世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

今回の衆議院選挙に対して思うこと

衆議院議員選挙に行ってきた。僕はお世辞にも政治に詳しいというほどのものではない。でもそれでも政治については出来る限り自分が納得のいく投票を行いたい。そうでなければ、投票したくてもできないだろう。本音を言ってしまえば、『どの政党を支持すればいいのか、もし自分の意志に反した政党に投票してしまっているのであれば、それよりは投票しないほうがいくらかましだろう。』そういうことをしげしげと考えていた。とはいいながら、今回の選挙の争点は明らかに見えたし、歴史的な局面に政治参加しないなんてもったいなさすぎる。そういう思いから、悪天候の中にも関わらず母校へ投票しにいくことにした。

予め断っておきたいのだが、僕はまだ、どの政党を支持すべきかがわかっていない。おそらく有権者のほとんどが僕と同じような状況にあるはずだ。あるいはそうでない人もいるかもしれない。勿論、わかることに意義があるのかどうかはわからない。集合知が最も確度の高い正解とする言説も勿論存在する。国民が利己的な判断を下すことによって世論を捉えるということもあろう。
時々思うのは、人間社会における真実というものは常に存在していないものなのではないかということ。
特に、誰がどういう意図で動いているのか、何がどういう思惑で動いているのかというのは仮説は立てど、これが当時の真実なのであると言い切ることはできない。
例えば「なぜ日本は敗戦濃厚な最中で戦争に踏み切ったのか」その通説を問い直す営みは今日の意味上における「歴史修正主義」とされてしまうのか。今回の選挙は憲法改正が大きな争点でありながら、大きな問いとして立てられていたのは「立憲主義とはなにか、民主主義とはなにか」という問い直しだったのではないか。だとしたらその問い直しは「歴史修正的」なのだろうか。それとも「本質的な社会の在り方に対する健全な再考なのだろうか」

 

ぶっちゃけてしまえば改憲が行わなわれるのは明らかだった。というより、今回の衆議院の解散は「改憲を行うために行われたもの」と捉える方が適切だとさえ思う。
それ以外の公約に関しては政治パフォーマンスのネタでしかなく(言い過ぎだけど)教育費用の拡充や原発再稼働、消費税問題というのは悪く言えば「国民の感情論を焚き付けるテーマだから扱われているに過ぎない」と言ってしまったほうが良い。


例えば消費税をあげたほうが良いということが、仮に学者の研究によって明らかにされていた場合、すぐにでも増税したほうが良いかもしれない。しかし国民の理解が得られないことには増税は難しいし、世の中は信用という幻想によって動いているのだから、「消費税が増税した」という事実によって「消費凍結が起き」、「経済成長に陰りができる」という因果は起こりうる。


簡単に言えば、政治において重要なのは、「国民の感情をどこまで理解して、大局的な戦況を読むか」であって、これが行き着く先は「国民の感情を如何に扇動するか」ということになる。だからメディアが力を持つ構造であった。
SNSやインターネットがその役割を代替する勢いにある昨今では、メディアの持つ役割は鈍化し、役割を果たしきれていないという批判も目立つようになってきている。
一方、SNSという玉石混交ツールは多様な意見を反映している。だからこそ「どの情報が事実を述べているか」という取捨選択、いわば国民のリテラシーが上がっているのではないか。
今まではテレビや新聞でしか情報を取得できなかったが、情報経路が拡大することによってテレビや新聞の社会的地位は揺るがされた。そして情報過多になったことで、逆説的にそれぞれの媒体を「疑う力」が養われ始めた。「情報選択の見極め」が自然的に向上したのである。この傾向はこれからも続いていくだろう。それはおそらく人類にとって良いことなのだと僕は思う。政治というのは「大衆扇動的に決められる」ものではなく「民主的に決められる」ことが正義であると信じているからである。

今回の改憲はどうだろうか。これは本当に国民の意見を反映した状態になっているのか。
僕から述べると、逃げ腰だけど、「改憲に反対でも賛成でもない」という立場を取っている。
なぜならば、「改憲によってこれからの社会がどうなってしまうのか、全く予想がつかないから」である。

僕なりに立場を考えてみると、改憲派は対外関係(特に北朝鮮)に対して強硬路線を取りたいという感情的な立場であるとみる。あるいはそうしないと自国防衛が不可能であるという風に考えるのだろう。
一方で護憲勢力日米安保自衛隊の存在が対外的な緊張を煽るものとしてみているのではないか。「日米の関係がなければ、そもそも自分達が戦争に巻き込まれることはない」と考える立場をとっているとみる。
それに対して改憲派は、「日米の協調路線が解消されるということは他国からの侵略に脆弱になるということであり、現段階でそれはできない」と考える。
そこで護憲派は「憲法9条を守りながら自国防衛力を身につけることは可能である」と考える。
この考え方の違いは大した差ではないと思ってしまう。問題なのは、
自国防衛に対して「九条に対する解釈にどのような影響があるか」でしかなく、
憲法を改正したことによって起こりうるリスクの列挙とその可能性についてどのように考えるか、が焦点であると僕は思う。となると問題なのは、
改憲によって日本が侵略の危機にさらされるリスクはどの程度あるのか」
「護憲によって日本が侵略の危機にさらされるリスクはどの程度あるのか」
という点を比較することなる。
改憲によって行われることはおそらく「銃を持つ」ということである。
もし私達がマンションに住んでおり、その隣の住民が銃を持つと知った場合、「私が狙われるかもしれないから私も銃を持たねばならない」と思うだろう。
護憲は「銃を手放す」ことになるだろうか。隣人は「アイツは殴っても殴り返さないから殴っていい」と思うだろうか。あるいは「アイツは殴ると結構イタイくらい殴り返してくるから殴らないでおこう」と思うだろうか。
独裁国はどんな大義で日本に殴り込んでくるのだろうか。どんな意味があって侵略を行うのだろうか。
最善のシナリオは、「殴られてから対処する」ということではない。殴られないことが重要だ。でも核による抑止力が日本にどれほど必要なのか、僕にはわからない。

護憲派の立場に立ってみると、国際的な緊張関係に日本が巻き込まれているのは、米国との関係が同盟国としてみなされているからではないのかと考える事もできる。
米国からしたら日本はアジアへの玄関口であり、地政学的に確実に抑えておきたい「拠点」である。
以前までは米ソ対立の緊張関係からなんとかして日本や韓国を資本主義陣営に取り込む必要があったし、ソ連への経路としてその領土を拡大する思惑もあっただろう。米ソ対立によって朝鮮戦争という代理戦争が勃発した。北朝鮮という独裁国の暴挙は覇権国家の権力争いに巻き込まれた代償として、引き裂かれた結果として生まれた歪みだ。
雪解けの後、その対立関係は今は中国に向けられている。いずれにせよ、覇権国家としての地位を揺るがすことは起きてはならない。独裁者は常に寝首を掻かれることを極度に恐れる。スパルタが奴隷にそうされることを極度に恐れたように。

これは北朝鮮内でも同様に起きていることだろう。「独裁者としての地位を確保するために武力を誇示することで権力を維持したい」構図はどの時代にもみられることだし、おそらく北朝鮮の挑発的行為は支配力の低下によるものだと考えてもよいのではないか。すべて仮説でしかないのだけど。

だとするならば、論点は、
「支配力の低下により対外的挑発を繰り返す北朝鮮が、日本への武力行使をするメリットはなにか」
である。このメリットの如何により、「日本も武装すべきだし、時にはこちらから強気な姿勢を見せることも重要」なのか、「護憲的な立場をとりながら、防衛力を高めることに終始する」ことを選択することになる。
正直にいってしまえば、北朝鮮の無茶苦茶ぶりに憤りを感じない人はいないだろう。腹立つこともある。対話が必要といっても対話が成立しないようだとしたら、強硬手段をとるしかないという気持ちになるかもしれない。「強豪校のレギュラーで正捕手をやってる自分が万年ベンチにも入っていないアイツにすげー舐められた態度を取られている」状況は、すげえムカつくだろう。感情的になってはいけないと思い、うまく対応をしてきたが、温厚な人間も堪忍袋の尾が切れるというものであって、強行路線に走りたくなる気持ちもわかる。このバランスを取るのは難しい。
とはいえ、この論点にしたがって議論をするならば、答えはひとつに収束しそうなものである。事実や予測、リスクによる冷静な分析によって、どうすべきなのか、自ずと答えが出そうな気もする。


しかし「共謀罪の成立」「特定秘密保護法」「安保法」に対して採決を強行したという印象が強い。これはまさに来るべき時への先駆けと映ってしまう。
これらの法案は果たして本当に民意が反映された結果だったのだろうか。これは本当に自民党の意志によって決定されたものなのか、あるいは大きな圧力がかかっているとみるべきなのか。

僕がわからないのはまさにその一点である。自民党を応援すべきか否かは、「自国防衛、独立」に対してどのような立場を取っているのかがわからないのである。

それでもやはり、アベノミクスの功罪と裏にある日銀のアヤシイ動きについてはもっと考察を深めていかなければならないし、真実を追求することを止めては行けないと思う。参院選では「自国利益を守る為に日本企業を強くする必要があるし、トップアップでおこなわなければならないこともある」と思っていたし、それは間違いないだろうと思う。しかし蓋を開けてみれば、異次元緩和によって金利は歴史的な低水準となり、銀行は少なからぬ打撃をうけたにも関わらず、それでも「企業がお金を借りてくれない」

企業はというと、「これから起こる不景気に備えて貯蓄しよう」という流れが膨れ上がる内部留保から見て取れる。アベノミクスが当初期待していたような動きが起きなかった。企業が儲かったお金が投資に回されることがなく、労働者の賃金があがらなかったのだ。これでは一部の富裕層と労働者の格差の拡大を招いてしまう。

日産や東芝、シャープがバタバタと倒れていく中で、神戸製鋼が今度は倒れることになりそうだ。もし僕の仮説が正しく、「アベノミクスによって自国の企業を再成長させる」ということが目的であったならば、結果としては失敗しているといえるのだろうか。きらびやかな日本を彩った伝統的産業は危機に瀕しているにも関わらず、国民の意識はどこに向いているのか。

経済的にも判断が難しく、外交関係も凄まじくヤバイ状況の中で、最善のシナリオを選択していくためにはどうしたらいいのだろうか。


そのひとつの観点として、憲法に立ち返るという動きはどうだろうか。
権力が濫用される組織や国家は必ず滅びる。これを定説とするならば、どのようにして権力の集中と不敗を防いでいくのか。監視と抑制に対して明文化されたルール、約束が扇の要として機能した状態で権力を行使されている状態を目指すべきだし、そう簡単に豊かな国にはなれないかもしれないけど、それでも多くの人が納得できる決定をすべきだと僕は思う。憲法が「多様な考え方、価値観を持つ人々が共存するために明文化された基本的枠組み」として機能することを期待されて制定されているものだとするならば、「どんな手段を用いても正解を引く」ことよりも「予め決められたルールを遵守することで納得解を生み出す」ことを重視することが「暫定解としての確からしさ」を保障してくれるのではないか。少なくとも民主主義なのであれば、「有権者の納得解こそが正解」といってしまっても良い。今起きていることは、言うなれば「政治権力の在り方が変わることで国家の在り方それ自体が脅かされている」状態になってしまうかもしれないという風にも言える。

 

権力に対する抑止効果が失われ始めている今だからこそ、政治の意思決定プロセスへの問い直しは有権者が考えるべきテーマのひとつとなればと思う。

それとはまた別に、最近は日本人論が個人的にホットなので機会があれば書いていきたい。