世界の輪郭に溶ける

私という概念をいかに物語り、私を捨象していくか

自由の代償は高い

 

ちょうど一年くらい前に一泊二日の沖縄旅行に行ったことがある。短期インターンの優勝祝いだった。そのときにたまたま知り合った別タームのインターン生がいた。はっきりいって、僕は彼を尊敬している。
3月の、あれはまだ寒い冬が終わっていないかなってくらいの時期だったと思う。羽田空港に着いたものの、集合場所が明記されていないからどうしたらいいのかわからない。正直、修学旅行にでもいくみたいに思っていたし、引率の先生がいるのとおんなじ感じかなと思っていた。でも飛行機の時間は決まってるから乗らないわけにはいかない。そんなこんなで乗り込んだ乗内には、おそらく同世代であろうメガネをかける真面目そうな青年が、指定された席に座ってちょっとした学術書を読んでいた。その時僕は「休日のこの時間に一人で座っているなんてことが起こるとしたら、それは乗って良いのかわからない飛行機にのる時くらいなんじゃないか」と思った。乗内アナウンスが「高木さん」を呼んでいる中で、僕は「彼がBタームの優勝に導いたな」と思った。それが僕が彼を知る初めてのエピソードだった。


でもそんな彼と真面目に話したのは就活が終わった6月中旬のことで、そのときだってまだ彼のことをよくわかっていなかった。「うわこいつすごいな」って思うようになったのはつい最近のことだ。そう思うようになったのも、彼が何を考え、何に悩み、どういう意志決定をしたのかを追体験したからに他ならない。

正直にいうと僕は思考停止していた。というより面倒だと感じた。なぜなぜ思考は5回繰り返せ!とか言われているけど、どうして5回なのか、4回ではダメなのか?本当にブレイクダウン出来ているのか?そこちょっと同語反復になっていないか?・・・的な疑問に追いやられてよくわからなくなる。膨大な情報の中で確実性の高い変数の選択をしていく作業、どの変数を切り落とすか、どうやって切り分けて思考するか。就活っていうのは大変な作業だ。

「結局それって決めの問題じゃん。決めたらそれでいいじゃん。」

当時の僕は少なくともそう思っていた。勿論今はそんなこと口が裂けても言えない。せめてもの懺悔として書いていこうと思う。

全くもって、自分の無知無能に気づくことの精神的な負荷はない。

 

 

就活をしている学生諸君。はっきりいって、僕達が得られる情報量なんていうのは、ほとんどない。あるように見えるだけだよ。

でもそのような状況下においても、まるでホームズのように推論を辿ってひとつの仮説に収束させることが出来る。するかしないかは別としても、そうやって僕たちは限りある情報から推論を組み、ある仮説を導き出さなければならないのだ。

「この会社は自分にとって入社するに値する会社なのだろうか?」

 

勿論この仮説立証には、ある隠された前提が存在している。
「就職することは間違っていない」
という前提だ。
僕はこの前提をある程度許容した上で仮説を立てることにした。つまり、この変数は切り捨てて考えないと思考が煩雑になる。こういう感じで思考を前に進めていく必要がある。


「この会社は自分にとって入社するに値する会社なのだろうか?」
さて、この問いに答える為にはまず、何がわかればわかるのかを考える必要がある。
給与?職種?立地?成長速度?従業員満足度?人柄の良さ?

こういった条件は就職先を決めるにあたって必要とされているかもしれないが、退職するときの理由にはあまりならないのではないかと思った。
つまりもっとディープで根深い問題が孕んでいて、僕たちはその絶望を目の当たりにするから退職するのではないか。そんな仮説を立てた。もちろん、希望と勇気を胸に掲げている人がそんなことを考える必要はない。ただ僕には、「どうしてこんなに優秀な彼が選考を辞退したのか」という事実が僕の心象にあまりにも大きく、根強く残っていたし、「どうして先輩方は1年以内に辞めていくのか」という事実が僕にも起こりうる可能性があると考える必要があったのだ。さもなくば、入社後、期待値のギャップに苦しんで期待通りにいかない可能性が出るからだ。

僕はよく「事実と解釈は切り分けて考えないとマジでミスる」といっている。

例えばこんな愚痴はよく聞く。「まじ事業推進スピード遅いつらたん」
この情報を聞いて安易に意志決定してはいけない「あの会社には行かないでおこう・・・」って意志決定をするのは、結局のところ自分でなにも決めることが出来ていない。この情報からはまだ何一つとして得られるものがない。
事業推進とは何を指しているのか?予算承認プロセスなのか、施策をひとつ打つのにかかる承認なのか、エンジニアの工数が足りないのか、ミーティングがいちいち多いのか、
事業推進スピードが早い状態はどういう状態なのか?これは僕達にとって早い遅いは重要な問題なのか?重要だとしたら、改善は可能なのか?改善できないとしたらどうしてなのか?改善できないとしたらどう対処すべきなのか?

みたいな風に考えないことには、解釈から事実に到達することが出来ない。
一般的に、社員さんの話を聞くとか、OB訪問をするとか、そういうときに話されることの8割は解釈の話をしていると思ったほうが良いと思う。その解釈に至った背景や、その事実が起きてしまう理由について構造的に把握した上で、対処法が「この会社に入社しない」なのであればそうすべきだし、対処可能もしくは問題としないと決めたのであればもう少し話を聞けばいいと思う。

もう一つ、
「感情と論理は切り分けて考えないとヤバイ」
もよく言っている。これは事実と解釈と似ているところではあるんだけど、例えば
A君「あいつマジで優秀だよな」って言ったときに B君「でもアイツ自分のやりたいことしかやらないじゃん」
みたいな会話のとき。単純化して話しているけど、ここで容易に「確かにそうかも・・・あいつ大したことないな・・・」って思ってはいけない。
こういう時はB君の感情的な要因がそう言わせている可能性がある。
これは例えば「僕商社に行こうと思ってるんです・・・」って人事に相談したら「商社はやめとけ」って言われる理屈と同じで、こういう感情を出発点とした論理は至る所に蔓延している。僕たちは人間の負の感情という地雷原をなんとかして避け続けるか、踏み散らかしても死なないマッスルを手にするか、そもそも通らないか、空を飛ぶかして目的地に到達しなければならない。

これらが僕の思う、「僕達が得られる情報なんてほとんどない」ことの理由だ。

企業は学生が欲しい。学生にきてもらう為に様々な工夫をする。ときには思ってもいないことや、事実とは相反することをいうこともある。僕たちはそういった無自覚の悪意を避けながら、僕達にとって良いとされる何かを掴みにいく必要がある。

 

もう一つ、僕達が犯している認知のエラーは
自分にとっていい会社=「自分が思っている通りに働けること」

ということなのではないかと思う。もし自分が思っている通りの環境で思っている通りの仕事で思っている通りのやりたくない仕事は誰かがやってくれるとして、果たしてそのような状況は本当に起こりうるのか?起こりうるとしたらどのようにして起こるのか?起こらないとしたら、何を許容し、何を曲げないでいる必要があるのか?
そういう風に考えていくと、悲しいかな、そもそも「自分の思っている通りにはならない」らしいことが徐々にわかる。

となると、作業としてすべきなのは
何が譲れなくて、何は許容できるのか

を明確にすること、となる。
その実現の為に必要な情報は何で、必要な行動はなにか。
ということを考えていく必要がある。

 

抽象的に話せる内容はどうやらここまでらしい。

僕はずっと自由になりたかった。でも僕は自由というものがどういうものか、よくわかっていない。自由という幻想を抱きながら苦悩しているだけかもしれない。
どうして自由になりたいんだろう?それはきっと何かしら窮屈な思いをしているからじゃないか。
「そんなこといったらみんなもしてるでしょ?窮屈な思い」

 

 

社会的通念が僕の思想を毒していることに気づいてから、僕は何を信じたら良いのかよくわからなくなった。
住みたい街ランキング見て、「吉祥寺に住んじゃえ♡」みたいなことは僕にはもう言えない。言えたほうが幸せかもしれないし、言えないことが不幸かもしれない。でも、そういうことなのだ。窮屈というのは、自分の意志が何かによって阻害していると感じるときのことを指すのではないか。そんなことを言ってしまったら、僕はいつも窮屈な思いをしている。自由に生きたい。でも自由という言葉の意味がわからない。もしかしたら僕も「自分の思い通りに生きる人生」に幻想を抱いているのかもしれない。それを自由と呼んでいるのだとしたら、それは暴力的だ。僕はどこかで自分のことを特別な人間だと思っていて、僕が特別な人間であることの理由として「思い通りに生きてやる」と思っているのかもしれない。そうだとしたら、これほど愚かな行為はないのだろう。

 

「自由の代償は高いぜ」
あるゲームキャラクターは死に際にそのようなことを言った。

芸術こそが社会的自由を唯一許しているように感じることがある。10代の僕には気づくことができなかった。今になってわかる。ゲームの描くシナリオと社会の構造が酷似している。少しずつわかってくる。彼らは出来る限り婉曲的に、僕達に警鐘を鳴らしているように見え始める。答えは教えてくれない。ただそこには、僕達が避けては通れない困難と、その処方箋が示されている。

 

彼も同じ仮説を導いたのだろうか。論理的に帰結した僕の仮説を時には誰かに聞いてもらいたい。