼンテーションで勝ち得る「成長の期待感」の演出はむしろ不得意であって、「確実に事業計画通りに進捗させる執念を持つ」という点で、信用創造=デットファイナンスの方が相性が良いらしい。

逆にいえば、そうしたプレイヤーは株主にとってはもしかしたら「面白くない」のかもしれない。

 

世の中の人々がギャンブルという射幸心を煽られながら生きているのと同様に、
「成果がでないかもしれないが、成果が出た時にリターンが大きいもの」
を一定の割合で好む性向があるなと感じる。

そうした連中をカモって売上を積み上げていくのが「○○投資」や「不労所得」という甘言をささやく営業会社なのだろう。

日本人に限ったことではないが、悪魔のような契約を巻いてしまう理由の一つに、「自分は選ばれた特別な人間なのだ」という肥大しすぎて暴走してしまった自己愛にあるように思う。

 

それに対して僕ができることといえば「できる限りそういう人種とは関わらないようにする」以外のなんでもなくって、もっといえば「できる限り李徴のような人間を採用しないように見極める」ということが重要。

 

彼らは常に自分がギャンブルのwinnerになれると信じている。

 

慎重派の僕は、絶対にそんなことはないと信じている。

 

さて、ビジネスにスピードを求める理由はなんだろうと考えていくと、二つの力学が見えてきた。

一つはキャピタルゲインを欲する投資家の利確。
投資というのは不確実性がとにかく高い。ひとたび行ってしまえば、その後にできることは「急かす」「煽る」「脅す」くらいでしかないのかもしれない。
不確実性を極力減らしたいとしたら、利確を早めたいと考えるだろう。
そうして「スピードこそが重要だ」という甘言をささやくようになる。

「手伝う」「支援する」「応援する」ということが起きればよかったのかもしれないが、それぞれにトラップが仕掛けられていないか、そういう慧眼を持ち得ないとなかなかに難しいように思う。

もし起業家も同様にキャピタルゲインによる利確を急いでいるとしたら、彼らは強烈にフィットしているのかもしれない。従業員が幸せになれるかは、僕にはわからないけど。

 

もう一つは経営者の自我暴走。

先述の通り、スピードをだしたがる経営者の誤謬については、自分にとっては理解不能だったりする。
例えば経営状況が悪化しており、なんとかしないといけないが、なんとかしようのないような状況に追い込まれていた場合、しのごの言わずにスピードだ、となる気持ちは共感できなくもないが、日常的にスピードを重視している理由にはならない。

たとえばビジョン・ミッションの達成であったり、そういったものを成し遂げたいと思っているのだとしても、そうだとしたら「いつまでにどうなっていたらそのビジョンミッションが達成されると言えるのか」という点を教えて欲しいと思ってしまうのは性格が悪いだろうか。

 

僕は企業経営というのはゴーイングコンサーンであるほうが原理原則だと思う。
その前提条件は、どれだけの速度で成長しているか、ではなく「どれだけ持続的に成長しているか」が求められているのだと。

とした場合になによりもまず重要なのは、事業計画の達成であって、
事業計画の達成によって信用創造が発生すると認識されるべきだ。


というふうに考えていく中で、ビジネスにおけるスピードとはなんなのか。
ビジネス特性として「参入障壁が低く、市場変化が激しいので、スピードをだし続けないといけない」も僕からすると詭弁だ。
なぜなら、参入障壁が低く、市場の変化が激しいとしたら、その会社が求めるべきものは「スピードではなく変容」だと思うからだ。

 

というふうに考えていくと、スピードをだしたい経営者の自我暴走というのはつまり「相対的な指標における優位性の実証」なのではないかという仮説が思いつく。

 

「10年で売上が1000億円に到達した」

「市場最年少での上場」
「時価総額1兆円の企業」

そういうものを目指しているというのは、自身の価値や優位性を相対的な指標の中に落とし込んでしまう認知の特性からきているんじゃないかと僕は思う。


なぜそもそも一番になりたいのか。気持ちはわからなくもないが、そういうもので動かされて許されるのはせいぜい大学生くらいまでなんじゃないか。

 

はっきりいって、ビジネスにおける事業成長のスピードは市場の需要供給にしたがっているとしか思えない。経営者の能力によってその介在価値が証明できるとしたら、「伸びる市場にだれよりも早く気付き、株式会社というオペレーションをどこよりも早く構築し、事業計画を達成し続けた」ということだけでしかなく、

そもそも事業のドメインや特性、参入のタイミング、市場環境の違い、時代背景、タレントの採用、再現性のない大型クライアントの受注、などなど・・・一個人が絶対的にマネジメント不能な複雑な変数の中で、偶発性の極みであるアップサイドを意図的に創出しようというのが僕にとっては「おこがましい話」だ。

 

僕たちが介在価値を出せるのは、市場選定とリスクマネジメントだけであって、計画の見通し通りに進捗をしたかどうか、つまるところダウンサイドのリターンだけだ。


その計画の上振れは複雑な変数の偶発的なアタリを引くことができたかどうかで、そのアタリどころに張っておくバッファを設けることがなによりも重要なのではないか。

もし、アップサイドリターンを究極的に再現することができてしまったら、それはGAFAでも実現し得ないようなことを実現しているというふうにみなすべきで、それは「世界で最もお金儲けのできる天才」ということになってしまう。

 

 

もちろん、ビジネスにおいてアジリティは確かになによりも重要だ。
しかし、「売上利益/事業成長のスピード」というものをストレッチ に追うべきかどうか、という点でいえば、それが「自分たちの成し遂げたいことからの逆算」で設定されているべきで、「組織全体で追いたくなるような納得感」が重要だ。
根拠のない状態ではかえって停滞する。そういう状態の組織は慢性的に離職率が高く、ブラック的だ。


一周して、生存バイアス的に「一度立ち止まって計画を引き直す」ということは
僕の今後の人生においては中核となる生き方になるのではないかと思う。
誰よりも「計画を立て」「その計画を達成する」能力に長けた人間になることによって生み出される「信用」はビジネスの要だと信じていこうと思うからだ。