世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

自我喪失と才能と暫定的な解。

 

先日、諸藤さんの記事を読んだ(きいた)ので、ちょっと書いてみたいと思う。

zapass.co

 

この記事で書かれていることを一言で表現するのは難しいけれど、一旦書きたい内容と呼応するようにいうのであれば「世代を超えた社会課題を解決する起業家は自我喪失している」という点かと思う。
そして彼らのチャレンジは、「自我喪失を乗り越えるほどの執着できる領域を特定した起業家は、株式会社という形態で世代を超えた社会課題を解決するような産業リーダーになり得るのか」というところだろう。

 

 

 

ところで自我喪失とはなんだろうか。

したがって、自我喪失とは、“これまでの延長で築いてきた自我だと生きられない、と身体感覚も含めて感じていること”と捉えられます。

 

 

これまでの延長で築いてきた自我だととても生きられない。
このような感覚に陥ることは常人に存在するのだろうか。

 

というよりはむしろ、自分が抱いている感覚は、

「ある一部の人間だけでなく、大部分の日本人はこれまでの延長で築いてきた自我だと生きられないような時代に突入してしまうんじゃないか」
ということだ。

自分もそれに例外なく当てはまると直観しているので、「じゃあそうならないためにどうしたらいいのか」という点に執着しているんだ、と現在の自分では解釈している。

 

自分を例外としない大部分の日本人だと考えた時に、将来の自分がこれまで築いてきた自我だと生きられなくなることを直観することができるかどうかは、人を雇用する立場としてものすごく敏感に検討している。結論から言えば、「ほとんどの人間にそれは難しすぎる」になるのだけど。

 

 

いろんな過程をすっとばして、自分が創業してから、今現在感じている自分の価値観を書きたいと思う。

 

今までの自分は、何か世界通念として共有しあえる適切な価値観というものがあり、それが文化として根付いてくことができれば、なにか社会はポジティブな方向に進むのではないかと考えていた。「これはみんな異論ないだろう」ということを掲げることができれば、きっとそれに基づいて社会はよくなるはずだ。というような価値観だ。他方、それはもうすでに存在している。例えば憲法という形で。例えば政治経済といった形で。例えば常識といった形で。

そのため、そうした歴史的背景を踏まえ、世代を跨ぐことによってバージョンアップを図っていくことが大切なんじゃないか、と聞こえのいい言説を持つことができる。

 

ところが今の自分は、「もし人間がまともだったら、そんなものは必要なかった」と考えるようになった。性悪説を支持する高校生の自分のように、「永遠の愛が本当に存在しているなら、それを誰かに誓う必要なんてまるでなかったはずだ」といったように。

 

つまり、人間は最初っからまあまあダメで、これからも多分まあまあダメなんだと思う。それを正しいとか正しくないとかそういう二項対立やどちらがより優れているかとか、そういう軸にすぐに置きたがる性分であることも含めて、人間はまあまあダメな存在なんだということだと思う。生物が完璧な状態にならない理由があるのなら、自分はそれを知りたいと思う。

 

ただ一つ、自分の中にある謎の価値観として、誰に言われるまでもなく「人間がまあまあダメだとわかったからといって、お前はそれを言い訳になにもしないということにはならないだろう」と思ってしまう性分だと思う。

 

例えば最近、にわかに話題になったスタンフォード大合格の件。

blog.tinect.jp

 

この内容やコメントの中に存在している「努力できない環境にいる人間だっている」という、弱い立場に立って弱い発言をする人間がいるが、僕はそういう人たちに対してこういうと思う。「努力ができない環境が仮にあったとして、その中でも努力をする人間だけがスタンフォード大に行く。そしてそのことにお前は永遠に気づくことはない。なぜなら、お前には才能がないからだ。」

 

大学生の時に、村上龍の「愛と幻想のファシズム」を読んだ。その本で自分が強烈に殴られた葛藤体験がある。
「結局才能があるやつはどこからでも這い上がってくる。」

 

自分はこの歳になって、才能とは「何か一つのことに一貫して打ち込み続ける継続力」のことだと思うようになった。まさに将棋の羽生さんが言わんとするようなことだ。

きっと、努力ができるとかできないとか、努力についてなにか評論しちゃったりする時点で、才能がないんだと思う。

 

才能とは1つのことに打ち込み続ける継続力といった。では、その動機はどこからくるのか。答えは簡単で「自分の才能を強く信じ続ける力」だ。そのため、自分に才能があると強く信じ続け、どんなに険しく長い環境が続いたとしても、自分はいつかそれを乗り越えることができる、といった自分に対する究極的な楽観性を持っていなければならない。ということだ。

つまり、才能がない人とは、「この世で一番、誰よりも信じてくれる可能性がある自分自身が、自分の可能性を最も誰よりも信じていない人」ということなんだと思う。

 

 

自分の才能を強く信じ続けているやつは、常人からするとものすごく歪んだ認知を持っている変人だろう。逆に言えば、そう感じてしまうほとんどの人に才能はない。共感できる人間だけに可能性がある。人間はそもそも最初っからまあまあダメなのだ。一部の超例外的な人たちが、「ひょっとすると自分は才能があるんじゃないか」と強く信じ込んで、行動に移し続けた時に、運良く結実して、それが何かしらの才能として社会から認められるというだけなんだろう。

 

 

自我喪失があるとした場合。自分は、「ひょっとすると自分にはなにか期待できる未来があるんじゃないか」という希望と「このままいくとその希望が叶いそうにない」という絶望の境界線のことなんじゃないかと思う。自我に対する希望は誰しも備わりうるものなんだと思う。その可能性が潰えてしまうかもしれない時に、行動を変容させ続けることによって打席数を増やし、経験学習を通してその精度を磨き、どこかしらに軟着陸することができるかどうかは、喪失寸前の葛藤を克服した時に勝負がきまるように思う。その時に自分が瞬間的に、どっちを選ぶかは本当に「性分」によって決まると思う。その再現性のない性分のことを、自分は才能の源泉と呼んでみたい。

 

 

そんな限られた人間であることがなんとなく自覚できるような人生なだけで、もう十分に幸せな人生を送ってきたと言っていいと思う。自分はまだ、自分の未来の可能性に期待できている。もちろん、日がな「もうダメかも」と思うようなエピソードは続く。だけど、このもうダメかもを何回も何回も乗り越え続けることによって、「自分を信じる力」が湧いてくる。「もうダメかも」が一度でも「もういいや」になってしまった時、自分の可能性はそこで終わってしまうんだっていう恐怖心を抱き抱えながら。

 

 

 

自分はものすごくマッチョな考え方をするようになったと思う。自分の内面には、ネオ永沢先輩がいるのだ。
このネオ永沢先輩が嫌いだった。嫌いというより、「そういうのはお前のやりたいこととちょっとズレてるんじゃないの?」言い続けてきた。19の秋に「人のために生きる」と決めたからだ。
自分は先天的には強く主張するリーダータイプというよりは、人の意見を聞いて融通を利かせるフォロワータイプだった。しかし、自我発達段階で後天的に、二つの人格を保有することになった。「ネオ永沢先輩」と「人のために生きたい善人」だ。

 

今年に入って、このネオ永沢先輩を主人格にしていくことを決めたと思う。その理由は上記の通りだ。

 

だからといってガチサイコ野郎になることが正当化されるわけではなく、キモピエロ野郎になることが正当化されるわけでもなく「善い人でありたい」というお気持ちが毀損されるわけでもない。もっと言えば、自分でもよくわからなくなっている。

 

 

自分がやりたいこととはなにか?という問いの答えに「そんなものはない」とくるのはすでにわかっている。
現社会の課題をなにか解決するようなことができるとしたら、どんな課題に取り組みたいの?という問いの答えに「そもそもそれは課題なのか?」という回答になってしまうのもわかっている。

じゃあなんのために会社を経営しているの?と聞かれたら「自分の才能をレバレッジに生きるため」と答える。


そうではなく、長い長いプラトーに突入してしまっているんじゃないかとも思う。
いままでは自分の無知によって行動がでていたように思うが、今の自分は
「いうて憲法ができてまだ75年とかしか経ってないのに、戦後日本から現在にかけて起きた事象や親やおじいちゃんとかいう1世代2世代程度の必勝法だけで物事を考えるのは早計すぎるだろ」と思っちゃっているし、
「2020年から2050年にかけて、急激に社会環境が変わっていく中で、何もかもが予測もつかない時に何か現在の価値基準に従って指針を決めきってしまうと、かえって危ない」と思っちゃっている。

「経済だって、資本主義だってそれっぽいのでいえば産業革命以降200年程度のファクトしかない状態で考えてるんだから、なんか間違えてるっしょ」とすら思う。

「まあまあダメだとしたら自分達になんらかの介在余地はあるのか。多分ないんじゃないか」と思ってしまうし、

「そもそも人間はぜんぜんだめだし、もしかしたらそもそも人間に重心を置いて考えている時点で根本的な間違いを犯しているかもしれない」とかいう極論まで考え始める。

 

ただ一つ思うのは、「この時代に生きた人間は自分達だけだ」ということ。
あとから誰かが自分たちの記憶を振り返った時に、「この時代に生きたこの人たちは、こんなことを見て、聞いて、体験して、感じて、それでこんな考えに至ったのか」
と自分達の違いだったり、未来にいきる誰かにとって、何かしらの受け継がれる意志があって欲しいと思う。自分達が過去の人々から受け継いだ意志が、何かしらの形で継承されていくことができるのであれば、それがいいんじゃないかと思う。それをするのに事業を経営するというのは何かと都合がいい。

 

自分たちはおそらく死ぬ。おそらく死ぬし、社会とか、課題とか、より優れるとか、国際問題とか、もしかしたら本当は結構どうでもいいことなのかもしれないし、働くとか働かないとか、才能があるとかないとか、全部どうでもいいことなのかもしれないんだけど、どうでもいいことで、人間はだめで、でも最後に残るのは、そんな自分達でもどんな歴史よりも比較的平和で豊かに暮らせている社会が今現実として現存しているのは、きっと数え切れないほど沢山の誰かの、何かの仕事が長い長い時間をかけてここまで辿り着いたことに対する感謝の気持ちと、できればそれが次の世代にも続いて欲しいという願いだけなのかなと思う。