世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

わかりあえなかったから、せめて理解しようとしたかった。

 

小学生の時から、僕は明確に「自分は人とは違った人間なのだ」ということを自覚した。両親が離婚したからだ。僕と姉は、「自分たちが普通ではない」ということが他のみんなに気づかれるのを恐れ、「母方の性」になることを拒んだ。それについては母も少しは傷ついただろうが、それでも僕たちの思いを尊重してくれた。

 

今となってはなんとも思わないことでも、当時小学5年生の僕には、とんでもない大事件のように感じられた。「普通ではない」ということがどういうことなのか、まるでわかってもいなかったのだ。ただ、怖かったのだと思う。

 

最も仲の良かった友達に、"そのこと"について恐る恐るカミングアウトしたこともある。小学校6年生くらいの時だった。彼はその後も変わらずに接してくれていた。

それからの僕は、カルマを受け入れるために生きてきた。それなりに必死に。だけど、どんなに健気に振る舞っても、自分にはどうしようもできない「普通ではなさ」を突きつけられ続けてきた。とにかく僕たちは貧乏だった。

 

中学に上がって部活動を続けるのも必死だった。スパイクを買うのだって、バッシュを買うことだってできない。試合の日にはパンを買って昼食にすることも叶わないし、おにぎり一つコンビニで買うのだって難しい。かろうじて母が買ってきているお米を炊いておにぎりをつくり、それを持っていくという生活。母親は、出来る限り僕に余計な出費をして欲しくないようだ。

友達と遊びにいくにしても困る。みんなが携帯電話を使って楽しそうに恋愛をしているのだって、僕だけがまるで無縁の生活だったし、サイゼリヤにいく時は絶対に500円以内にしないといけなかったし、そのお金は「母親が貯めていた500円貯金」からくすねる必要があったし、着る服のほしさに万引きをしたこともある。
日々の生活費は、毎年もらえる合計2〜3万円のお年玉を崩しながら生活をする。


僕にとって、「それが普通」だった。これが僕の「ありふれた日常」だった。

 

 

出来る限り普通らしさを演じていく中でも、やはり僕は自分と他人が明確に違うということを受け入れざるを得なかった。そうした思春期を送るにつれて、日に日に心は枯れていく。学校のテストでどんだけ高得点を取ろうが、素行が悪いと見做されれば、内申がよくなることはない。私立に通うことなんてとうにできない僕にとって、内申点があがらないというのは致命的だった。
「どうせ自分は頑張ったって報われないんだ。頑張ることが許されていないのだ」という学びを得てからは、先生を見下し、喧嘩を売り、同級生がみんな馬鹿に見えて仕方がなくなる。我ながら相当やばいやつだったのは間違いない。今になってわかるけど、攻撃性が増していったのは、そうして自分を守ろうとしていたのだと思う。

 

やがて僕は、上記のような「普通ではなさ」を積極的に「他の人と異なる特異性」として受け入れていくことを切望するようになる。そうやってアイデンティティをどうにかして形成しないことには、生きた心地がしなかった。

 

そんな中でも、高校生になったらやり直したいことがあった。中学の時に辞めてしまったサッカーを、もう一度真剣にやってみたいと思ったのだ。

 

当時弱小だったサッカー部が0-14といった二桁スコアで負けるのが常だった中、中学2年生の新人戦の時、キャプテンと僕が次に試合を行うチームのプレーを偵察にしている最中、僕のチームメイトが、鬼ごっこをしているのを、他校生に「なんであいつらあんな負け方をしたのに鬼ごっこしてんの?」と素朴な疑問をぶつけられていたのを、真後ろで聞いてしまったのをきっかけに、ぶちギレしたことがある。

 それから次の月曜日、放課後に僕の靴がなくなった。チームメイトに捨てられていたのを友達が広い集めてきてくれたんだけど、「そんな連中とはもう二度とサッカーなんてできない」といって、僕は退部した。
幸い、香川から転校してきたばかりの、選抜候補のバスケ部の友達が、「そんなやつらほっといて俺たちとバスケしない?」と言ってくれた。僕はなんとか「部活動に所属」することができていた。

 

 


別に自分がもう一度サッカーをはじめたとしても、プロになることができないというのは承知の上だった。それでも、道半ばで辞めてしまったことに対する後悔が、僕の何かを駆り立てたのだと思う。ブランクがあったのもあって、しっかりと走り込みだけは頑張っていたし、どんなに辛いことがあっても耐えられると思っていたんだけど、

結局またしても部のメンバーとうまくいかなかった。

 

 

部費は少なくとも3万円はかかるらしい。ユニフォーム代や遠征費は10万以上もするらしい。スパイクやウェアや、試合にかかるお金を含めると、年間で30万くらいはどうやってもかかる。
僕は甘かった。それくらい、親なら出してくれて当然だと思った。親の経済状況についてはまるでわかっていなかったけど、それでも生活ができているということだけが、そのお金を供給できる希望となっていた。

でも、母親は僕が高校生になって部活をするのに反対した。
どうしてもやるなら、自分でどうにか捻出するしかなかった。生活費も、すべて。

週一回、居酒屋でのバイトを部活がない平日の17時からいれて、800円で5時間。4000円。部活動は週に6回あるから、稼げて月に16000円、暇な時には早上がりすることもあるし、なんとなく少ないような気がするバイト代の中から、7000円近くする携帯代をどうしても払いたかった。

そうすると残るのは9000円。それは全て生活費に回す必要があったから、どう考えても部活を続けられる状態ではない。

 

それでも頑張ったと思う。朝練にいくために6時には家をでないといけないから、くたくたになって疲れ切った状態から、昼のための弁当を作っていたし、そんな生活を半年続けた。唯一、授業中だけが僕が取れる睡眠時間のようだった。

でも、もうダメだった。まるでダメだった。

 

 

僕は部活を辞めて、次第に学校にも真面目に通わなくなった。

 

 

どんなに気持ちを切り替えて、頑張ろうとしたって、なんにも報われないじゃないかと思った。中学のときにも、高校のときにも、頑張ったって、なんにも状況は好転しない。僕が未成年というだけで。親という身勝手な存在から、不自由を押し付けられて育った。

 

そんなの、頑張ってなんになる?どうせ僕は高校を卒業したらなんとなくフリーターになるか、姉がなると言っている美容師にでもなると思った。ただひたすら、出来ることなら早く大人になりたかった。

 

勉強なんてくだらなくって、誰がなんのためにやらないといけないのかわからなかった。学校の先生とはいつも喧嘩をして、その度に、クソくだらない生活をしている馬鹿な教師に暴言を吐いたりして、停学になったこともある。

 

 

コンビニでアルバイトをはじめてから、僕は次第にそのコンビニに入り浸るようになった。ジャンプやマガジンを読んで、フリーターの夜勤の人たちとずっと談笑をして、2時くらいになって帰ったり、朝になってから帰ることもあった。途中で仕事を手伝ったりもしたし、夜勤のフリーターが12時になってもこないから、それまで働いたこともある。そんなときには店長のポケットマネーでバイト代をもらっていた。

 

朝までそんな調子でいるもんだから、学校の勉強もしなかったし、成績表に1が8つついて、このままだと進級ができないという状態にもなった。僕はそれでもよかった。サッカーをもう一度頑張りたくて入った、「それなりに強い高校」のその他の長所なんて特に見当たらなかった。自転車で30分はかかるし、雨の日には制服がぐちゃぐちゃになる。

 

このまま学校を辞めてやろう。それが最もいいアイデアのように思った。

僕はこの社会から爪弾きにされているのだと思った。

 

 

 

そんな時に僕をなんとなく救ってくれていたのは、小学生からの幼なじみで、一緒に弱小サッカー部にいた友人と、僕をバスケ部に誘ってくれた友人だった。
彼らは高校受験で早大学院に入学して、1週間がたった頃こう言った。「ここにはお前みたいに面白いやつがいっぱいいるぞ」

僕は心底後悔した。「ああ、中学のころにもっと真面目に勉強していたら、自分も自分と同じような同級生と友達になれたかもしれないのに」

 

幼なじみは、僕のことを頻繁に遊びに誘ってくれていた。学院が家から近かったのもあって、L組の子たちとも仲良くなったし、学院祭に呼んでもらって、2日間彼らのナンパ活動に付き合ったりもした。

 

僕にとって、それがなによりも新鮮で、とにかく楽しかった。

「ああ、自分にはしっかり居場所があったんだ」

そう思えた。

 

 

 

初恋の女の子が豊島岡女子に進学してから、前略プロフで仲良くなって、僕の働いていたコンビニにきて、アドレスを交換して、1時間半も入力するのに時間のかかる1万字のメールも、「震えるほど好きです」と告白されたことも、全部、今の僕を僕たらしめる原動力だ。

彼女もまた、兄がそうだからという理由で、早稲田に進学したいらしいことを知った。

自分はどうしようもなく惨めなやつで、これからフリーターにでもなろうとしているポンコツなのに、翻っては高校一年生のうちからしっかり進学を見据えて学校の宿題をこなしている。僕のメールに付き合いながら。
その比較に、どうしても耐えられなくって、あなたから逃げてしまったこと、今、また会えるなら、この情けない僕をどうか許してほしい。

 

 

だから進学しようと決意した。東大ではなく、早稲田に。

 

 

高校二年生、進路説明会のおっさんが欠席も遅刻も仮進級の成績も全部、関係なしに奨学金を借りられるということを教えてくれた。僕はその時から、自分の人生をもう少し長いスパンで見てみようと思った。まるでなにも思いつかなかったけど、ただ最近覚えた「モラトリアム」という言葉が、僕の何かを突き動かしたような気がする。高校二年生の時のぼくは「自分の可能性なんて今はまだまるでわからなすぎるから、大学4年間というモラトリアムがほしい」とただひたすらに思った。

 

それと、僕は今までのこの理不尽な世の中に一つ文句をいってやりたかった。
このクソみたいな社会に文句を言える権利があるのは、フリーターなんかじゃなく、このクソみたいな社会のレールにしたがって実績を出したやつだけだと思った。
少なくとも、早稲田という大学を出てさえいれば、それなりに振り向いてくれる人もいると思った。僕は出来る限りの正攻法で自身の「普通ではなさ」を証明してやろうと企てた。

 

 

まず最初にはじめたことは、「毎日きちんと学校に通う」ということだった。
それは担任の先生に「まずどうしたらいいですか?」と聞いた時に「まず学校に毎日きなさい」と言われたのを間に受けたからだ。それから、僕はしっかりとテスト勉強をすることにした。最初は下から3番目だった成績も、21番、15番、6番と上げていくことができた。今だったら、受験勉強にフルコミットしていたほうがよかったと思うけど、当時の自分にとってはそれが一番近道だと思った。

 

高校三年生になって、受験勉強をしっかり始めるという段になって思い知らされたのは、「まず毎日2時間勉強するのも無理」ということだった。そもそも自分が今何ができていないのかもまるで分からず、安河内の英語の参考書を買っては、ちんぷんかんぷんのまま勉強をしなくてはいけなかった。4月に受けた河合模試の偏差値は30代だったし、志望校における順位は3000~5000人中、下から10番以内。

 

アルバイトも続けながらだったから、相当大変だったと思う。高校三年生の夏の講習では英作文で「you is ・・」を和訳してはぷぷぷw といって笑わられたりもした。be動詞は僕にとってB動詞だった。

 

 

高校最後の文化祭は演劇をやるのが文化だったらしい。僕は頑なに「指定校組がやればいい」と主張したが、一向に決まる気配はない。あいつらはそういう人間なんだ。僕は、煮え切らしたように「自分がでる、でもやるからには賞を総ナメにする」と言った。一般受験組が、その思いについてきてくれた。


僕はだいぶ問題児だった。演劇を途中で諦めようとも思ったし、その度にクラスメイトには迷惑をかけたと思う。だけど、7つあるうちの5つは僕たちが受賞した。主演男優賞と、総合優勝はできなかったけど、僕たちは「大人の事情」に気づいていたから、それがかえって総ナメにできていたんだと思った。

 

 

演劇と受験とバイトを両立するのは本当にきつかった。僕は何かを辞めなければ、あとの二つを成し遂げることはできないと思った。先生に言われた通り、バイトを辞めることにした。でも、バイトをしなくなったら、多分受験料がどうにもできない。

 

センターの申し込みは10月にあった。当然自分も受けるものだと思ったが、親に頼んでも2万円の受験料を支払ってくれることはなかった。

 

一般受験だけを受けることになりそうだと思ったが、当然センターを受けられないのであれば、うちの母がそのお金をどうにかすることはできない。

担任の先生は、「おれが出してやる」と言ってくれた。だけど、僕はそんなことさせるわけにはいかなかった。「いまのままでは到底受かりっこない」ということを察していたからだ。

11月、栄養不足もあったのだろう、体育の時間に足を挫き、それが理由で骨折してしまった。
絶望的だった。ここまで不運が重なることなんてあるのかと、結局、自分には頑張るということが何一つ許されていないように思った。

学校に行かなくなると、担任の先生から電話がかかってきた。

「もう、諦めちゃったのか」「とりあえず学校にきてみたらどうか」

 

僕は1週間、引きこもって考え続けたあと、なんとかして松葉杖を担ぎながら自転車を漕ぎ、昼休みの時間に担任の先生に「浪人します」と伝えた。驚いていたが、受け入れてくれた。

 

僕はきっと、問題児すぎた自分の面倒を、この担任の先生が2年間もめげずに見続けてくれたから、今もこうして前を向いて生きていられると思う。

学校を停学になった時、「そのままじゃ大人になって苦労するよ」と言われた時、「尖っていられるのが今のうちなら、尖っていた方がいいじゃないですか」と言ったこともある。苦笑いをしていたけど、クソガキを諦めずに愛情深く見守ってくれていたから、僕はそれなりに安心して学校に通えていたし、高校三年生の進路として進学クラスに行きたがった時、「お前の引き取り手がいないから俺がやるしかなかった」と言っていた。普通クラスでのらくらする予定だったのを、相田が真面目に受験をしたいという理由だけで、1年間引き受けてくれたのだ。

 

卒業式の時、担任の先生は少し悲しげだった。心配してくれているのが伝わった。

僕が「早稲田にいく」ということを心の底から応援してくれている人は本当に少なかったと思う。周りからはすごく馬鹿にされていたし、ビッグマウスだった。
でもその度に僕は「今ここがラストチャンスで、ここで頑張らなければ、最悪の人生がこれから待ち受けているんだ」ということを熱弁し続けた。僕は親を見ていたから、彼らのような悲惨な運命になりたくなかった。反面教師がいた分だけ、リアリティを持って、僕たちの将来を見通すことができた。
だけど、そんなことお構いなしに、同級生はせせら笑っている。


そんな中、ずっと真剣に応援してくれる人が本当に少ないながら、いてくれた。

それが元カノだったり、親友だったり、恩師だったり。数は少ないけど、僕は彼らに支えられてい生きていることを実感した。

 

浪人している時、6-9時のコンビニバイトと17-22時のパン屋でのバイトをを週に3~4回ずつこなし、8万円を稼ぎ続ける計画を立てた。500時間。勉強に注げたらどんなによかっただろう。だけど、僕にはそれしか方法がなかった。50万を稼ぎ、30万を貯めて、20万で乱れ打ちをする。廃棄のパンを1日3食食べ続ける。飽き飽きとしていたけど、あのパンがなかったらきっと僕はもっと険しい受験勉強時代になっていたと思う。

 

1年目に受けた大学は全部落ちた。滑り止めを受けるくらいなら2浪したほうがましだと思った。就活に影響するとか、2浪は仕事がないとか、散々言われたけど、
それしか他に方法がなかったから、それを選択するしかなかった。

 

2年目が始まった時、精神的にまじでヤバかったと思う。外を出歩けば、みんなが自分を笑っているような感覚がした。みんなが自分を馬鹿にしているのだと思った。統合失調にかなり近い精神状態だったと思う。

 

そんなこんなでバイトもうまく入ることができず、7月になっても貯金がまるでできていなかったので、時給1500円の派遣スタッフの仕事を始めることにした。これなら、3ヶ月で30万貯めることができる。


携帯ショップでの派遣バイトや、家電量販店でのアルバイトはそれなりにキツかった。電車に乗っている往復3時間と、昼1時間の休憩時間と、スタバにいる21時-23時までだけが、僕に許された勉強時間だった。11月末までかかったけど、融通を効かせてくれたおかげでなんとかギリギリお金を貯めることができた。

 

 

本当にしんどい生活だった。地獄のような日々を繰り返していると、「もう自分は十分頑張ったんじゃないか」「これ以上頑張らなくったっていいんじゃないか」という気がしてくる。

「もう自分の人生、満足したなあ」そう思った時、一気に「今死んでもいいんじゃないか」と、そんな感情が湧き起こってきた。

 

でもそれでも死に対する納得感がなかったのは、「今までずっと応援してきてくれた数少ない人たちに、自分はまるでなにも恩返しができていない」ということに気づいたからだった。だから、「僕は僕の人生に満足したけど、これからの人生は人のために生きよう」とだけ決めて、死ぬのを止めることにした。

 

 

死はいつだって僕を呼んでいる。

 

今でもたまに、そう思う。

だけど、そのたびに、僕は自分がまだ返せていないものを考えるようにしている。

 

 

 

結局、第一志望の早稲田に合格することはできなかった。かねてよりずっと、勉強がしたかった政治経済について勉強ができるのは、僕にとって少しだけ嬉しかったことでもある。僕が受験期間に考えていた「私有財産の否定」と、同じことを言っている人が過去にいたことを知ったからだ。自分の人生は、自由を掴むための人生は、人のために生きていく人生は、これから始まっていくんだと思えた。

 

 

 

 

今の僕は、過去の自分が抱えてしまった「普通ではなさ」を埋めるために生きているといってもいいのかもしれない。

 

「自分が普通ではない」ということを正当化したいがために、今の今まで走ってきたことを考えると、僕だって偉そうなことを言っておきながら、「誰よりも人にわかってもらいたい」

 

数々の場所ですれ違ってしまった人々とわかり合えなかったから、僕はせめて理解しようとしたかった。

 

だけど、みんなのことを理解しようとすればするほど、まるで自分という城を築いていくかのように、どんどん距離が離れていってしまっていくようだった。
人間というのは愚かで、生物的な本能から逃れられることはないのだと。

 

 

今、僕はそんなわかり合えなかった人たちと、わかり合うことを必要とする仕事をしている。人はきっと、「理解なんてしなくたっていい。ただ共感しているフリさえしたらいいんだ」って、そういうかもしれない。あるいは、「これはビジネスなんだから、売上があがってさえいればいいんだ」というかもしれない。

目の前の人を理解する、というのはあるいはもしかしたらおこがましい行為なのかもしれない。そんなことできるわけがないという前提に立ったっていい。

 

 

 

それでもやっぱり申し訳ないと思うのは、僕がこの仕事を通して「自分だって理解されたい」と思ってしまっているということだ。それによって僕たちはわかり合うことができていないような気がする。もしそうだとしたら、その落ち度は僕にある。

 

 

僕は今、「普通ではない」ということを正当化するための部分的な人生を、脇において進まなくちゃいけない時がきたんだと思う。

 

そうしたら、少しは人のために生きることができたって、
胸を張って言えるかもしれないから。