世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

 余裕ぶっこいてたら留年しかけた話


8月からおよそ二ヶ月くらい働いてみて感じたこと。
昨日と同じような一日が僕の意志とは関係なく流れていくようなそういう感覚。もしかしたらそれは清流かもしれないし、濁流に呑まれていることに気付いていないのかもしれない。僕は今、その人生の流れみたいなものをパシッと捉えきれていないことに不安を感じている。僕は経験に隷属しているが故に、経験から切り離して今起きていることをあるがままにみることができない。それでも僕は必死で考えてみる。それはあるいは無駄な試みかもしれないけど、そうしないと残機切れになってしまうような感じもしている。

働きだしてからの一週間は思っていたよりも早く過ぎ去った。その1週間の密度は僕が想像していたような、1日ごとにレベルアップが実感できるようなものではなかった気がする。あるいはレベルアップしているのかもしれない。だけど、昨日と今日の僕を比べてみてなにが変わったのかみたいなことを考えて、なんとなくこれっぽいみたいなことを言ったとしても、これが変わった所だと言い切るのがとても難しいのは確かだ。でもこの微小な変化を逃さずに記録していくことはポケモンの世界でレポートを書いておくくらい重要なことのように思う。さもなくば、マサラタウンからやり直さないといけなくなるのかもしれない。僕はだからこそ、出来る限り内省に時間を取りたいと思っている。

 

 

 


今までの僕は、なんとなくだけど、人生には節目のようなものがあって、その節目を迎えることによって「僕の物語」第二章が始まるのだと思っていた。今考えてみると、大学生から社会人になるという変化は思ったよりも自然だったし、大学生であることと社会人になることに何か違いがあるようにも思えなかった。まるで成人式を迎えたからといって成人になったという実感がなかったように。良いのか悪いのかは別として、そういうものなのだと思う。

言ってしまえば人生に節目みたいなものは存在していない。僕たちが節目を付けたがっているそれはあくまで儀式なのだ。今までの僕は節目が存在していて、その節目を迎えることで日常が反転することを期待していたかもしれないけど、そうではなくて、節目がないからこそ、節目を設ける必要があったのだろう。昨日とは違う自分に変わるきっかけを必要としていて、その理由付けとして節目となるような儀式を期待するのは僕だけに限った話ではないと思う。

とにもかくにも、劇的な生活の変化をどこかで期待しているところがある。それは日常に退屈した物語の主人公がある日突然非日常に巻き込まれていくような映画のようなもので、だけど現実にはそんなことは起こらない。当然僕もそれが幻想だということを理解しているつもりだ。
なんだけど、それでもなお、どこかで幻想的な非日常を期待しているがために日常が退屈に見えるみたいなそういう生活を送っているような感覚がある。

だからそういう意味では、僕は留年したほうが幸せだったのかもしれない。少なくとも、心のどこかでそれを期待していたことは否定できない。勿論、それが周囲の人々に多大な迷惑をかけてしまうことになることは理解しているつもりだし、起きてしまったことに対して全力でリカバリーをしたつもりだ。でもそれでもどこかで理不尽な宣告を受け渡され、その不条理に対して憎しみを燃やしながら生きていく人生をどこかで期待してしまった自分がいた。もしここで本当に留年してしまったとしたら、僕はこれからどう生きようか。それはひどく悲観的な思考実験だけど、今よりもよりよい未来を描く為に必死こいて想像した世界線は、思ったよりも悪くなかったように思う。生活を続けていくことが困難であるということを除いたとしたらだけど。

 

 

 

アリストテレスは倫理的徳を重視した人だと僕は認識している。僕たちは善を目的として人生を謳歌しようとしている種だとする。その善の最高形は政治であり、人々の政治参加はそれ自体が善なる活動であり、徳のある生活なのだと。
民主的な政治参加によって人々が成長し、理性的でより人間的な進歩をするのだと。そしてそれ自体が幸福な営みなのだと。
簡単に言えばそういうことだと思った。僕はマキャヴェッリアリストテレスの違いについて言及しても、マキャヴェッリアリストテレスのどの点について批判を述べたのかについては言及しなかった。僕が単位を落としたのはそういうことだった。僕にとってこの事件は、まるで車に乗るのに免許がいることを法で定めていないにも関わらず無免許で捕まったようなそんな出来事だった。

大学というのは王政で、独立小国の融合体で、そこでは独裁政治が繰り広げられているのだ。国同士の争いは互いの不利益になることをわかっているから、お互いの国に干渉することはない。僕たちは独裁者である王様に対し懇願し、許しを請うことで学士の資格を得る。長期的に返済しなければならない負債を抱えながら。これはいわば税金だ。


勿論自分の非を認めていないわけではない。簡単な話、余分に履修申請をすれば済んだ話なのだ。ただ僕はどこか、何か腹にくくったことがあるとリスクヘッジをしない傾向がある。就職のときだって一社しか受けなかったし、最終学期で単位を落としてしまう可能性があるとわかっていながら、「今期受ける授業ではSをとってやるぜ」と意気込んでしまえば、リスクなんてものに目を向けない。言ってしまえば超めんどくさがりで、最小の労力で効果をあげたいという欲求が人よりも強いのだと思う。だから自分にとってやる意義を感じられないものに対してはトコトンやらないし、それで怒られるし、文句も言われる。それでもなぜかこの変わらない悪習を変えようという気になれない。流石にそろそろどうにかしたいとは思いながらも。


あいにく僕はホッとしている。どんなに非日常を期待していたとしても、日常の延長に描いた自分の人生からズレることなく生活を送れることへの吸引力は僕が思っているよりも強いものだ。それが安定と呼ばれるものであるかはわからないけど。

思ったよりも僕は自分の意志で自分の人生を切り拓いていないのかもしれない。そういう意味で、結局何が起きたとしても僕はその生活範囲に限定された思考をし、その限定的な生活範囲から出ようとするようなことはわざわざしないらしいことがわかってきた。だから少なくとも起きたこと、この生活範囲においては最善解を出すことに腐心していくべきだ。

あるいはそろそろ自分を崖から突き落とすような勇気を持つべきなのかもしれない。もしかしたら崖から突き落とされたとしてもケロッとした顔で「なんとかなったわ」とか言ってるのかもしれない。
結局、どっかでそうしないといけないことは薄々わかってきている。それが明日であるか、5年後であるかの違いにどれだけ差があるのかはわからない。ただ、まずはそれがいつになるかについて答えを出す必要があることだけはわかってきている。