世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

今このタイミングでしか経験できないのなら、遂に実らないものだったとしても後悔のないように過ごしたい。

今年から自分の報酬額を少々高くした。

セルフイメージをコントロールしたいと思った。それから起きた面白い現象として、自分の1日の業務が給与を超える行動になっているかどうかをなんとなく意識するようになった。

おかげさまで、といって良いだろう。最近の自分の日常が目まぐるしく、そしてさらにそれを加速させようとしている。

税理士の先生はこう言った「もはや相田さんの役員報酬は高くなっているのだから、相田さんが動いてなんとかするのではなく、時にはコンサルなどを入れて行かれた方が良いですよ」

その通りだと思った。今自分がしなければいけないことはなんだろうか。今までの自分の働き方のまま次のフェーズを迎えることはできるんだろうか。今までの働き方が肯定されるタイミングとそうでないタイミングはいつから分岐してくるのだろうと考え始めた。

他方、社長の時間が最大の資源であり、有限である。どんなに頑張っても24時間を超えることはできない。当然労働時間を増やすことも選択肢ではあるかもしれないが、すでに有限であるはずの労働時間を伸ばすにはどうしたらいいかを考えることは、改善率が120%までしかないところをいかに実現するかと考えるくらい、筋の悪いことであることはわかるはずなのに、なかなかそう思えないところに認知の歪みがある。

 

そこで自分が思ったのは8時間の生産性を高める、、、ではなく

8時間のうちの3時間、土日も含め、1日のうちの3時間を極限までに高めることができるとしたら、それはどんな時なのかを考え始めた。

 

結論はジェフベゾスが言っている。「1日に3つの良い意思決定ができていれば、もうその1日の業務は完了したと言ってよい」確かこんな感じだったはず。

自分もそれに倣って考えていこうと思った。

 

重要なのは「自分しかできない意思決定はなにか」ということを考えることだった。

そしてそれは「現時点で自分しかできないと"思い込んでいる"ものはなにか」という問いに帰結する。

そして、究極的に言えば自分にしかできない意思決定は存在しないのではないかと考え始める。もちろん自分にしかできない意思決定が存在していることはわかっているし、その通りにやれば良い。だけど、すでに判断が成立しているもののうち、自分が何度も行う必要のあるものは本来的に自分でなくともできるポテンシャルを孕んでいる。問題は、それをその人に権限委譲するために必要なルールとスキルと評価がわからないだけなのではないかと考える。

今自分がすべきなのは、判断基準が明確な意思決定の委譲であるはずだ。

意外と思われるかもしれないが、採用意思決定を実は一番最初に手放しているように思う。なんなら自分は採用意思決定が苦手だとすら思っている。

自分が得意なのは採用意思決定が起きた後の対応の方にある。それは責任の伴うものであるが、得意というか、そういうものをなんとかするのは現時点では自分が対応している。

それに、事業KPIの達成は一度KPIツリーができてしまえばあとはそのKPIへのPDCAが回っていることがわかっていれば良い。となると自分がすべきなのは「サービスや事業がドライブしていくのに当たって必要となる新しい価値の創造はどのような意思決定によってもたらされるのか」という点に尽きる。市場や経済状況、テクノロジーの隆盛、労働市場のパラダイムシフト、競合他社や大手企業の動向など、、、、

統合的に考えて筋の良いと思われる10年後20年後を見据えた戦略的な事業開発の上で何から着手すべきかを決めること。そういうことをやっていけば良い。

そして決まったことを高速で推進する。企画設計からオペレーション、職務定義から業務範囲の定義、責任範囲を分割し、業務チェーンを構築していく、そしてそれぞれの判断基準を明確にして評価体系と紐づける。

 

それを同時多発的に推進することができていて、その推進の成功確率が高いことを保持した上で、そのレーンを1つずつ増やすことができさえすれば、自分はきっと次のフェーズに行けると思う。

 

 

その中で自分が最近気づいたことがある。ある従業員に「自分たちは時給をどれだけ低くすることができれば、意欲のある人材採用をしていくことができるようになるかを話している時に、相田さんはそれだとその人たち生活できなくない?って言ったんですよ」と言われたのだけど、自分はすごくシンプルというか何の気なしにその発言をしていたから、そこまで覚えられているなんて思わなかったのだ。

この前も送別会の時にこれで送別の品を買ってきてとお金を渡した時に従業員が律儀に領収書を持ってきたのだけど、「要らない」っていってシュレッダーにかけたことが相当印象的だったらしく、後になって「この前の件のお返し」といってちょっとしたプレゼントをもらった。

これらの経験から、自分は「思ったよりもまずいな・・・」と思った。

自覚なしにしている行動が他者に見られていることについて自分が思っているよりも無頓着であったことが明らかになってしまったからだ。

 

上記の例示はポジティブなものであったのだけど、自分が他のことに集中していて気を取られている時に発言しているという点に共通項がある。だからそんなこといったっけ?ってなってしまうんだけど、それがとにかくやばいことに気づいてきた。なぜならば、もしかしたら自分がなにも意識していないときにしてしまった不用意な発言によって求心力を失っていることがザラに起きているかもしれないことを自覚できないからだ。

自分の生産性を高めようとすればするほど、気を取られてしてしまう判断の数が増えていくように思う。同時に複数のことが走れば走るほど、他のことに気を取られて意思決定が歪んでしまうこともこれから増えてくるように思う。そんな時でもより正しい意思決定や、事業や組織が良くなっていく決断をするということは、最終的には社長である自分の根源的なスタンスやマインドセット次第で、事業や社会、あらゆるステークホルダーに対して自分がどう思っているかがどうやっても透ける瞬間がくるということだ。

 

自分の内面を疑っているわけでもなんでもなく、自分がしたいことは信頼関係の総量を増やし続けることだから、あらゆるステークホルダーとwinwinな関係になりたいと思っているし、誰かが毀損してまでハッピーになるなんてことは絶対にやらないと思っているのだが、なかにはそう思っていたとしても別の角度から解釈されることがたくさんある中で、本当にプレッシャーのかかる局面でも自分のスタンスをブラさずに一貫した誠実さを持てるかどうか、自分がなりたい漢気のあるかっこいい人間に近づけるのかについて、以前よりも細心の注意を払って過ごしていかなければならないことが確定してしまった。

その中でも自分が特に今強く思うのは、「たとえ未来に報われないことがわかっていたとしても、今ここで出せるベストがあるんだったら、それを選択するべきだ」と思うようになったこと。自分は、将来にわたって不可逆になる意思決定を避けてきたし、将来がポジティブになる選択肢を常に探索してきた。だけど、これからの自分がしなければならない意思決定のそれぞれは、どうやらそのような理想主義的なことだけではうまくいかないらしい。自分にはその人たちの未来への責任を今、現実的に取ることがどうしてもできない。本人らとの関係がいつか終わってしまう時がきてしまうとして、それでも今自分たちがそれを心から望むのだとしたら、未来がどうなろうと、今を選択すべきだと思う。思えば未来のことなんて誰にもわからないことを忘れていた。そして、未来とは今の選択の連続体であることを思い出していく。未来の自分が傷つくことや、何かを失ってしまうかもしれない恐怖から、今目の前にある選択を逃すことが、果たして本当に良い意思決定になるのだろうかと考える。もしその目の前の願いがあとほんの少しの勇気で叶うのであれば、それを選択すべきだし、なにより回避しなければならないのは、それを選ばなかった未来の自分が後悔をしてしまうことだ。それだけはどうしても我慢できない。

今日この瞬間は、自分の最も若い年齢であることを考慮したい。その時の自分にしかできないこと、味わえないこと、感情が揺さぶられる思いを抱くこと。そういうものを傍に置いてしまったばっかりに、未来の自分が振り返った時に「あのときにこうしていれば・・・」なんて思いたくない。これからの自分のためになることをするために、目の前の選択を諦めることなんか、もうしなくて良いんじゃないかと思う。自分がした今の決断の正しさを、未来の自分であれば難なく解決可能なことに期待をすること。今の決断を間違えないように、細心の注意を払って、周囲の期待や責任を負うこと。そしてそれによって、意思決定や決断の質を極限までに高めていくこと。

今このタイミングでしか経験できないことがもし仮にあるのなら、その決断を甘んじて引き受けようと思う。それによって降りかかる諸問題は、自分なら解決可能であることにもっと自信を持とうと思う。勇気を振り絞り決断しなかった後悔だけはしないことを祈っていきたい。
そうして過ごした果ての未来に、過去の意味を変えていくことで全てを救済したいと思う。