世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

大学時代にそういう関係になった時の話

世の中を支配しているのはお金ではなく、プロパガンダなのだと思う。

真実はそれによって覆い尽くされているから、そう簡単にたどり着くことができない。
政治的に生み出されたそれは集団によるものかもしれないし、単独なのかもしれないし、もしかしたら僕自身なのかもしれない。僕たちは何者かによって生み出された文化的規範の上にただ形作られているに過ぎない。だとしたら、僕たちが今こうしてなにかを考える際の素地というものは、常に何かしら誰かしらの意図を反映した結果であると言える。
僕は常々、どこからが僕で、どこからが僕でないのかの境界線を探らんという、イーロンマスクもびっくりするほど無謀なプロジェクトをローンチするのだが、甲斐無く失敗に終わる。デカルトはもしかしたら最高のプロジェクトマネージャーで、そこから一つの真実に行き着いたのかもしれないが、僕のようなポンコツプロジェクトマネージャーでは真実にたどり着くことはないだろう。原因は僕たちがあまりに多くのことを知り過ぎたからかもしれない。あるいは知らなすぎるからなのかもしれない。

 

 

 

大学一年生の秋、僕はとある授業を履修していた。教室はよくあるような大講義室ではなく、ちょうど高校の教室くらいの、主に語学の時に使われるようなところだった。
僕は毎回席の一番後ろにあるコンセントの近くを陣取って、授業中にMacを開いてカタカタしてしていたので、相当浮いていたと思う。しかも目的がない限り自分から話しかけにいくことがほとんどないという人見知りがアドオンしていたものだから、僕に話しかけてくれるということだけで、孫正義に投資されるくらい嬉しかった。
政治学科の僕が経済学科の彼女と出会うのはこれが初めてだった。

 

 

彼女はとても洒落たことを言う子だった。
僕が当時付き合っていた彼女に振られ、消沈し、「どうして浮気しているかもしれないと疑ってしまうんだろう」言った時も、「想像の世界と現実の世界に、どれほどの違いがあるの?」と、あの正確無比のカントも朝起きれなくなるレベルの問いをあっけらかんとした顔で突きつけてきた。もしかしたら落合陽一かもしれない。
彼女のおしゃれな物言いはおそらく小説が好きなところから来ている。「ノルウェイの森を読んだことがある?君もマルクスを読むけど、そういう意味では彼とは違うよね」と彼女が言ったことがあって、僕が「どういうこと?」と聞くと、彼女はクスっと笑って「自分の意見ははっきり言うけど、相手の気持ちがわかってないというわけでもないんだろうなってこと」と言った。
彼女の世界で笑う瞬間がとても印象的だった。それは僕がたとえその世界を共有できなかったとしても、許してくれていることを意味しているようだった。

その時の僕は小説というものを高尚な俗物だと思っていたから、理解する気がどうしても起きなかったのだ。恥ずかしい話だけど、僕は24歳になってようやく文章に隠されたストーリーをかろうじて読めるようになった人間だ。ノルウェイの森を読むことにしたのも、彼女との記憶を思い返した時に(僕は男性にはそういうある種の発作が一定の周期でくるように設計されていると信じているのだけど)その本のことを思い出したからだ。その時に、彼女の引用した言葉が緑の発言を元にしている内容だったことを知った。

『あなた頭おかしいんじゃないの?英語の仮定法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くのよ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだからにきまってるでしょ。』


たしかに僕はマルクスを勉強していたし、英語は仮定法くらいならわかると思う。数列は怪しいが、少なくともあの場面で、どうして?など聞くことはないと思う。もしかしたら以前言ってしまったことがあったかもしれない。でも彼女がそういうのであれば、きっと僕は"そういうこと"を言わないタイプの人間だと思われているようだ。そして彼女は少なくとも緑のような子ではなかった。

 

 

 


彼女に比べて僕が歩み寄ろうとしたことは多くないと思う。
二人で箱根までドライブに出かけた時、一号線で江ノ島まで帰ってくる帰り道にシャッフル再生でYou outside my windowが流れて来たのだけど、その時に僕が「俺きのこ帝国わりかし好きなんだよね」と言ったことがあった。
あくる日、彼女が下北沢で古着屋に行きたいと言って僕が駆り出された。授業終わりに明大前から下北沢まで井の頭線に乗って、僕もなんだかんだ2万円分くらい服を買い、夜ご飯を食べた帰りに終電を逃してしまうのだけど、僕がお金おろしたいからといってコンビニに寄った時、彼女は缶ビールと酎ハイを僕と自分の分を1本ずつ買っていて、それを一本レジ袋の中から取り出し、僕に渡して「クロノスタシスって知ってる?」と聞いてきた。僕が当然のように「知らない」と言うと、彼女は嬉しそうに「時計の針が止まってみえる現象のことだよ」と言った。
きのこ帝国の一曲をオマージュしたものだった。しかも下北沢の0時過ぎというMVのワンシーンを忠実に再現した上で。

 

もしかしたら僕たちは、時計の針が止まって見えたから終電を逃してしまったのかもしれないし、もしかしたら時計の針は本当に止まっていて、それが原因だったのかもしれないし、もしかしたらもっと別の恣意的な、色情的な理由だったのかもしれない。でも間違いなく言えるのは、彼女はきのこ帝国を知らなかったということだ。僕が彼女のことをどれだけ理解できていたのかはわからないし、もしかしたら僕からの歩み寄りを彼女が必要としていなかったのかもしれない。でもそうじゃなかったとしたら、僕は彼女に何かを与えることができただろうか。今となっては知る由もないことのなのかもしれないけど。

 

 

 

大学二年生になった僕たちは、昼休みにご飯を食べた後の空きコマで、キャンパス内のカフェのテラスに腰掛け、飛行機雲が大学を横切るようにして飛んでいるのを眺めていた。「また、あの暑い夏がやってくるんだね。長い夏になるといいね。」と彼女は言った。4月の肌寒い季節が終わって、これから暑くなるかなって時の温暖で平和な空気が僕も彼女も好きだった。僕は「あだち充のヒロインが言うようなことを言わなくていいよ」と言った。すると彼女はニコッと笑って「でもあいちゃんは喜ぶでしょ?」と言った。僕も「そういうところだよ」と言ってあの漫画の主人公を演じることにした。

僕は彼女の「そういうところ」が好きだった。でも僕が彼女に伝えたことはなかった。それを言うことを必要としない関係だと思っていたからだ。

僕にとってそういう関係はたまらなく尊いものだった。僕たちは沈黙しているが、了解している。そこには事実とかいう、解釈によって容易に捻じ曲げられてしまうものの入り込む余地などない。僕たちに事実は必要なく、僕と彼女とその距離とで居ることができればただそれでよかった。 何が好きで何が嫌いかなんて、本当の意味で僕たちが知覚可能なのだろうか。パブロフの犬のように、僕たちはすでに何かを学習してしまっていて、その反応に従って生きているだけなのかもしれない。その疑いなくして、どうして僕たちは想いを共有することができるのだろうか。相手の意味するところと、僕の意味していることに乖離があるのは当然で、だからこそ、互いの想いを伝えきらないことに優しさというか、美しさがあるように思えた。

 

 

当然彼女もそう思っているものなのだと僕は思っていた。

 

 

 

真実は多く語られず、沈黙している。
たとえば僕たちがそれを言わないように。