世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

自己超越的な試みは自己破壊という痛みを伴う

最近自分の考えていることがみんなとズレ始めているような気がしてさみしいのと、いつからどうしてどう変わってしまったのかっていうのをまとめておきたくなったので書いていきます。ベースとなる考え方は変わっていないと思うんだけど、自分を含めた人間をあんまり信用しなくなったようなそんな気持ちです。

 

最近の変化①かなり駄々こねてバイトはじめました。

銀座にいます。刺激的な同期に触発されて楽しいです。適当にランチでも行きましょう。

 

最近の変化②大学終わりました。

単位取れてれば無事に卒業できると思うのですが、問題は学費が払えなさそうでちょっと困っているっていうのがあって、節約生活なうです。

4年生の最終学期に履修をミスって選択必修科目を4/12しか取っていないっていう悲しい事態が起き、同期に「やーい1単位落として留年BBAww」と言ってた自分に大ブーメランが刺さりました。頑張って8単位履修しました。日本政治史と政治学説史と、メディアと世論っていう政治学科っぽい授業だったのですが、大変興味深く授業を受けることができてハッピーでした。特に政治学説史はイチオシで、日本政治史もすげー面白くて、メディアと世論も考え方がダイナミックに変わったし、、、この辺は語りだすとキリがないのであれだけど。

あとは語学と卒論なんだけど、フランス語が致命的に不安です。死にたい。
言語と関するモノがことごとく苦手な理由について誰か教えて欲しい。railsとか・・

 

最近の変化③卒論書いてみました。

前回のブログに簡易版が載っていますが、基本的にみたいと言ってくれれば喜んで送っているので感想とかくれると嬉しいです。

 

 

 

最近考えていること

結論から言えば、最近の自分のやりたいことっていうのは、人間行動の科学的な実証を明らかにした上で、新しい労働の在り方を生み出していきたいということです。
なので、ポジティブ心理学進化心理学はイチオシの学問領域なんですけど、ここらへんって日本語の文献が中々なくて困っているって感じなので、面白い本があれば紹介してほしいです。

 

 

 

考えてみれば、村上春樹エルサレムで壁と卵のスピーチを披露してから、僕も卵の側に立ちたいと思い、ずっと「なんか出来ることないかな〜」と思い続けてきたわけです。社会というシステムを僕たち人類の手によって生み出しておきながら、そのシステムがかえって人々を苦しめてしまっている。僕の考える根本的な立場はまさに共産党宣言であり、革命的であったわけです。

ところが今の自分が考えていることというのは、どちらかというと人間に対する諦念の方が強く、福祉は新陳代謝を悪化させることもあるという学習から、救済が必ずしも善いことではないことを実感してきた。良かれと思うことが実は退廃を招いてしまうことに対して慎重になり始めた。そういう変化があったのです。

今までは「そうはいっても搾取はよくないだろう」というふうに思っていましたが、最近は「いうて僕も自己複製子のうちのひとつであり、自分というのは壮大な人類の自己拡張的な試みのうちのひとつにすぎない」ことへの諦めを感じずにはいられません。では、この感情的な反応はなんなのか。それは根源的には資本階級へのルサンチマンであり、身分不相応に対する不平でしかなかった。となると、「民主政は衆愚政だから、人類に民主主義はまだはやい」と言っていた自分に大ブーメランが返ってくるわけです。悲しい。

だから僕は、このブーメランを回避してみたい。出来ることなら、人間としての自分を構築することによって、脱構築したい。

 

人間について僕が思うこと 

人間が人間らしいと言われる時、それは伝統的な行為の発露によるところにあると僕は思うのです。根源的な欲求、例えば食事、睡眠、性

こうした欲求に忠実であることは人間らしいと言われています。
感情的な人々のことを「あの人は人間味があるよね〜」などと言うことは多いでしょう。感情の起伏のないひとを「サイボーグみたいな人」と言ったりもしますよね。
ここで言われる人間らしさというのは、生物学的に普遍であるということですから、動物的であるとも言えるわけです。
となると、人間が人間らしくあると一般的に思われている事物というのは、実は動物的であるということになります。だとすると、人間らしいというのはもともとは脱生物学的であり、超動物的な行為のみが人間を人間たらしめるはずだったにも関わらず、人々は喜々として動物たろうとするわけです。 

これは僕からするとチャンチャラおかしい話です。人間らしいというのは、欲求を理性でもって抑制できるところにあったはずです。人類が資本主義という生産様式を生み出した際にも、ウェーバーによればその精神の根源はプロテスタント的な禁欲に美徳がありました。しかし実態はそうではなかった。

どうしてこのような事態になってしまったのか。可能性としてありえるのは、人間が自制できないことへの正当化なのではないか。つまり自己利益の最大化を正当化がしたかったのではないか。自己利益は広義に用いられます。経済活動も含まれるでしょうし、社会的な地位や立場を獲得するといった欲求も含まれるでしょう。
こうした行動原理を人間らしい行動と呼ぶことによって正当化を試みた。しかしそうすることによって動物らしさと紐付いてしまった。 これでは、人類の不完全さを許容していくことが善いとされてしまう。おそらく、それでは社会は退廃する。進歩というのは常に、自然→不自然の方向へ流れていくものだからです。

 

 

人類とテクノロジーの話

人類は、人類の持てる能力が他の種よりも劣っていたからこそ、運動能力を外化することで生存確率をあげようとしたといって良いでしょう。力がなかったから落ちている石を投げるようになったり、木の棒で殴ったり、殺傷能力を上げる為に尖らせたりしたわけです。

人間能力の外化作用の結果として生み出された生産物がテクノロジーだとしたら、人間は自己能力を拡張するためにテクノロジーを生み出し、テクノロジーによって自らを進歩させてきた種だと言うことができます。

だとした場合、人類の進歩的な生活行動は、テクノロジーによって自らを進歩せしめんとする点に尽きます。今の人類はインターネットを活用することによって溢れんばかりの情報を仮想空間に外化し、保存することが可能になったわけです。僕たちはその引き出しを自由に活用しながら、日々進歩しているとします。

狩猟採集民族の生活行動が自然的であるとするならば、テクノロジーを活用した行動原理というのは、不自然的な動きをしているといえます。

さきほども言ったとおり、伝統的な生活行動は動物的です。一方で、進歩的な生活行動は人間的なわけです。つまり進歩とは常に自然からの超越に向いている。自然的な生活行動から不自然的な生活行動へ変異していくことになります。


人間社会も自然的な状態から不自然的な状態へ進歩してきました。近代国家の成立はまさに不自然的な状態なのです。
しかし、資本主義の生産様式は、自然的な生活行動、つまり自己利益の最大化を正当化している。
自然→不自然の方向が進歩であるならば、
自己利益の最大化は自然→自然、もしくは不自然→自然の流れとなります。
これは長期的にみて、異常が起きることになる。ではどうしたら良いか。

 

自己超越=私欲の否定が生きる意味となるとき

人類の進歩的な行動が人類の伝統的な行動への逆行だとしたら、理性はその逆行にあたります。
僕はまさに、だからこそ、人間という枠内を理性でもって超越してみたい。ニーチェのいう超人に向かう道を選択したいと思うようになりました。

 

夏目漱石は近代人類の本質的な性向であるエゴイズムを描き、大衆化することを目指していました。人間行動の原理を追求したとも言える作家ですから、僕はそういう意味で好きなわけですが、100年前(もっと言えば2000年前くらいから始まっていますが)に人間行動の構築が始まって、現在は自然科学がその実証を果たすところまでやってきています。

 

政治哲学の系譜がプラトンに始まるものだとした場合、ようやく政治の根本的な課題である権力の集中と腐敗という問題が、哲人王の出現によって解決可能になるかもしれない未来が近づいてきている。
僕という自己複製子の一部が、人類の構築と脱構築を通じて超越的な存在になれるかどうか。生きる理由というのはまさにこの一点にある。

 

おそらく僕は19の時から生に執着がありません。だからいつ死んでもいいと思っているのですが、しかしそれでは未練が残る。それは結局のところ感情機能の発露でしかないかもしれないんだから、理性で克服するならば未練など関係無しに死んだほうが良いです。だけど、「そこに問題があることを知っておきながら、お前はなにもしないのか」という僕の根源的な生き方を否定することになる。
「もしお前がそれに取り組まないのであれば、お前は今すぐ死んだって良いだろう。」
「今死なないことを選択している限り、お前はお前の思う問題に対して何かしらの行動をとるべきだ。」
この生き方でさえも、結局は未練という感情でしかないかもしれない。
となった時、僕を含め、人類の理性獲得はどこまで可能なのか。克服できていないからこそ、自分という自己複製子を使って壮大な実験を試みる。それは僕の生き方にフィットしているわけです。

理性は私欲の否定を可能とします。それは公益主義に発展します。

人類の自己利益の否定が可能なのか。もし僕がそれを全うすることができたら、まだ人類に希望はあるかもしれない。
これが人類に対し諦めた僕が生きる唯一の理由になりそうだ、というわけです。

 

人間というのは経験の奴隷であって環境に服従しています。
ではそこから自由になるにはどうしたらいいか。
この自由の有限性に自覚的でありながら、自己のあり方を模索していくこと。それが今の自分の答えです。

 

自分のあり方を模索していくというのは、比較検討を通して根拠を探り続けるということでしょう。しかし問いというのは最終的には無根拠に到達します。そこに自分のこだわりが現れる。感情機能です。
そのこだわり(感情機能)を取り出して、比較の段に上げることで、自己客観視ができる。こうして絶えず比較を繰り返していく生き方は超人への段階的な試みであるし、僕はそういう人を信頼できる人間であるとみなします。

 

 

同期の哲学人とこんな話をしていました。もし僕たちが永劫回帰していることに気づけないとしたら。生きる意味と言うのはまさに偶然的な非意味的形態に過ぎません。だとした場合、虚無に陥る生を選択するか、生を肯定する生き方を選択するか。そこにおいては僕たちの自由が存在しえます。

 

僕は、生を肯定する生き方を選択することにしました。僕は経験の奴隷であり、環境に依存した存在であることを認めながら、その要因を分析し、選択可能性を広げ、その中でも現存社会の課題を本質を明らかにし、実証主義的な解決を国家単位で実現するという歴史的な偉人の系譜を継承するという使命を選び、全うしようとすることにしました。

今はとてもいい時代です。思考実験でしか問題解決の方向性を示せなかった偉人たちは、今の時代をとてもうらやましく思うでしょう。

だからこそ、彼らが築きあげたこの豊かさの恩恵を被っている限りにおいて、偉人の歴史的な功績を後世へ繋ぐ歯車のひとつとなることを積極的に選択してみようと思うのです。