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世界の輪郭に溶ける

私という概念をいかに物語り、私を捨象していくか

わからないが口癖になった日

「わかんないんだけど、〜〜かもしれない」って言うことが増えた。おそらく、その前に口癖になっていたのは「それって本当なの?」だったと思う。

それって本当なの?

ほとんど全てのものが本当にそうじゃないかもしれない。

でもほとんど全てのものが本当にそうじゃないかもしれないのは一体どうしてなんだろう?


大学1年生のときに、波頭亮さんの『思考・論理・分析』という本を読んだ。
かるとは分かること、分かるというのは分けること。物事を分けて、その違いを認識することの繰り返しによって僕たちは理解している。一般的な学問も、比較に出発点がある。
この本は後輩に貸してから行方不明になってしまったので、手元にない。思えば論理的思考の本、いっぱい持ってたんだけど後輩たちに貸してから手元に戻ってきている本がない笑 数ある論理的思考の本の中でも特にオススメを教えてくれと言われたら、僕は考える技術書く技術よりもこちらをオススメすると思う。内容、殆ど思い出せないんだけどね。

悲しかったのは、論理的思考やなぜなぜ思考といったアレも、突き詰めるとキリがないということ。なぜを5回繰り返せ!っていうトヨタ的なアレは5回という一区切りを付けている点で◯だと思う。なんだけど、じゃあそれを後輩達にやってみてっていうと、論理の階層が飛躍したり、同じ階層の段階で同語反復になっているだけだったりする。
問題の分析になったとき、例えば新規事業を始めたいとして、現状の課題を分析してみようとなると、最初の課題設定に置かれるのは大抵「メンバーの企画力がない」
となる。ここでなぜなぜ思考としてそれはなんでなんだろう?と考えるのは簡単だと思う「メンバーの企画力がないっていうのはなんでなの?」と問えばよい。すると、「メンバーに論理的思考がない」的な答えが返ってくる。
どうしてこうなってしまうのか、僕にはよくわからなかった。おそらく僕も同じようなミスを行ってしまっているだろう。問題発見、課題解決が難しいのは、適切な課題設定と適切な課題分析と適切な仮説を立てるのがひどく難しいからだと思う。

ここで問わないといけなかったことは、「メンバーの企画力がないってどういうことなんだろう?」「その仮説は数ある問題の中で最も重要な課題なのか?」なのだと思う。大抵の場合僕達の思考というのは暗黙知に包まれた範囲でしか思考していない。人間の認識というのは割と雑魚くて、ここからは思考しなくて良いよね〜っていう自動化が常に起きている。だからこそ、「問うべきお題はなにか」という点を考えなくてはならない。しかしそれを意識して思考するのはとても難しいのだ。だから僕ができるささやかな抵抗は「自分たちが気づいていないことは何か」と問うこと。それこそアプリオリに「あーこれだね」なんてわかれば一番いいんだけど、大抵の場合は経験的認識に依存しているため、経験的な認識や思考のクセ、思い込みやバイアスを外す訓練をするという意味で問いの角度を変えるというのは結構重要だと思っている。

話はズレたけど、論理というのも結局、ゼノンのパラドックスのように、どこまでも細分化できてしまうキリのなさが存在している。僕たちが物事をより確からしく理解する手段として信望されていた理性や論理たちが自らのうちに脆弱性を秘めているという危うさに自覚してしまうと、それ以上に手段を持ち得ない僕は困惑してしまう。
それってどういうこと?それってなんで?この2つの問いは悪魔的だ。問いは重要でありながら、僕達の生を脅かす。だから僕たちはどっかで打ち止めしないといけない。だけど、それっぽい課題で打ち止めする根拠みたいなものがないことがほとんどだ。じゃあ僕たちはどうしているかっていったらその集団や組織のリテラシーがうまい具合に合致している点で「まあこんなところでしょう」という集団的な合意によって決めるか、もしくは、「定量的に分析するとこうなので・・・」というデータ的なアレで決まる。
集団的な合意っていうのはバイアスの宝庫だったりする。多くの場合、関係者の利害が意志決定を阻害していることが多い。どうしてそうなるかというと、集団での合意によって責任者がいなくなるからだと思う。だから、決定は責任者が一人で行ったほうが良い。
そういうわけで意志決定というのはとても孤独な仕事だと僕は思う。誰にも頼ることのない中で何を拠り所にしたら良いというのか。とても孤独なその仕事を全うしたいのであれば、思想をひたすら磨くしかない。というのが僕の結論だった。


僕が大好きなおっさんが「すべては疑いうる」といったんだけど、わからないが口癖になってしまった理由はまさにここの点にある。その気になれば、存在も時間も、疑いうる。本当なんてものは存在せず、あるのは形式的な解釈が具現化した社会のみであるということに絶望した時、「あ〜これからどうやって生きていこうかな〜」って思った。
このまま死ぬのもいいかもしれないし、このまま生きてみるのもいいかもしれない。
でも死ぬことへの恐怖が僕の意志とは関係なく抵抗することからいまだ逃れられていないので、「あ〜雑魚いな〜自分」と思ってしまう。

僕が村上春樹を愛読している理由は、彼が小説という物語を通して、この問題に対し懸命に取り組んでいるからだと思う。「自己の存在を疑い、問い直し、殺してみる」
そうやって頑張って自分自身をよりよく理解しようと努めているのだけど、毎度失敗する。本人がどう思っているのかわからないけど、成功した試しはおそらくないのだろう。おそらくこれからも成功することがない中で、しかしそれ以外に方法が見当たらないまま新たな物語を規定し、擬似的に死んでいく。根源的な、プリミティブな欲求を取り出し、捨象してみる。そして失敗する。失敗して収集がつかなくなってしまったからこそ、村上春樹の小説には結論がない。でもそれで何がいけないというの?
読者の期待を裏切るかのように、主人公の僕は日常的な生活に戻っていく。その点において、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドスプートニクの恋人では唯一その他の小説とは趣きが異なる。これもきっと彼なりの取り組みなんだろうなーと思って読んでみる。


与えられたレールの上を走るのはとても楽なことだ。就職し、働いていれば、大抵の場合、よく生きているとみなしてもらえる。でも本当にそれは「より良い生き方なのだろうか?」「わからない」

自由からの逃走という本の取り組みは衝撃的だった。結論から言えば、人間は自由であることに不自由さを感じてしまう。
自由と責任という二項対立の問題はハイエクも取り上げていたけど、大衆は自由であることを実は好まないのだ。生きるという自分の生への責任を自分で負うことはとても大変なこと。「だれもお前の為に死んでくれないのに、どうしてお前は自分で生きようとしないの?」


 

ヘーゲルに言わせれば、僕達が得られる自由の範囲は「選択自由性」にあるという。
僕たちが自由を想像する時、もしかしたら「自分の思い通りにいくこと」を自由と呼んでしまっているかもしれない。僕が生きていた中に限っていうと「空を飛んでみたい」と思って飛べたことはなかったし、「お金持ちになりたい」と思ってもすぐにお金持ちになんてなれなかった。自分の思い通りにいく人生なんて僕は経験したことがない。

おそらく自由というのはそういうことではないのだろう。僕たちが享受できる自由というのは、「2つか3つの道があって、君はどの道を選ぶか?」くらいなんだと思う。
「多分だけど左の道も真ん中の道も右の道も、君とって同じくらい苦しいことが前提だよ?どうする?」
「わかんない。わかんないんだけど僕は左の道に進むことにするよ」

今までの僕はわからないことがないように生きていこうとしすぎていたのかもしれない。そしてそれは僕だけじゃないように思う。
今もわからないしこれからもわからないなら、せめてわからないことを選択して生きていくことにしよう。