世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

1-1 理想の社会が存在する場合、それはどのような社会か

私たちの生きている社会では、常に何かしらの問題が発生している。人類が誕生してから今日に至るまで、その問題の本質は変わっていない。すなわち、人間関係における問題である。
社会における問題の全てを人間関係だけに置き換えてしまうのは些か難しいのではないかと思われるかもしれない。日本で言えば、地震や台風といった天災の被害を問題とすることもあるし、人類以外の動物との関係、病気や障害といった健康や生命に関わる問題も問題である。だがしかし、課題設定を”理想社会を達成する上でその障害となっているもの”という制約の上で考えていくこととすると、人類の病を克服することや、技術革新によって生産性があがり、食料危機を乗り越えるといったことは人類にとって共通の目標と呼べる。勿論、病気のない世界もまた理想の社会ではあるのだが、人類が理想の社会を実現できていない理由にはならないということだ。


人類が文明を持つようになってから5000年~10000年、もしかしたらそれよりももっと長い歴史があるかもしれない中で、なぜ人類は絶えず争いを繰り返してきたのか?個人から見て非常に長いと感じられるその期間の中で、どうして人類は理想社会の実現に至ることができなかったのか?そのような社会が実現していたらしいという証拠が単に見つかっていないだけなのかもしれないが、ある特定の期間において成功と言えるだけの社会を構築することは本当に出来なかったのか。あるいは出来たのか。


この問題を紐解いていくのは非常に難しい。なぜなら、その当時において成功したと言えたとしても、成功を持続することが非常に難しいからだ。
例えば専制君主制は君主が自由に権力を行使していた時代であり、その時代における権力の維持機能は他の政治形態と比較しても長い期間権力を維持してきた。しかし専制君主制における民衆の生活に幸福があったかと言われると難しく、自由を奪われ、労働を強いられるといった隷属が常であった。こうした人権を無視した政治権力は集中により腐敗し、民衆による革命により倒されるといったことを繰り返している。日本においても同様だ。長期に渡って権力を維持してきた江戸幕府も、権力の集中と監視、税制の緊縛化を通して各藩に武力を持たせないようコントロールしたし、百姓や武士の意見を取り入れ、合意形成を取ることによって政権の長期化を実現した。しかしながら結末は、外的要因にもよるとはいえ、黒船来航以来ほぼ鎖国した状態を貫いてきた幕府が開国を迫られるようになった。フランスやイギリスの財閥が藩に武器を与え、力をつけさせ、さらに薩長同盟を実現させ、強力な藩が力を合わせることによって幕府は大政奉還を余儀なくされた。
このように、政治機能の維持の観点でみればある期間においてこれほど成功を収めている社会はないと言うこともできるかもしれないが、どのような政治体制を取ったとしても、陳腐化が起こってしまう。完璧な人類が存在しないように、完璧な政治が存在しない。それに、例え政権の維持がうまくいったとしても、それが民衆にとって理想の社会であるかどうかに関しては疑問である。ロールズのいう”無知のヴェール”によって民衆が他者の状況や自国や他国の比較をしないがゆえに幸福度が上がるといったケースも存在するが、それが果たして本当に理想と呼べる状態なのか?

 

 

 

人類は貨幣制度を本格的に導入することによって非常に強力な技術革新力を手にすることとなった。それが資本主義である。資本主義体制を導入する以前の原初的な社会状態においては、労働の蓄積と土地の所有によって富を増減させていた。その為、労働によって生み出された富は全て労働者の富となっていた。ところが、その富を資本と交換できるようになってから、資本を動かすことによって労働せずに富を得ることができるようになった。この金融モデルの強大化によって労働者階級と資産階級の格差が生まれ、労働成果の一部を資産階級が搾取する形によってより大きな富を得ることが可能になった。

この資本主義の制度は産業革命と共に始まり、それからというものの労働の効率化と生産手段の獲得に貢献し、人類史上最速の発展を遂げることとなった。

 

 

 

いずれにせよ、これらの問題の根本にあるのは、対人間における富の収奪にある。人間の争いの大本は今も昔も変わらず、いかに労働をせずに他者の富を得るかという点に帰結する。それは自然なことかもしれない。サバンナのライオンがシマウマを狩り、食料を得ることで生存するように、生物の根本は自分以外の誰かの富や生命を奪うことによって生存することを選択することがある。
このような状況下で、人類は農耕によって食料自給を学習することが出来た。火を扱うことを偶然にも学習した人類が調理によって今まで消化することの出来なかった食料を手に入れられるようになった。そして調理が可能となった食料、たとえば米、麦などを保存することによって人類は必ずしも動物の生命を奪わなくても生存できるようになる。農耕によって労働の概念が形式化していく。人が富を生産し、その富を蓄積する働きがこの頃から生まれ始めた。
ところが今度は他者の労働によって生み出された食料を強奪するものが現れる。食料の強奪を第一義的な目的となっているが、食料という富をより多く保有することが人間の尊厳の現れにもなった。人間は農耕によってコミュニティを形成し、領土を決定していく。その領土にも生産のし易い土地といったものもあるし、その土地の拡大によってより多くの富を生産することが可能になる。こうして人間は本来自分達の所有物ではないはずの土地を奪い合うことを始めるようになった。富の概念は人間の生産した食料にとどまらず、装飾品や武具、土器や石器も含まれるようになっていく。そうして人類は奪うべき富を拡大していくことになった。

 

 

争いの根源は収奪の攻防である。誰しも、自分の労働対価を奪われることを望まない。自らの意志で分け与えることはあるかもしれないが、理不尽に奪われることをよしとしないだろう。ましてそれが生命であればなおさらである。人類は最低限の富を獲得していくことによって社会性を築き、収奪の攻防を平和的に行えるシステムを発明することとなった。それが法である。これによって社会のルールが明文化されることになった。人間は信用と信頼を行えるようになった。法を破ると罰せられるという不利益が収奪の抑止となり、より複雑な社会を構成できるようになった。

 

さて、失敗と改善の連続の中、人類は一部の国においては最低限の生活を保証し、争いや収奪をほぼ抑制している状態を生み出しつつある。この状態からさらに改善へと文明を発展させるとしたら、私たちはなにをボトルネックに設定し、そのボトルネックにどう対処していくべきなのか。

思うに人類は理想社会という青写真を既に手にしているのではないか。人々が幸福である為に生活の保障と自由と尊厳、これらを高次に満たしながら他者への公益性を労働の意義とできるような社会が実現されたとしたら、それは限りなく理想に近い社会なのではないか。もしそうだとしたら、私たちに不足しているのはその理想社会に対して前進する力なのではないか。人類は社会を構築しているが、その構成員の思想は多様であるから、必ずしも全員の利害が一致するとは限らない。更に、私たちが意志決定をしていく際に、必ず少数派の意見を封殺してしまうことがある。民主主義の本質は合意形成にあると思うが、多数決にその本質があると曲解されてしまうと、どうしてもマイノリティを排除する動きが生まれてしまう。このように、より社会が高次になるにつれて、問題が人間関係に帰結していく。

 

 

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