世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

社会人になって2年が経った

前回の振り返り記事(社会人になって1年が経った - 世界の輪郭に溶ける)に続き、今年も振り返り記事を書いてみようと思う。

 

このテーマは主に「能力開発」や「発達」を主軸とするためのものであると思う。

その前提に立ってみたときに、大きな結論を先に言ってしまうとすれば、
僕がこの1年で学んだことの中でも、特に有意義なことは、
「能力は環境に依存-限定的である」
「能力はそれ自体がフラクタル構造を帯びている」
「特定ハードスキルに対する向上が自身にとってさしたる方向性になりえないキャリアパスになった経験が、環境が能力の方向性が限定的であることを裏付けている逆説と、僕の心情さえも決定付けている皮肉となっている」
というそれぞれの回答を基礎づけ、僕自身を腹落ちさせたことだと言える。

言ってしまえば簡単なことだし、予見していた内容であるものの、それを自分の中で腹落ちさせない限り起きうるリスクは、「青い鳥を探しに彷徨い始めてしまうこと」だ。

 

つまり、僕の浮き足立ったその足が、辛くも地面に着地し、しっかりと踏みつけて歩き始めたことを意味している。
だからと言って、目先の担当業務に対して理解や知識を深めることを諦めたり、不要なものとして捨象を始めたということではない。むしろその逆に、その目先の専門性の奥深さを注視し、そのエッセンスを獲得するまでのプロセスを重厚長大に扱うことと、その途方もない道のりに辟易とせず、着実、堅実に一歩一歩歩みを進めることを明らめたと言える。

 

その精神性の獲得こそが、僕が求めている成長=発達の方向性であることに、ようやく気づくことができたという意味で、この1年間は価値のある一年だったと思えている。

 

正直な話を言ってしまえば、僕がこの一年(特に直近半年)で感じたことの中でも大きな気づきは他にもたくさんある。例えば「人間個人の能力差は(一般的にいえば)たかが知れている」という明らめとか、「人間の能力開発は当人の価値観が色濃く反映される」とか、「抽象度の高い問題になればなるほど、教養の重要度が上がることに対する経験的な理解」とか。

また、弱みの克服というテーマに立っていえば、とても苦労をしたことも告白しないといけない。恥ずかしい話だけど、「相手の立場に立ってコミュニケーションをとる」ということが苦手だ。僕が設定した問いは「相手に対して敬意がないと感じさせてしまうのはなぜか。どうして相手の理解を難しくさせてしまっているのか」ということで、対する暫定解は、「自分が楽をするために、互いにとって既知情報や既知文脈をできるだけ省くというコミュニケーションスタイルを取っている」ということが見えてきた。

社会人として当たり前のプロトコル「質問や依頼の際には目的を明確に伝えることが重要である」ということも、「互いの関係の質や依頼する目的は極めて限定的だ」と判断してしまうと、「省エネの魔力」が働く。
もっと言えば、「仕事において独断が多い」ということでもある。自分にとって合理的なことが組織で働く上では実は致命的らしい問題となり、仕事を前に進めるという目的に照らし合わせると非合理になっているという残念な経験をした。
これは逆にいえば、「自分で判断をして行動をすることが得意」であることを示唆しているとも言える。この点については深堀りは現段階ではしない。ただし、物事は常に裏表、トレードオフがあるし、曖昧で、複雑なことに対して自覚的でないといけないということには触れたい。

弱みの克服に触れて話す限り、もう一点、触れておかないといけない気づきがある。
弱みの克服は必要か不要かの論争に対する自身の暫定解について。
僕の結論は、「赤点をとっている限り、克服をすべき」だと思う。
現状、僕にとって僕の今の弱みは赤点であり、克服すべき課題だと思う。
幸いなことに、その点について上司や先輩から適切(?)な指導やフィードバックをいただいているので、なんとか前向きに取り組むことができていること、
担当業務でその能力がなければ前に進まないという局面が多く存在しているということで、「つらいけどできないと仕事ができる人にはなりえないやつ」に対して前向きに取り組んでいる。

さらに、弱みの克服は僕の方向性にとって、切っても切れない取り組みテーマとなることについて自覚的だ。抽象度の高い問題やマネジメントレイヤーの業務になるにつれて、組織の責任を担うポジションになるにつれて、マネージャーの弱みが組織やチームに影響を及ぼす度合いが高まる。これは経験的にも客観的にもそう予感している。

 

ビジネススキルを簡単に、ジュニアとシニアに切り分けて語るとしたら、ジュニアを卒業する用件は、「すべての科目で赤点を取らない状態」のように感じる。その科目が5教科7科目のように画一的なものなのかどうか、家庭科や美術も含まれるのかどうかについて、あまり関心はないけど、おそらく5教科のことを指しているのだと思う。そしてそれがおそらくロクヨンスキルと呼ばれているものなのだと思う。その点でいえば、さっさとジュニアを卒業しないといけないと思う。


最初の結論に戻るけど、ロクヨンスキルのようなソフトスキルの発揮は、環境に依存-限定的だと思う。であれば、できる限りそれが発揮されるような環境に身を置くことができているかどうかを判断しなければならないという話にもなる。一方、仕事というのはフラクタル構造であり、ロクヨンスキルという一つの構造は、仕事の難度によって重層的になっているにすぎない。つまり、「能力が最大限活かされているとは言えない状況=仕事の難度が高い」ということになり、ゆえに、今の目先プロセスの連続の先にしか能力開発の未来がない。
その気づきから、「ふわふわ夢見がちのシンガーソングライター」から「しっかり地に足がついたマラソンランナー」に転職することができたということなのだと思う。ただし、上記はあくまで僕のリップサービスであり、ただの正論だ。
(正論について、一言で語るとしたら、「正しいことに意味があるとは限らない。」ということで、それはそれで重要な学びだ。正論に疲弊し尽くした日本人に対して想いを馳せていきたい)

 

僕の悪いクセについて語る。
僕は獲得したことに対してあまり関心を向けない。その性格が周囲に対する手厳しさにつながっていることに対して自覚的ではあるから、その問題でいえば徐々に赤点を取らなくなっていると思う。ただ、まだ自分に対してそう思えていないだろうと思う理由が、上記内容に「社会人になってから学んだこと」の能力開発に触れられていないことだ。(前回内容はその点を含めて自己肯定感をあげることが目的になっていたが)

ハードスキルに対して横並びに見たときに、全科目で60点をとることができているかどうかでいうと、それは適切な評価者に委ねるとして、僕の感覚で答えるとすると「次どしたらえんやろか」について明確に「これまだ経験していない」と「これ獲得しておいたほうが良い」の方向性が見えていない。理由は、「それなりに学ぶことができた」ことが理由なのかもしれない。およそ及第点、足りない点は都度補填、という前向きなスタンスをとるという腹決めのあとは、目の前の業務を淡々とこなすハードボイルド野郎をペルソナとして抱えていきたい。そしてそれが第三の結論に書かれていることの意味合いだ。僕は新規事業部署に異動したことにより、専門性向上という方向性から足を洗い、都度補填の姿勢を極めていくスタンスを磨き込んでいくことを決定づけられた。そして逆説的に、環境が僕の能力を限定的なものにしたとも言える。

 

能力開発に言語化能力は不可欠で、能力の抽象化と構造化を絶えず繰り返していかなければならないと思う。専門性に依存しない働き方を僕が選択する限り、僕の専門性は能力開発スキルだ。それはまるで「一貫していないという点で一貫している」ようだ。

能力開発スキルは他者のエンパワメントだ。より遠くに行きたい人間にとって、自己開発は他者開発スキルの土台としてうまく作用する。人は他者支援によって効率的な発達が可能であり、効率的な発達は組織をスピーディに強くする力だ。

 

 

最後に、僕の今の心情について語る。
僕の最近の口癖は「30代の後半から、鎌倉の海近くに住んでゴールデンレトリバーを飼いながら車で通勤がしたい」だ。

僕は今も昔も、できる限り自由になることを望んでいる。能力開発や教養を身につけるということはおそらく、自由の切符の意味合いがあるのだろう。
そのひとつの具体的かつ簡単なイメージとして、「自然豊かだけど交通の便が良い」という贅沢な土地柄を求めていて、居住選択の自由を行使したいのだろう。もしかしたら国内でもないかもしれない。
30代後半と言ってるのは、それまでは冬の時代でも耐え忍ぶ覚悟を意味しているのだろう。当然、30代後半から希望も野望も捨てて晴耕雨読な生活を謳歌するということを意味しているわけではなく、一つのライフスタイルとして選択したい。

 僕が嫌いなものは理不尽・悪意・不自由の3つだ。こういうものに対して誠実に向き合って、自分なりに納得のいく着地をしたい。


3年目、僕にとっては一つの集大成で、あまり先の未来は見えないのだけど
人間としての発達について、引き続き取り組んでいきたい。