世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

わからないが口癖になった日

「わかんないんだけど、〜〜かもしれない」って言うことが増えた。おそらく、その前に口癖になっていたのは「それって本当なの?」だったと思う。

それって本当なの?

ほとんど全てのものが本当にそうじゃないかもしれない。

でもほとんど全てのものが本当にそうじゃないかもしれないのは一体どうしてなんだろう?


大学1年生のときに、波頭亮さんの『思考・論理・分析』という本を読んだ。
かるとは分かること、分かるというのは分けること。物事を分けて、その違いを認識することの繰り返しによって僕たちは理解している。一般的な学問も、比較に出発点がある。
この本は後輩に貸してから行方不明になってしまったので、手元にない。思えば論理的思考の本、いっぱい持ってたんだけど後輩たちに貸してから手元に戻ってきている本がない笑 数ある論理的思考の本の中でも特にオススメを教えてくれと言われたら、僕は考える技術書く技術よりもこちらをオススメすると思う。内容、殆ど思い出せないんだけどね。

悲しかったのは、論理的思考やなぜなぜ思考といったアレも、突き詰めるとキリがないということ。なぜを5回繰り返せ!っていうトヨタ的なアレは5回という一区切りを付けている点で◯だと思う。なんだけど、じゃあそれを後輩達にやってみてっていうと、論理の階層が飛躍したり、同じ階層の段階で同語反復になっているだけだったりする。
問題の分析になったとき、例えば新規事業を始めたいとして、現状の課題を分析してみようとなると、最初の課題設定に置かれるのは大抵「メンバーの企画力がない」
となる。ここでなぜなぜ思考としてそれはなんでなんだろう?と考えるのは簡単だと思う「メンバーの企画力がないっていうのはなんでなの?」と問えばよい。すると、「メンバーに論理的思考がない」的な答えが返ってくる。
どうしてこうなってしまうのか、僕にはよくわからなかった。おそらく僕も同じようなミスを行ってしまっているだろう。問題発見、課題解決が難しいのは、適切な課題設定と適切な課題分析と適切な仮説を立てるのがひどく難しいからだと思う。

ここで問わないといけなかったことは、「メンバーの企画力がないってどういうことなんだろう?」「その仮説は数ある問題の中で最も重要な課題なのか?」なのだと思う。大抵の場合僕達の思考というのは暗黙知に包まれた範囲でしか思考していない。人間の認識というのは割と雑魚くて、ここからは思考しなくて良いよね〜っていう自動化が常に起きている。だからこそ、「問うべきお題はなにか」という点を考えなくてはならない。しかしそれを意識して思考するのはとても難しいのだ。だから僕ができるささやかな抵抗は「自分たちが気づいていないことは何か」と問うこと。それこそアプリオリに「あーこれだね」なんてわかれば一番いいんだけど、大抵の場合は経験的認識に依存しているため、経験的な認識や思考のクセ、思い込みやバイアスを外す訓練をするという意味で問いの角度を変えるというのは結構重要だと思っている。

話はズレたけど、論理というのも結局、ゼノンのパラドックスのように、どこまでも細分化できてしまうキリのなさが存在している。僕たちが物事をより確からしく理解する手段として信望されていた理性や論理たちが自らのうちに脆弱性を秘めているという危うさに自覚してしまうと、それ以上に手段を持ち得ない僕は困惑してしまう。
それってどういうこと?それってなんで?この2つの問いは悪魔的だ。問いは重要でありながら、僕達の生を脅かす。だから僕たちはどっかで打ち止めしないといけない。だけど、それっぽい課題で打ち止めする根拠みたいなものがないことがほとんどだ。じゃあ僕たちはどうしているかっていったらその集団や組織のリテラシーがうまい具合に合致している点で「まあこんなところでしょう」という集団的な合意によって決めるか、もしくは、「定量的に分析するとこうなので・・・」というデータ的なアレで決まる。
集団的な合意っていうのはバイアスの宝庫だったりする。多くの場合、関係者の利害が意志決定を阻害していることが多い。どうしてそうなるかというと、集団での合意によって責任者がいなくなるからだと思う。だから、決定は責任者が一人で行ったほうが良い。
そういうわけで意志決定というのはとても孤独な仕事だと僕は思う。誰にも頼ることのない中で何を拠り所にしたら良いというのか。とても孤独なその仕事を全うしたいのであれば、思想をひたすら磨くしかない。というのが僕の結論だった。


僕が大好きなおっさんが「すべては疑いうる」といったんだけど、わからないが口癖になってしまった理由はまさにここの点にある。その気になれば、存在も時間も、疑いうる。本当なんてものは存在せず、あるのは形式的な解釈が具現化した社会のみであるということに絶望した時、「あ〜これからどうやって生きていこうかな〜」って思った。
このまま死ぬのもいいかもしれないし、このまま生きてみるのもいいかもしれない。
でも死ぬことへの恐怖が僕の意志とは関係なく抵抗することからいまだ逃れられていないので、「あ〜雑魚いな〜自分」と思ってしまう。

僕が村上春樹を愛読している理由は、彼が小説という物語を通して、この問題に対し懸命に取り組んでいるからだと思う。「自己の存在を疑い、問い直し、殺してみる」
そうやって頑張って自分自身をよりよく理解しようと努めているのだけど、毎度失敗する。本人がどう思っているのかわからないけど、成功した試しはおそらくないのだろう。おそらくこれからも成功することがない中で、しかしそれ以外に方法が見当たらないまま新たな物語を規定し、擬似的に死んでいく。根源的な、プリミティブな欲求を取り出し、捨象してみる。そして失敗する。失敗して収集がつかなくなってしまったからこそ、村上春樹の小説には結論がない。でもそれで何がいけないというの?
読者の期待を裏切るかのように、主人公の僕は日常的な生活に戻っていく。その点において、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドスプートニクの恋人では唯一その他の小説とは趣きが異なる。これもきっと彼なりの取り組みなんだろうなーと思って読んでみる。


与えられたレールの上を走るのはとても楽なことだ。就職し、働いていれば、大抵の場合、よく生きているとみなしてもらえる。でも本当にそれは「より良い生き方なのだろうか?」「わからない」

自由からの逃走という本の取り組みは衝撃的だった。結論から言えば、人間は自由であることに不自由さを感じてしまう。
自由と責任という二項対立の問題はハイエクも取り上げていたけど、大衆は自由であることを実は好まないのだ。生きるという自分の生への責任を自分で負うことはとても大変なこと。「だれもお前の為に死んでくれないのに、どうしてお前は自分で生きようとしないの?」


 

ヘーゲルに言わせれば、僕達が得られる自由の範囲は「選択自由性」にあるという。
僕たちが自由を想像する時、もしかしたら「自分の思い通りにいくこと」を自由と呼んでしまっているかもしれない。僕が生きていた中に限っていうと「空を飛んでみたい」と思って飛べたことはなかったし、「お金持ちになりたい」と思ってもすぐにお金持ちになんてなれなかった。自分の思い通りにいく人生なんて僕は経験したことがない。

おそらく自由というのはそういうことではないのだろう。僕たちが享受できる自由というのは、「2つか3つの道があって、君はどの道を選ぶか?」くらいなんだと思う。
「多分だけど左の道も真ん中の道も右の道も、君とって同じくらい苦しいことが前提だよ?どうする?」
「わかんない。わかんないんだけど僕は左の道に進むことにするよ」

今までの僕はわからないことがないように生きていこうとしすぎていたのかもしれない。そしてそれは僕だけじゃないように思う。
今もわからないしこれからもわからないなら、せめてわからないことを選択して生きていくことにしよう。

 

 

勉強の効用について

後輩に勉強の効用について問われたので、これを機会に自分がなんで勉強していたのかをまとめておいた方が良いなって思うようになった。自分で言ってみてはあれだが、「なんの為に勉強をするのか」という問いに対して、万人にウケる答えを僕が用意できるとは思っていない。僕が対象にしている人は基本的に大学1~3年生、もしくは高校生に向けて書いているつもりになっているので、大学を卒業している人や社会人の人が読んでも実りがあるとはいえないかもしれない。僕よりも勉強をしっかりやってきた人にとってはそんなことも知らないのかと言われてしまうことがあるかもしれない。

また、自分自身も答えが出ていないから勉強を続けているという側面もあると思う。というよりそもそも、勉強というのは何かの目的があってはじめて続けるものなのか、というのも疑問である。効果がないからやらない、ということが起きないようにするためにも勉強は必要なのだが、勉強をしないことにはわからない。

これらのことをうまい具合に論理立てて説明するのは少し難しいな、と感じている為、多少論理構造がずれることもあるかとは思うけど、そこは指摘していただけたら嬉しい。もっともっと、勉強をするということはどういうことか、というのを小玉たちと話しておけばよかったな〜。

 

まず僕が大学に戻って勉強をしよう、と思った経緯について説明をすると、そもそも僕は「クソみたいな大学を中退して働くぜ!」と言っていた人間だった。はっきりいって僕も学問に対しては蕁麻疹がでるくらいには"苦手意識"のある人間だったのだ。
中学生のときから「なんの為に勉強をするんだし」と思いながら全く先生の言うことを聞かなかったし、偏差値48の都立高校で学年最下位争いをしていた僕が高2の春に大学受験を決意したのも、「今だけはお前ら(身の回りの大人や社会的な常識)の言うとおりにしてやんよ」くらいの気持ちだったから、生まれたときから「あっ勉強って楽しいな?」って思っていたような人間でなかったことを知っておいてほしい。だからこそ、勉強をしなかった自分に憎しみと後悔を込めて、「勉強したほうが本当に良い」っていうようになっていった。
じゃあそんな反知性主義者がどうして勉強しようという気になったのか、というと、
「実際に働いてみてわかる、なにもわからなさ」にぶち当たったのが非常に大きい。
「社会を良くするビジネスプランを練るぜ!」と意気込んでみたところで、世の中がどのようなルールで動いているのかをよく理解しないまま考えていても相当早い段階で「まじでこれ以上は本当にわからん」っていう壁にぶち当たる。この壁に対して気合で乗り切るっていうのもひとつの方法だったのかもしれないけど、当時の自分には赤字垂れ流しても行先の見えない戦いを3年続けて死なないと言えるだけの自信がなかった。
加えて、今の社会は本当に、「明日なにかが大きく変わってもおかしくない」ってレベルで未来を見通すのが困難になっていると感じていた。それこそ10年前とかなら「HTMLCSS書けます!」といえばITリテラシー高めの人だったかもしれないし、「なんかインターネットって来てんじゃね?」っていって何かしらを始めればなにかの成果が出るような時代だったのかもしれない。インターネットとモバイルの波があったと思うし、その波に乗ることがどうやら成功確率を大幅に上げていたっぽい。だからもしそうだとしたら、波が何時くるのか、その波に乗るにはどうしたらいいのか、を理解して行動に移せるようになることがなによりもまず自分にとって重要なのではないかと思った。しかし重要そうなのはわかっても、高度な専門性の必要性と複雑さの増した社会でビジネスをするのは尋常じゃなく難度が上がっている。しかも今起きている波が今はまだなんなのかわからん。今は資本を持っている会社や独占がうまくできている先行プレイヤーに追い風となっている感じがなんとなくしてる。ともあれ、今の自分に出来ることのなさに絶望したので、就職するとか修行するとかいってる前に、もっと根源的な基礎能力を高めないことにはどうしようもないな〜と思うようになったということだった。

こう書いてみて思うのけど、やっぱり僕は元反知性主義者だったので、「何の為に勉強をするのか」という理由が合理的に腹落ちしていない限り、勉強しなかった人間だったと思う。だからこそ、何の為に勉強をしたほうが良いのかについて、出来る限り伝わってもらえると良いなって思う。
しかし大前提として、僕は「何の為に勉強をするのか」という問いを立てる段階から既に勉強は始まっていると思っている。だから何のために?と聞かれたら本当は「自分で考えろ」って言いたいところなんだけど笑
ところで、ぼくたちはなぜ「勉強する」ということに対してこんなに否定的なのだろうか。そもそも勉強とはなんなのか・・・

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べん‐きょう〔‐キヤウ〕【勉強】[名](スル)
1 学問や技芸などを学ぶこと。「徹夜で勉強する」「音楽を勉強する」
2 物事に精を出すこと。努力すること。
3 経験を積むこと。「今度の仕事はいい勉強になった

前提として、勉強という言葉を語るのに重要なのは主体性・自発性だと思っている。
僕たちが勉強という言葉を聞く時というのは「勉強しなさい」という"しなさい"という強制、命令が組み合わさっているように感じていると仮定する。これは親がいう言葉、先生のいう言葉、大人がいう言葉が命令口調であることによるものの可能性が高い。その結果として「しなければならないもの」であり「させられているもの」であると僕たちは感じるようになってしまった。もちろん幼少期から勉強を強制させられたこともなければ自ら勉強をするようになった人もいるとして。

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これを踏まえた上で、僕は自分でする勉強について話すことにしたい。もっと言えば、
「自分で問いを立てて自分で調べて考えて自分で答えを出す」
という一連の作業を"勉強"と呼ぶことにしたい。その為、僕にとって"勉強"とはなによりも「問いを立てる」ということ。「問いを立てる」ということは疑問を持つということ。疑問というのは好奇心と結びついている。好奇心というのは物事を前向きに捉えること。前向きというのは良し悪しではなく、スタンスの問題。


ここで言いたいことがひとつできたのだけど、勉強というのは自らの問いに自らで答えていくものなので、勿論対話を通したりや教えてもらうことで効率化を図ることはあるけど、中高や大学の機関がイマイチだからといって君が勉強をしなくていい理由にはならないし、大学を叩いて自分が賢くなった気になるのは違うと思っている。単純に「君が大学を有効活用できなかった」のだ。
勿論僕も大学の在り方についてこうしたほうがいいと思うこともあるし、大学の腐敗が起きている理由のひとつに代謝の悪さと既得権益化が起きていることを指摘したいが、それはここで話すことではないのでトピックの提示に留める。あくまで建設的に。

  

さて、「なんの為に勉強するのか」という問いに僕が答えるとしたら、だいたい3つくらい出発点がある。中でもパワーワードなのは

「搾取されない人間になるため」

人間社会というのは「情報の非対称性」と「力の不均衡」を利用して自己利益を拡大していく営みがある。「情報の非対称性」というのは、相手は知らないが自分だけは知っている状態である。
自分達だけが知っている情報を生み出してしまえば、モノの値段を自由に設定することができる。値段を自由に設定することができれば、適性価格よりも多くの金額を設定して売りに出すことができる。ビジネスでは「いかに情報の非対称性を生み出し、情報の提供またはサービスやモノの提供を行うか」をやるとなかなか儲かる。

これはまた別の例だが、かなり極悪な行為のうちのひとつに「紙幣をバレないように刷る」ということがある。これを利用して通貨発行益を稼ぐことができる。正確な情報を得ることが出来ていないのと、経済は結構雑魚なのでイマイチわからんのだけど、お金を刷っていることが僕達にわからなければ、インフレは多分起こらない。ってなったときに「そんなことを政府がするわけない!」って言う人がいるかもしれないが、果たしてそう言い切れるだろうか? 日本史でも出て来る金の含有量を調整したらインフレ起きてやばかった事件とかが現実に起きていることは歴史上で確認できる。ただこの事実を知っていれば「もしかしたらしているかもしれないし、していないかもしれない」という可能性を観点として出せるようになるし、似たようなことを企業はしている可能性に転用して考える力を身につけられる。ぶっちゃけインサイダー取引とか本気だせばバレなさそうだし、株価を調整して身内で絶対に上がる株を売買するみたいなこと、違法だけどやってる人達はいるだろう。最近話題の森友学園もおんなじようなことをしているから問題になっているし。


「力の不均衡」もえぐい。労働者は資本を自分の身体以外に持たないため、自分の時間と能力を市場で売り買いしているが、資本家は土地やお金や労働を売り買いすることによって労せず資本を増殖させていくことができる。また、経営者と労働者の関係も不均衡だ。給料の設定は経営者が行うが、時間あたりいくらもらうのが対等な関係であるのかがよくわからないし、労働者の代わりはいくらでも利いてしまう側面があるので、文句を言ったら仕事を与えてもらえない可能性がある。仕事がもらえなくなったら労働者は生活ができずに困るが、労働者一人がボイコットして急に仕事にこなくなっても、労働者ほど経営者は困らない。

これは特に重要な2つだと感じているけど、法律や税制も、「マイナススタートで知って初めて0」という情報の非対称性が起きている。生まれたときから情報の非対称性が起きているといって良い。如何に税金の控除を受けるかとか、如何に税金を支払わずに済むように手続きができるようになるか、とか、如何に法律の抜け穴をみつけることができるか、が割と大事。自分はこの2つに対しては「そうなんだ〜」くらいにしか思えてないので詳しい人は教えてほしい笑
とはいえ、こういったものは国家で決めていることなので、民主主義国家であれば「消費税増税します!」っていう法案に対して国民がノーといえば増税されることはない。ただ今問題になっているのはメディアを活用した情報・印象操作によってマジョリティを扇動して自分達の思い通りに法案を通そうとしたり、重要な法案をメディアで報道しないようにすることによって国民が気づかないままやばそうな法案が通ってしまうことだと思う。今でいうと共謀罪とか。自分で正しいと思う判断ができる人をエリートと呼ぶとして、今の日本にそうした人がどれほどいるだろうか。僕はそういう判断がまだできる状態にないのでエリートであるとは言えないと思うけど、エリートが少数派になったり、本当は正しかった人がマイノリティになると、民主主義は腐敗速度をめっちゃんこ加速させる可能性がある。これが今言われている民主主義のダメなところ、とされているけど僕個人が思うに、叩かれるべきは「制度を悪用すること」だと思うんだよなあ。

2つめにある僕なりの答えは
「自由に近づくため」
だった。

よく受けていた授業の先生が言っていたのだけど、
「経済的自立、社会的自立、思想的自立の中で、最後のものを身に付けなさい」
僕はこの言葉からかなり影響を受けている。
1つめにもあるけど、基本的にこの世の中はみんなが自分の利益を最大化するように動いている状態が前提であり、実際にその通りになっていればwin-winだよね。っていうルールに基づいて動いている。だからこのルールに則って「自分の利益を最大化させてやんぜ!」といって動いている人たちというのは健全な人たちなのかもしれない。
こういう表立ったルールがあればいいのだけど、世の中にはルールとして明文化されてないけど実はルールとなっていたルールが数多く存在する。ぼくはそれを「社会的通念」と呼んでいるが、例えば「みんなが残業してたら自分も残業しよう」とか、「大学にいくのが当たり前」とか「大企業にいったら幸せになれる」とか「おしゃれな街ランキング1位吉祥寺♡」とか「浮気はダメ、ゼッタイ」とか
考えてみたらだれが決めたのかわからないんだけど、なんか暗黙の了解事項になっていることに対して、「それって本当なの?」
っていう問いを向けられることっていうのが個人的にすごい重要だと思っている。
それに、さっきも言ったとおり、どうやったらお金を儲けることができるようになるか、という能力も勉強をすれば身につくので、「経済的自由」に近づくことができるはず。悪いことはしなくていい。例えば地政学的に、時代背景的に、どこにいくら投資すると何年でいくらリターンが得られるか、という答えを出せるようになれば、お金に困ることはなくなるのかもしれないと仮説を立てて頑張っている。

 

3つめの答えは
「能力向上のため」

僕の場合は人間的成長をすることに関心があるので、学問的な勉強も、社会的な勉強もだいたいなんでも好きなんだけど、特に学問的な勉強で得られる脳のビルドアップに効果があると思っている。高度な専門性に耐えうる基礎知識を習得し、複雑化した社会を見通し、自分で問いを設定し、自らその問いを解き、次の時代の価値を生み出すことの出来る能力を僕は身につけたかったし、その点で言うと悪くない成長曲線だった。
また、僕の指向性として、RPGなどのゲームではなによりもまず、レベルアップごとに全ての能力が+1あがるようなパッシブスキルを好んでいたし、実生活でもそうしてきた。そのせいかわからないけど、なにかテクニカルな武器があるかといえばないので、現状はただのポテンシャル人間でしかない。同期にはゴミムシと呼ばれている。
でも、もしかしたらゴミムシになるかもだけど、そうやって自分の能力を出来る限り指数関数的に伸ばせるように順序立てて考えるとするならば、まずは脳科学かなにかを勉強して、人間の脳はどのように学習をするのか、どのように学習すると効率が良いのか、を理解してから学習を進めていくようにすると良さそう。次に純粋な思考力を上げる訓練をして、経験値が通常50しか入らない出来事から500経験値を得られるようにしてから進んでいくことが出来たら、とても良い気がする。

 

 

 

これが僕個人の思う勉強する理由で、大学の学問体系に沿って僕のしてきたことっぽいことをまとめるとこんな感じになると思う

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【分類】
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【分野】オススメ度+やりこんだ度

やったこと




コメント

 

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【人文科学】
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人間・人為の所産 (arts) を研究の対象とする学問

【哲学】★★★★★

やったこと
・問いを立てて考える
・哲学系の本を読む
・ネットで調べまくる
哲学史をみる

例えば純粋理性批判をゴリゴリ読んだとか、存在と時間を読んだとか、そういうことをしていたわけではなく、そういうのはネットに落ちてる解説とかをヒントに考えるテーマを拾ってそれについて四六時中考えるっていうのが基本的な日常だった。

【文学】★☆☆☆☆
やったこと
・近代日本文学の名作をちょろっと読む
村上春樹をひたすら読む
・思考

文学に対して学問的な教養があるわけではなかったので、芸術的表現がどうとかそういうことはわからない。でも小説を読む意義みたいなことはある程度語れるようになった気がする。目的がない限り本を読むことはないのだけど、小説に描かれる心理描写から人の共感性を高める訓練はできると確信していたし、人間の浅はかさやエゴといった負の部分に考察を入れる意味でも◎に感じる。あとは適切なコミュニケーションを学ぶことなど。村上春樹は自分にとってまさにライフハックだった。

【宗教】★★☆☆☆
やったこと
・ひらすらネットで調べる

人間社会を理解する上で宗教を学ぶということは割と切っても切り離せないと思ったのがきっかけだし、対立や思想の原点がどういったものかに興味が湧いて調べるようになった。幸せとは何かという問いに答えを出す為には宗教を学ばないことには始まらなかったので、自分の煩悩や執着をなくしていく試みを通して公益の最大化を人間が美徳とできるのかどうかを知るために毎日自分と向き合い続けた。結果として幸せになるためには死ぬしかねーなって結論になったのでそこそこ病んだしそこそこ満足した。

【芸術】★☆☆☆☆
やったこと
・美術館にいく
・演劇を観る
・映画を観る

人間としての感性を鍛えていきたいなーと思っていたので、お誘いがあったら積極的に行ってみたのだけど、これが結構よかった。特に演劇は面白い。人間の精神を昇華するひとつの表現方法として芸術というのが存在していると思うのだけど、そこからなにを読み取ることができるかというのを頑張ってた。でもやっぱ絵画から学びを得るのはとても難しい。演劇のプロット、論理性、世界構築感にとてもハマった。

【教育】★★☆☆☆
やったこと
・人材育成系の本をひたすら読む
・人材育成としての活動を行う

これは特別座学で学んだことは少なかったように思う。
マネジメントやコーチングの本はひたすら読んでいただけかも。デュルケムやデューイが何を言っているかについてはよくわからない笑 本質としては自身をより良く教育するために学んだといった側面の方が強かったように思う。

【歴史】★★☆☆☆
やったこと
・世界史をさらっと学び直す
・興味のある部分を集中的に調べる

歴史ってジャンルにおいて最も興味が湧いたのがユダヤ迫害の歴史とお金の歴史だったので、その辺を重点的に学んだ。歴史を学ぶことの有用性は未来を見通す為に必要な原理を発見するところにあると思ってるので、もっと深く勉強していきたい。個人的にはユダヤ人関係については絶対に勉強した方がいいと思う。WW2が起きた根本的な理由のひとつなので。


【心理】★★★☆☆
・心理学の本をひたすら読む
・調べる
アドラーにハマったのもあったけど、自分の感情や自分というものをいかに理解するかという点でも結構重要だった。自分にはどういう感情が備わっているのか、どのような欲求があるのか、それらをどう対処するのが良いのか。フロムとアドラーを重点的に。アドラー教育心理学っぽい人なのでその点でいうと教育にも触れてるのかな。メンタリズムみたいなやつはどちらかというと行動経済学にはいるような感じ。影響力の武器とかファスト&スローや予想通りに不合理は個人的にそっちに括られてる。

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【社会科学】
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人間の社会の様々な面を科学的に探求する学術分野の総体

【政治】★★★★★
やったこと
・授業
・本をひたすら読む
・日常的な思考

政治学科だけど、政治の制度、例えば議院内閣制とか、大統領制とか、その違いや特徴について考えていく授業は受けていたとはいえ、あまり興味がなかった。
国際政治にもあまり興味が湧かなかったところがある。
自分が一番関心があった分野は政治思想って感じだと思う。概念というか。資本主義というものを理解する。とか、社会主義はなぜうまくいかなかったのかとか、マルクス主義マルクスを理解する、とか。特別な研究をしたというわけではないので、なんとも言えないんだけど。。
専攻していたという割には古典をあまり読んでいないので、そこに負い目が・・・
政治を勉強したというよりも、「理想社会を実現するためにはどうしたらいいのか」という問いをひたすら答えていった結果身についていったという感覚があるし、それで良かったように思う。

【経済】★★★★☆

やったこと
・本を読む

・いっぱい調べる
・日常的な思考

社会のルールを理解する為に必要なのでだいたいやる。とはいえミクロマクロをやったわけでもないので数式とか見せられると爆死する。多分この分野も経済"思想"の方を理解していった感じ。実学に近い計量政治学とか、金融工学とか、そっちの方が未着手なので多分やったほうがいいと思うんだけど、手が付けられてない状態。
文系大学生が専攻すべきは経済でサブウェポンが哲学だと結構本気で思ってる。

【社会】★★★☆☆

やったこと
・とくになにかをやった感じはしてない

社会学とはなにか、という問いに答えるのは難しいんだけど、今のところ、社会の構成に対して多様なアプローチで考え理解していくものだと思ってる。代表的なものに家族、文化、人口学、都市政策らへんがあった。切り口の多様さでいうと社会科学の中でも◎なんだけど、社会科学が科学しない要因はやっぱり仮説検証の出来なさ具合にあるなーと。。

【経営】★★☆☆☆

やったこと
・代表活動
・経営、戦略の本はしこたま読んだ
座学での勉強をしたかっていわれるとイマイチぴんとこないんだけど、結構実践知があるように感じてる。組織の本質とか、メリット・デメリットとか、組織活動のパフォーマンスを最大化するためにはどうしたほうが良さそうかとか、組織戦略をどう組んでいくのが良さそうか、みたいなところはちょっとわかる気がする。
所属していた組織の性質柄、人材の評価・配置には自信がついた。

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【自然科学】
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自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにする学問


特になにかを勉強したわけではないけど、脳科学量子力学ってなんだろうとか、そういうのは本を読んだりいろいろしてた。イーロン・マスクも言っていたけど、物事の原理原則を突き詰めていくというのがかなり効果があって、その能力を養うのは数学と物理だなーと思う。これからは理系分野にも手を出していきたいと思いつつ・・・

 

能力のつけ方はT字型にしろ!とかN字にしろ!(?)とかなんかいわれてるけど、個人的にはピラミッド型にしていくのが好き。
バーベル型にするのも割と良いと思うんだけど、高度な専門性に耐えうる基本知識の習得が重要だと個人的には思っているので・・・・
そうなるとやっぱ数学がゴミみたいに出来ないマイナスをはやく解消したほうが良さそう・・・・・・・・・


ピラミッド型っていうのもやっぱり土台となるのは人文科学で、中間に社会科学、上段に自然科学、または実学としての経営学商学、経済学を身に着けていくのが良さそう。
ピラミッドを二次元に捉えるか三次元に捉えるかでいったら三次元の方が強そうだから、是非そうしたいんだけど、横と後ろに配置されるらしい学問がなにになるのかとか、それぞれの連関を理解した知識の結びつけがまだうまくいっていないので、そこが課題になってる感じがする。 

 

 

 

まとめ

勉強の効用について、何のために勉強するのかの動機は説明したけど、勉強してよかったと感じることについてはあまり話せていなかったように思う。
勉強してよかったと思うことのひとつに、「無知の知」を理解できたんじゃないかと思うところがある。
「自分たちが知っていることなどほとんどなかったのだ」と打ちのめされ、絶望した時に初めて門戸が開かれる扉があって、それを開けることができることで景色がまた一段と変わった印象があって。例えば「認識の限界」と呼んだり「知性の限界」と呼んだりしていたようなやつ。自分の愚かさに気づき、人間が理解出来ていることは殆どないことであったり、存在の証明をデカルトがしたっぽい感じになってるけどあんまうまくいってないことであったり、その中でかろうじて公理と呼んでいいことは物理法則だけであったり、現存する思想の中でも実存主義の立場に身を置いておく方がよさそうであったり・・・

自分の認識できる世界の狭さに気づいて、けれどもその世界を出来る限り広げていこうと思うときに主体的な勉強が始まったのかもしれない。

あと本来的に「勉強の意味とは」となったときに究極的な答えであり続けてほしいなって思うことは、「勉強の意味は人間的な成長を遂げることにある」ということ。トッドが長い人類の幼少期に終焉を迎えるといったように、知性の獲得を通じて、人間の愚かしいと言われている点を人間が相互扶助的に改善していくことが出来たらなあと思う。うん、それが一番大事かな~。


もうひとつ

これからの時代、何が必要だと思いますか?という問いに答えるとしたら、
「今自分が出している暫定解は"問いを立てる力"だよ」と答えると思う。
これから起きるだろうテクノロジーが人間の仕事を奪うっぽいという時代の流れの中で、代替されない可能性と、その能力習得の難しさや希少性を考えつつ、自分がどうやら得意らしく武器になりそうなこと、で考えていった結果、日常的にしていた「なぜなぜ?」が実は最も良さそうなんじゃないかなと。
確かにプログラミングのスキルがあることに越したことはないと思うし、自分も一通りやったのだけど、どう考えてもこのスキルを習得して武器にする頃にはプログラミングスキルが陳腐化しちゃってんじゃないかって思うし、陳腐化した時に食っていける人材はエンジニアの上流階級だけっぽいって考えると、自分がすべきことじゃないのかもしれないな〜って思うことがある。(それでもやったほうが良さそうなのにはかわりないんだけど・・・)
じゃあ自分って何をするのが一番いいんだろう、って考えた時に、中途半端な僕がすべきただひとつの仕事は、
文理、ビジネスアカデミックの中間地点にたつことの出来る人間になることなのではないか。
そういう風に思うようになってから、自分にしか出来ないことが出来るようになる為に、割とこのナゼナゼ能力に集中して時間を投下すべきだと思った。それは今までやっていたことを続けていけば良さそうだったので、とりあえずそういうことにしておいている。これは人によって違っていて良いし、違っているべきなんだけども。

 

とはいえやっぱり難しい。
「どうやったら日本の国内総生産量を増やせるか」
「どうやったら日本の雇用を安定させることができるか」
「どうやったら人々の能力を最大化し、適切な仕事を提供することができるか」

これらの問いに答えを出すのはまだまだ先の話かもしれない。

 

自由の代償は高い

 

ちょうど一年くらい前に一泊二日の沖縄旅行に行ったことがある。短期インターンの優勝祝いだった。そのときにたまたま知り合った別タームのインターン生がいた。はっきりいって、僕は彼を尊敬している。
3月の、あれはまだ寒い冬が終わっていないかなってくらいの時期だったと思う。羽田空港に着いたものの、集合場所が明記されていないからどうしたらいいのかわからない。正直、修学旅行にでもいくみたいに思っていたし、引率の先生がいるのとおんなじ感じかなと思っていた。でも飛行機の時間は決まってるから乗らないわけにはいかない。そんなこんなで乗り込んだ乗内には、おそらく同世代であろうメガネをかける真面目そうな青年が、指定された席に座ってちょっとした学術書を読んでいた。その時僕は「休日のこの時間に一人で座っているなんてことが起こるとしたら、それは乗って良いのかわからない飛行機にのる時くらいなんじゃないか」と思った。乗内アナウンスが「高木さん」を呼んでいる中で、僕は「彼がBタームの優勝に導いたな」と思った。それが僕が彼を知る初めてのエピソードだった。


でもそんな彼と真面目に話したのは就活が終わった6月中旬のことで、そのときだってまだ彼のことをよくわかっていなかった。「うわこいつすごいな」って思うようになったのはつい最近のことだ。そう思うようになったのも、彼が何を考え、何に悩み、どういう意志決定をしたのかを追体験したからに他ならない。

正直にいうと僕は思考停止していた。というより面倒だと感じた。なぜなぜ思考は5回繰り返せ!とか言われているけど、どうして5回なのか、4回ではダメなのか?本当にブレイクダウン出来ているのか?そこちょっと同語反復になっていないか?・・・的な疑問に追いやられてよくわからなくなる。膨大な情報の中で確実性の高い変数の選択をしていく作業、どの変数を切り落とすか、どうやって切り分けて思考するか。就活っていうのは大変な作業だ。

「結局それって決めの問題じゃん。決めたらそれでいいじゃん。」

当時の僕は少なくともそう思っていた。勿論今はそんなこと口が裂けても言えない。せめてもの懺悔として書いていこうと思う。

全くもって、自分の無知無能に気づくことの精神的な負荷はない。

 

 

就活をしている学生諸君。はっきりいって、僕達が得られる情報量なんていうのは、ほとんどない。あるように見えるだけだよ。

でもそのような状況下においても、まるでホームズのように推論を辿ってひとつの仮説に収束させることが出来る。するかしないかは別としても、そうやって僕たちは限りある情報から推論を組み、ある仮説を導き出さなければならないのだ。

「この会社は自分にとって入社するに値する会社なのだろうか?」

 

勿論この仮説立証には、ある隠された前提が存在している。
「就職することは間違っていない」
という前提だ。
僕はこの前提をある程度許容した上で仮説を立てることにした。つまり、この変数は切り捨てて考えないと思考が煩雑になる。こういう感じで思考を前に進めていく必要がある。


「この会社は自分にとって入社するに値する会社なのだろうか?」
さて、この問いに答える為にはまず、何がわかればわかるのかを考える必要がある。
給与?職種?立地?成長速度?従業員満足度?人柄の良さ?

こういった条件は就職先を決めるにあたって必要とされているかもしれないが、退職するときの理由にはあまりならないのではないかと思った。
つまりもっとディープで根深い問題が孕んでいて、僕たちはその絶望を目の当たりにするから退職するのではないか。そんな仮説を立てた。もちろん、希望と勇気を胸に掲げている人がそんなことを考える必要はない。ただ僕には、「どうしてこんなに優秀な彼が選考を辞退したのか」という事実が僕の心象にあまりにも大きく、根強く残っていたし、「どうして先輩方は1年以内に辞めていくのか」という事実が僕にも起こりうる可能性があると考える必要があったのだ。さもなくば、入社後、期待値のギャップに苦しんで期待通りにいかない可能性が出るからだ。

僕はよく「事実と解釈は切り分けて考えないとマジでミスる」といっている。

例えばこんな愚痴はよく聞く。「まじ事業推進スピード遅いつらたん」
この情報を聞いて安易に意志決定してはいけない「あの会社には行かないでおこう・・・」って意志決定をするのは、結局のところ自分でなにも決めることが出来ていない。この情報からはまだ何一つとして得られるものがない。
事業推進とは何を指しているのか?予算承認プロセスなのか、施策をひとつ打つのにかかる承認なのか、エンジニアの工数が足りないのか、ミーティングがいちいち多いのか、
事業推進スピードが早い状態はどういう状態なのか?これは僕達にとって早い遅いは重要な問題なのか?重要だとしたら、改善は可能なのか?改善できないとしたらどうしてなのか?改善できないとしたらどう対処すべきなのか?

みたいな風に考えないことには、解釈から事実に到達することが出来ない。
一般的に、社員さんの話を聞くとか、OB訪問をするとか、そういうときに話されることの8割は解釈の話をしていると思ったほうが良いと思う。その解釈に至った背景や、その事実が起きてしまう理由について構造的に把握した上で、対処法が「この会社に入社しない」なのであればそうすべきだし、対処可能もしくは問題としないと決めたのであればもう少し話を聞けばいいと思う。

もう一つ、
「感情と論理は切り分けて考えないとヤバイ」
もよく言っている。これは事実と解釈と似ているところではあるんだけど、例えば
A君「あいつマジで優秀だよな」って言ったときに B君「でもアイツ自分のやりたいことしかやらないじゃん」
みたいな会話のとき。単純化して話しているけど、ここで容易に「確かにそうかも・・・あいつ大したことないな・・・」って思ってはいけない。
こういう時はB君の感情的な要因がそう言わせている可能性がある。
これは例えば「僕商社に行こうと思ってるんです・・・」って人事に相談したら「商社はやめとけ」って言われる理屈と同じで、こういう感情を出発点とした論理は至る所に蔓延している。僕たちは人間の負の感情という地雷原をなんとかして避け続けるか、踏み散らかしても死なないマッスルを手にするか、そもそも通らないか、空を飛ぶかして目的地に到達しなければならない。

これらが僕の思う、「僕達が得られる情報なんてほとんどない」ことの理由だ。

企業は学生が欲しい。学生にきてもらう為に様々な工夫をする。ときには思ってもいないことや、事実とは相反することをいうこともある。僕たちはそういった無自覚の悪意を避けながら、僕達にとって良いとされる何かを掴みにいく必要がある。

 

もう一つ、僕達が犯している認知のエラーは
自分にとっていい会社=「自分が思っている通りに働けること」

ということなのではないかと思う。もし自分が思っている通りの環境で思っている通りの仕事で思っている通りのやりたくない仕事は誰かがやってくれるとして、果たしてそのような状況は本当に起こりうるのか?起こりうるとしたらどのようにして起こるのか?起こらないとしたら、何を許容し、何を曲げないでいる必要があるのか?
そういう風に考えていくと、悲しいかな、そもそも「自分の思っている通りにはならない」らしいことが徐々にわかる。

となると、作業としてすべきなのは
何が譲れなくて、何は許容できるのか

を明確にすること、となる。
その実現の為に必要な情報は何で、必要な行動はなにか。
ということを考えていく必要がある。

 

抽象的に話せる内容はどうやらここまでらしい。

僕はずっと自由になりたかった。でも僕は自由というものがどういうものか、よくわかっていない。自由という幻想を抱きながら苦悩しているだけかもしれない。
どうして自由になりたいんだろう?それはきっと何かしら窮屈な思いをしているからじゃないか。
「そんなこといったらみんなもしてるでしょ?窮屈な思い」

 

 

社会的通念が僕の思想を毒していることに気づいてから、僕は何を信じたら良いのかよくわからなくなった。
住みたい街ランキング見て、「吉祥寺に住んじゃえ♡」みたいなことは僕にはもう言えない。言えたほうが幸せかもしれないし、言えないことが不幸かもしれない。でも、そういうことなのだ。窮屈というのは、自分の意志が何かによって阻害していると感じるときのことを指すのではないか。そんなことを言ってしまったら、僕はいつも窮屈な思いをしている。自由に生きたい。でも自由という言葉の意味がわからない。もしかしたら僕も「自分の思い通りに生きる人生」に幻想を抱いているのかもしれない。それを自由と呼んでいるのだとしたら、それは暴力的だ。僕はどこかで自分のことを特別な人間だと思っていて、僕が特別な人間であることの理由として「思い通りに生きてやる」と思っているのかもしれない。そうだとしたら、これほど愚かな行為はないのだろう。

 

自由の代償は高いぜ」
あるゲームキャラクターは死に際にそのようなことを言った。

芸術こそが社会的自由を唯一許しているように感じることがある。10代の僕には気づくことができなかった。今になってわかる。ゲームの描くシナリオと社会の構造が酷似している。少しずつわかってくる。彼らは出来る限り婉曲的に、僕達に警鐘を鳴らしているように見え始める。答えは教えてくれない。ただそこには、僕達が避けては通れない困難と、その処方箋が示されている。

 

 

 

 

 

無知からの解放と人類の未来について

信じていた人に信じてもらえていないことっていうのは悲しいことのように思う。
でも、大抵の場合において、信じている人に猜疑心を向けることというのは、信じていない人には疑いを向けることがないという点において、人を信じるというのはどうやら同時に疑いを持つということでもあるのかもしれないなと思うようになった。

 

そんな時、僕たちはどうしたらいいのだろうか。
僕の答えは「文章を書く」ということだった。

だから僕は今から文章を書こうと思う。なんのとりとめもない文章を書いてみようと思う。そこにどんな意味が込められることになるのかはわからない。今僕が純粋に言葉にしたいものを、意識してか意識しないでかを抜きにしたときにできる、感情の取り出しに挑戦してみたい。今の僕はどうしようもなく伝えたいことがある気がするし、しかし一方でどんなことを誰かに伝えたとしても全くもって意味がないんじゃないかと思うこともある。真昼のジョナサンで「よし今から文章を書いてやろう」と意気込んでみたけど、頭の中で紡いでいる文章をいざ文章に書き下ろしてみようとすると、途端にその手が止まる。道中、頭の中で考えていた時には革命的に思えた知的生産物も、文章が描くストーリーラインに沿わない限り、なにも響くことがないように思う。こうした知的生産物はCoccoが言ったような「私のうんち」と大体同じで、ずっと溜めておくことができない。どこかのタイミングを見計らって、出来る限り清潔感があって、ちゃんとトイレットペーパーが補充されているところでひっそりと排泄しない限り、病を患うんだろう。

Coccoは本当に秀逸だなって思う。確かに、僕の生産物は誰かにとってはうんちと同じか同じくらいだと思う。実を言えば、僕は間違いなく「なにか良いことを書いてやろう!」とおもって文章を書いているはずなのだ。なんだけどそこで生み出されたのは誰かにとっては僕のうんちでしかない。悲しい。でも仕方ない。だから僕は、牛の糞の化石が歴史的な価値をもたらすことと同じように、誰かに理解してもらえることで、もしかしたら世紀の大発見になるかもしれないことをどこかで期待することにしている。あるいは文章を読んだ誰かの人生にパラダイムシフトを起こすだけの衝撃を与えてみたい。でもやっぱり、専門家でない限り、牛の糞はただの牛の糞だと思う。

今日はホッブズが描いた理想社会が世紀の大発見と同じだった。今の僕たちが「政治経済学部ってなにが学べるんだろうね」などといってしこたま考えた結果「なんかホッブズが言ってたことと同じになったね」っていうようになって初めて価値が出るのと同じように、今はよくわからないけど100年後200年後になったらすげー大切なことだったみたいなことを僕はどうにかして言えるようになりたい。「やっぱホッブズつえーわ」みたいなことを200年後の日本で言われたい。特に12歳とかこれから中学生になる途中で「進撃の巨人・・・」とかやっちゃう年頃の君に「あいつやっぱつえーわ」って言われるようになれたらいい。でもホッブズのようなことが言えるようになるにはそれなり努力が必要だと思う。ホッブズが当時いっていたことを言えるようになるにはそれなりの努力が必要になると思う。ただ、ホッブズ現代社会にもたらしたインパクトを真似しようとすると、それなりなんかの努力じゃ到底足りない。それどころか、どこに生まれるかからやり直さないと難しい。となると、僕の生まれた場というのは、果たして僕の意志によって選択されただろうかということが気になってくる。2年前の僕は「僕だったらある程度恵まれた国なんだけど、恵まれすぎていない環境に身をおくことで自分の精神を高めたいと思うだろうな」と思った。そして僕は実際に"そういう"環境に生まれた。

僕は単純に思想家になりたいというわけじゃない。やっぱりそうだよねって思うことではあったんだけど、歴史を俯瞰してみる努力を始めてから、どうやらこの人類というのは、あるひとつの共通したゴールに向けて、血の絶えない壮絶な試行錯誤を繰り返しているらしいことがわかってきた。そしてその共通のゴールがどのようなものなのかもなんとなく認識するようになってきた。これは先人のおかげだ。
では今の時代というのはどういう時代なんだろう?っていうのを考えていくと面白いことがわかってくる。僕の見えている矮小な世界観を吐露するつもりでいるのだけど、それはケツの穴を見せるのと同じくらい、僕の底が知れる恥ずかしさがあるので、出来る限り遠回りして書きたい。経験したことはないが(多分)、排泄物を見られることよりも、ケツの穴を見られることの方がよほど恥ずかしいものなのだろう。

 

最近は特に、エマニュエルトッドに関心を寄せるようになった。いくら先人が偉大とはいえ、現代における知性の最高峰は相対的に存在するし、ヘーゲルがいった弁証法を僕は支持しているので、思想の歴史的反駁の流れを想定すると、常に現代の最先端で言われていることが最も進歩的であるように感じられるはずだ。これは先のホッブズの話と矛盾しているように聞こえるかもしれないが、実際にはこちらの方が実現頻度が高い。そして僕はなんとなく、現存する知性の最高峰はトッド先生なんじゃないかなって思うようになった。これは勿論、僕の知る限りでしかないのだけど。
というわけでトッドの言ったことに触れたい。なんでトッドに触れることができたかというと、それはひとつには尊敬する先輩のうちの一人の方が書かれていた文章の中でトッドの言ったことが引用されていたから。
「なぜ進学という道を選んだかというと、エマニュエル・トッドの言葉を借りるならば『もしかしたら存在するかもしれない治療薬を探すために、まずは発熱の元である病気の診断書』を書こうとしてみたいからです。」

もう一つは、大学の講義で受けている比較社会学の単位を取るためにレポートを提出する必要があったからだった。社会統合の特徴をそれぞれの地域性の違いに言及した上で、さらに「講義内容に即して」論述しなければならなかった。講義の半分くらいはまともに聞いていない中でインターネットをフル活用しながらたどり着いた結論が、講義内容の結論とほぼ同じだったことと、その結論を語っていたのがトッド先生だったことが僕には衝撃的に思えた。どうにかしてこのことはレポートに書かなくてはならないと駆り立てられる気持ちになった。そうして2000字程度の文章を提出すれば単位が来る所、3倍以上の文章を書いて提出することにしたのだった。

トッドの言ってることは乱暴にいえば、その人の家庭環境がどういうものかによってその人の価値観が形成されるよねっていうのを人類学的な普遍性として法則を抜き出したみたいなもので、衝撃的だった。親が厳しかったらその子供は規律を重んじる思想を信仰しやすいといったように。

イデオロギーの領野は、どこでも家族システムを知的な形式に転写したものであり、基礎的な人間関係を統御している根本的な価値——例えば自由、平等、そしてその反対物——を社会的レベルに転換したものである。」

 

「文化現象の優位性を明らかにし、ある種の経済政策の幻想性、もしくは有害性を明示したとしても、それは決して地球の未来に悲観的な姿勢をとることを意味しない。反対である。リズムの相違はあるとはいえ、識字率の上昇は普遍的な現象なのである。現在の統計学的なカーブによれば、あまり遠くない将来、完全に識字化された世界、つまり無知から解放された世界をかいま見ることができるのである。もちろんそのような状況は、識字化と完全な経済的テイクオフとの間にかなりの時間が必要であるとして

も、もっとも緊急を要す人口問題と、経済問題の解決につながるものであろう。世界の歴史で特権的な瞬間となるこの未来の瞬間は、文字の発明から人類全体がそれを習得するまでの数千年に及ぶ長期の学習の終了を意味する。それは人類の長い幼少期の終わりを印すものである。」

彼が⾔うように、人間の文明の発展は経済学で語られることが非常に多いが、それは一面的な見方でしかないし、経済が発展するという現象は、あくまで文化的な発展の後に結果として起きるものなのだ、というのが、人口学や人類学を研究している彼だからこそ出る発想であって、ユニークさがある。そしてデータを元に実証することを試みている点で、少なくともウェーバーの、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」よりはより適切に説明しているように感じる。このユニークさと納得感がとてもおもしろくて好きなのだけど、特に僕個人がとても好きなフレーズは
世界の歴史で特権的な瞬間となるこの未来の瞬間は、文字の発明から人類全体がそれを習得するまでの数千年に及ぶ長期の学習の終了を意味する。それは人類の長い幼少期の終わりを印すものである
というフレーズで、告白してしまうと、これを伝えたいが為に僕は1000字近くも遠回りしたことになる。

トッドがいうには、人類にとって文化的発展の第一フェーズは識字にあるという。どういうわけか、家族システムと識字率の向上は大きな相関性を占める。
次に、女性の識字率が向上すると晩婚化が生じる。晩婚化が生じると出生率の低下が起こる。識字率の向上を出生率の低下の大きく2つが、近代化の要因とトッドは言う。(そう言われて僕はやっぱりグーテンベルクの活字技術が宗教革命や産業革命をもたらした可能性を支持したいのだけど話がそれるのでおわり)

識字率の向上が何故近代化の要因になるかといったら、それに伴って労働効率が上がるからなのだが、それは確かに、知性の獲得によって労働生産性が上がることは僕達も実体験として納得がいく。

そして、この識字率の向上こそが無知からの解放であり、人類の長い幼少期の終わりを印すのだ。

無知からの解放というのは、自由を享受する上で非常に重要であるように思う。
文字を読み書きする行為を通して、自分で考えることを養うことができる。自分で考えることができるようになれば、権力者が扇動する際には一度立ち止まって考えることができるようになるし、相手の立場に立って考えることが出来るようになれば、意見対立も民族対立も起きるようにはならない。友達が卒論の中で「民主政治は大衆が自ら学ぶことによってのみ、専制君主などの他のどの体制よりもベターなのである」といっていたが、もしも本当に、僕達大衆に知性が備わったとしたらデモクラシー革命は終焉を迎えるのかもしれないなと思う。
悲しいのは、現状最善解の民主主義(僕達もこの制度の中で暮らしているのだがあまり実感がないのは日本人の政治関心の薄さにあるのは置いておいて)がBrexitやトランプ大統領の当選によって欠陥扱いされ始めているということだったりするのだが、こうした知的エリートの誤謬が今までの歴史の中でより大きな間違いを犯すことになってしまったことを鑑みると、やっぱりここは一度「民主主義ってどういう制度で、どういう風に扱うとなにができちゃうんだっけ?」と考えるところから立ち戻ってみるとなにか得られることがあるんじゃないかと思ってみたりする。知性の獲得というのはそういうことだと思う。もしもみんなが同じように、一度立ち止まってみることが出来たら、きっと僕たちは国家や思想から自立することができるのではないか。そこでようやく僕たちは自由を得ることができるのではないかと信じるようになった。

面白いのは、僕にとってそこが人類のターミナルだと思っていた場所が、トッドに言わせると幼少期の終焉となっている点だった。つまり人類には次のフェーズが待ち受けているらしい。僕にはそこがどうしても描けない。何が起きるのか。SF小説やSF映画にあるような話なのか、あるいはオカルトの世界観であるのか、人類が肉体を捨て、地球の安全保障役になる日が来るとするならば、それはヘブライ人が神様と接触していたと同じ構図を人類がたどることにでもなるのだろうか。人類に青年期があるとするならば、僕はそこを具体化していきたい。

 

さて、ここで思考を止めてしまっては勿体無い。
次に考えなくてはならないのは、識字率の向上をどうやって世界的に実現するか、を考えることになる。のだが、これは残念ながら、もう2段階進んでいる。
第一段階はパーソナルコンピューターの普及
スティーブ・ジョブズビルゲイツが大まかにその両翼となっている。
第二段階が検索エンジンの普及
ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンが面白い研究をしてたら実現しちゃった的な感じ。

もしも情報非対称性を減らすことが世界にとって有益であると彼らがわかってやっていたとするならば、それを実現してしまった彼らは天才中の天才であるし、彼らは実際にそれを実現したから天才中の天才になったのかもしれない。(もうやだ)

現状によると、第三段階がこれから待ち受けているらしい、ということがわかる。様々な因子があるとはいえ、現在人類の課題となっている点はおそらく、これらのデバイスを適切に扱うことが出来ない点にある。

まず第一に、適切な情報を公開する能力が人間にはないという点。構造的に、インターネット上に公開されている文面に信憑性を求めることは難しい。これは公共事業ではなくビジネスだからだというのも要因として大きな影響がある。

第二に、情報を取捨選択する技術がどうやら乏しい。これは僕にも言えることだが、wikiに書いてあることを信じるなと言われても、知らない段階でその情報が正しいかどうかを判断することができない以上、まずはどう解釈されているかを知ることしかできない。

第三に、意見交換の場として扱うリテラシーが低い。
これは匿名性のたどる道だが、2chTwitterが炎上することのように、インターネットによって人間の負の感情が表面化する。この問題の解決には、人類に服を着る文化が出来たのと同じように文化発展をすることがないと難しいように思う。Twitterなどをみていると、日本社会においては特に、社会の構造的暴力に苦しみながら、また、自分の境遇を何かのせいにしたいと思いながら、日々我慢を強いられているっぽいことがわかってくる。みんな主役になりたかった。みんなアカレンジャーになりたかった。でも、みんながアカレンジャーになることはできない。キレンジャーになる必要がある人もいれば、アカレンジャーたちを支える博士になる必要がある人もいる。ときには敵役を演じなければならないかもしれない。夢が幻想のまま終わることは確かに健全ではないが、現実である。

 

また、スマホなどのようなデバイスが供給されたら途端に人類が賢者になる、といったことも起きなかった。これは使用者のリテラシーとともに、ニーズが多様である点が大きそうだ(そもそもiPhoneは電話だ)
この多様性は尊重されるべきだと思う。しかし一方で、能動的に、主体的に、人類は適切な情報にアクセスしなければならないと思う。という点において、情報の非対称性をなくすという目的がもしあったとしてもなかったとしても、効果がいまひとつであることは認めなければならないらしい。

 

僕が支持したい時代の系譜は、人類が次に到達する段階を加速させるところにある。
それは出来る限り確からしさが保障された情報にアクセスされ続けることができる状態になることであって、また、その情報が全人類的に知られている状態となることである。となると、究極の知性が個人のデバイス化もしくは一体化されることによって、人類が無知から解放されることを実現することになる。VR技術が現段階で実現可能性の高い次のデバイスのように感じられるが、あくまでこれらの技術は空間やコミュニケーションの拡張に留まると考えれば、次の覇権を担うところまでには至らないのではないかと思うし、しかし一方で五感の拡張という立場に立った時、人間の電脳化が終着点なため、記憶の移植は容易に行えるようになる点を踏まえると、VRが覇権を取るかもしれない。これは自分自身の無知によるものだが、現段階と電脳化の段階にはいくつかのステップが存在しているらしいことがわかる。今の僕の限界はここで、僕のケツの穴はここにある。

 

 

本当のところを言えば、僕が本当に関心を示していたのは資本主義VS社会主義の構図であり、特にこの資本主義という概念に対して怒りの鉄拳を加えてやりたかった。反駁の嵐を叩き込むことによって、どうにかしてこいつを倒してやろうと企てていたのだ。どうしてそう思ったかといったら僕の出自に関係する。そもそも大学受験をしようと思った理由というのは「この腐った社会で生きるためにはどうやら一旦社会のルールに従わないといけないらしい」ことがわかったからで、浪人中に「みんなが平等に暮らせる世界ないかな」って思っていたらマルクスが「やっほー呼んだ?」と言ってきたのであった。そんな平等主義の思想とマルクス主義が程よく共鳴して、資本主義批判をするようになった。だから僕が政治経済学部にいるのは偶然ではなく、僕の学問はマルクスによって開かれたと言ってよい。ただ、勉強していくうちにどうやら僕のこの出自に拘ることはちょっと器小さくないかということになったので、世界を救うため的なニュアンスに変更しようとしている(いい感じのフレーズがほしい)

そういえば、アジカンのゴッチが「出来れば世界を僕は塗り替えたい 戦争をなくすようなたいそれたことじゃない だけどちょっとそれもあるよな」って歌っていたように思うのだけど、多分同じことを僕も思っているらしい。青臭くて、だけどこの青臭さを大切にしたいと思う感覚は、僕の大学生活にルーツがあるように思う。余談だけど。

というわけで最近の僕は歪みをもたらすものだと思った自由至上主義の批判をひたすらしてやろうと思っていた。とくにハイエクを倒してやろうと思ったけどハイエクが強かった。というより、思想の根幹は割と似通っているものだったんだってことに気づいた。ハイエクは隷属の道から入ったのだけど、ファシズム批判が強すぎてもうこれはきついわってなってから嫌いだったのだけど、ハイエクの解説を読んでいくうちに「あれどうやらこのおっちゃんも知性の限界について言及しているし、致命的な思い上がり(まだ読んでない)っていってるし、意外とプラグマティカルだな・・」ってなったのが大きい。自由至上主義者はあかんやろっていう偏見がハイエクのおっちゃんを理解するのに妨げになっていたことは、自分のものの見方の一面性を疑い続ける契機になったし、コレは実社会でめっちゃんこ起きてることだなと思うようになった。

さてそうやってがむしゃらに考えてみていたのだけど、結論としては、まず人類がしなければならないのは社会的富の総生産量を増やし続けることとなったため、あえなくこの主義思想の前に撃沈し、僕の企ては失敗することとなった。

この結論に至った背景はまだハイエクを十分に理解していないよねっていう点からも、またいつかどこかで書くことにするとしても、まだこの結論を反駁する余地はあるはずだと思っている。決して諦めたわけではない。資本主義も社会主義も本質的には生産様式であることを踏まえると、富の集中が技術革新もたらしているがしかし一方で歪みを許容しないといけないこの資本主義を倒すためには資本主義に取って代わる新しい生産様式の制度設計する必要があるということになる。しかし、これはちょっと骨が折れる(と言うより僕の力ではまー無理だし、出来てしまったらノーベル賞もの)

理想を言えば、人類が公益の最大化を第一義的に目指すことが出来れば資本主義でなくても経済成長はできるよね。という話ではあるのだけど、資本主義の利己性を経済成長の原動力にしている現在に取って代わって利他性を原動力にする為にどうしたらいいかが全く思いつかない。それこそ知性の獲得以外に方法がないように思う。逆説的なのだけど、人類が公益の最大化を美徳とした社会が実現されていたら、それはもうすでにハッピーな社会なのだと思っているので、ハッピーな社会を実現する過程で実現されることは絶対にない。(こんな単純なロジックに気づかなかった半年前の僕)

 

そういうわけで僕の暫定解は
「社会的富の総生産量をテクノロジーによって増やしましょう」
ということになったのだが、これが僕達の生きる現代の使命のようなものなのだなと納得してみようかな、という気になったため、多分、思想家になるのとはまた違うのだろうということになった。勿論、思想家ではあるのだけど、目指すところがホッブズではなく、フォードとか、スティーブ・ジョブズとかその辺の人たちだったらしいということになった。ホッブズになることの難度を踏まえても、やっぱ結構難しい。それにやっぱりこうした反論を自分の中で生み出してしまう。これはトッドを教えてくれた先輩とのラインなのだけど、

「社会的富の生産量って、とりあえず個人が放置してても、社会の流れ的にこのまま増え続けそうだとは思わない?」

 

それに対して僕はこう答えた。


「その通りだと思うし、実際にそうだと思います。

僕個人がなにをどうこうしたとしても、今言っているレベルの例えばそれこそ資本主義から社会主義に制度変更しましょうっていうのは起こせないと思ってます。人生100回やりなおして2回成功するかしないかくらいな気がします笑
僕もその点において自覚的でありたいと思います。でもそれはややもすると、どこでなにをしていても同じだから無意味だよねってことになってしまうんですよね。諦念でもありますが。
でもどこでなにをしていたとしても、なにかの為に奔走し続けるのは意味のあることであってほしい。
例えば売れないバンドマンがジョンレノンになることは極たまにあるし、ヤクルトを応援していた村上春樹がいきなり小説を書こうと思い立ったら現代日本小説家の最高峰になっちゃいましたみたいなことも起こり得ます。
なにをどこでやっていても、なにかが起きる可能性があって、その可能性が存在する限り、自分はどこかでなにかをしていないといけないことはわかっているつもりです。」

 

 

客観的にこうだよねって言えるようになったものの、しかし自分の人生とその答えを結びつけることはとても難しい。だけど、僕が何故この暫定解を構築するのに必死だったかと言われれば、僕達がなぜそれをするのかをはっきりと、そしてありありと語る為に必要不可欠なものであると信じていたからだと思う。そうした絶対にブレない信念を自分の中に拠り所として用意しておかない限り、僕は自分のやっていることに疑いの目を向けてしまうことは明らかだと感じられた。だから、ぼくは就職する前にどうしてもその盤石な思想基盤を築いておく必要があった。それは就職するという不自由な環境の中で自由を享受するために必要な希望であった。方法はいくらでもある。ジョンレノンを目指してもいいし、村上春樹を目指してもいい。マルコムXも良いかもしれないし、麻原彰晃もワンチャンあるかもしれない。その中で暫定どれを取るのが誰かにとって、また、自分にとって最善で最短か、というのを、自分という人間に何ができるのか、という点から考えられるようになったことを示している。

ただ、就職するという結論は換えがたかった。それは自分の意志の弱さがそうさせていることはわかっている。でもそうした希望の中に生きることを決意してから、僕はやっと、ビジネスとはなにかという問いに進んでいくことが出来るようになった。
出来ればなるべく、ビジネスの話をするときは、この思想基盤の前提の上で話したい。そうでない限り、ビジネスのお金儲けにつきまとうイメージを払拭することが出来ない。でも、多分もう大丈夫なのだと思う。

 

 

先日ある先輩にこんなことを言われた。

「おれたちはお前の名前でお前のことを固有名詞としてイメージすることができる。お前というコンピテンシーは確かに、おれたちの共通言語として語ることができる。でもおれには俺という人間がお前みたいに形として存在していないから、何かを手に入れる必要があった。だから俺は今VRの業界にいるんだよね。」

 

僕にも実体なんてないと思う。でも最近思うのは、
中身のある人間というのは、いつだって自己を超越した利他心を原動力をしているような気がしているということで、出来れば僕はそうした生を全うしたい。
僕が今持っている思想基盤については、また次の機会にでも書けたら良いと思う。

 

 

風の歌を思いながら

文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ  村上春樹 (1979年)『風の歌を聴け

 

文章を書くことは確かに僕にとっても、自己療養の手段にはならず、そのささやかな試みにしか過ぎない。

 

1ヶ月くらい前、大学の友人とラインをしていた時に卒論のテーマについて話すことがあった。彼は胸ポケットからセブンスターを取り出し、マッチで火をつけて吸うのと同じ様に村上春樹について取り上げていた。
彼は大学一年の秋頃からノルウェイの森を読み出した。それで僕たちは事あるたびに主人公の僕を真似して「やれやれ」といってみたり、「僕は射精した」とか言ってみたり、そんな冗談を言い合っていた。確かに実際、射精は頻繁にしていたのだが、ノルウェイの森を小馬鹿にしているような僕がまさか村上春樹にハマるなんて思いもしなかった。僕はハルキストに少しばかり蔑んだ目を向けていた。なんでかっていったら、高校2年生の頃僕の担任であった国語の先生が薦めてくれた「風の歌を聴け」が、ひどく退屈な男女の雑談にしかみえなかったからなのだろう。

冗談を言い合っていた例の友人達と大学2年生のときに北海道へ旅行に行った。そこで僕たちは例えば小樽で羊をめぐる冒険を始めてもよかったし、いるかホテルを巡って札幌市内を歩き回ってもよかった。羊男と出会って上手に踊り続けてもよかったし、『片思い』を4回ほど映画館で観たあとに、「どうしたっていうのよ」って言ってみてもよかった。別に僕がプリウスを海岸にぶち込んで砂浜から出られなくなって全員で途方に暮れる経験なんてしなくても良かった。でも当時の僕にはそんなことしか出来なかった。

つまり僕は、村上春樹の「羊をめぐる冒険」や、「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいなかったら北海道旅行に込められた誰かのストーリーを感じることができないように、物事の情緒を感じる為には僕の知性や教養といったものが非常に重要になるということに対してあまりにも無知だった。僕の冒険と主人公の僕がした冒険をリンクさせ、「この喫茶店で彼は味のしないコーヒーを飲み、プラスチックのようなサンドイッチを食べていたのだな」という風に感じることが出来ないのだ。僕が認識できる世界は、家の庭でせっせとセミの死骸を運んでいる働き蟻が認識できる世界の大きさと同じくらいだ。

 

大学1年生の僕というのは知性のちの字も知らないような人種であった。◯◯とは何か、という哲学的問いに対してアウフヘーベンしようなんて、そんな徒労に終わるだけのような事に魅力を感じられていなかった。大学4年生ともなると、知性とは何かという哲学的テーマについても少しは考える力がついているもので、知性というものが少しずつわかってくる。知性というものがわかってくると、他者の関心事に関心を示すことというのが重要性を帯びてくる。僕はその実践とも言える形式で、「風の歌を聴け」をもう一度読み返すことにした。僕がひどく退屈に思えた150ページの2時間半を、彼の目からはどのように映るのか。どのように読めるのか。僕は知性というものがそういうものだと思うにつれて、彼の関心事に好奇心が湧いていった。

働き蟻と同じくらいの世界を少しばかり広げようとすると、いくつかの扉が僕達の目の前に現れる。そのうちのひとつをノックし、押し開けると、そこには沢山の小説が並んでいる書斎と、イスに腰掛ける彼の姿があった。彼は僕に「やあ、待っていたよ」と言った。「やれやれ」と僕は言った。

 

2016年を振り返るとするならば、「僕は馬鹿だ」になるのだろう。この言葉は多分、僕が今でも恩師として感謝している国語科の先生が行っている授業で扱った近代文学を象徴する夏目漱石のこころに触れた当時の心象がいまだに残っているから出たのだと思う。先生とKとお嬢さんの三人と出会うことを通して、僕ははじめて文学と邂逅することになった。そのきっかけは錆びること無く、今の僕にも意味を示している。

振り返りという営みを通して僕は常に「僕は馬鹿だった」と言っている。でもそれはそれでいいのだ。振り返りというのは、後になって馬鹿に思えるようなものなのだと僕は思う。

 

 

風の歌を聴けを読んで思ったこと」と書くと、そこに含まれる言葉には少し語弊があるように感じられる。はっきり言うと、そのハルキストの友人が貸してくれた「謎とき 村上春樹 (光文社新書)」の方にこそ、僕は衝撃を受けていた。
高校2年生の時に僕が感じていた「なんだこれ男女がセックスについて語っているだけの物語かよ」というストーリーラインがコペルニクス的転回を見事なまでに引き起こした。経験と年齢を重ねることによって浮き上がってくる隠されたストーリーラインがあることを、この解説本を通して漸く理解できるようになった。僕は自分の読み方、感じ方というのを、読後に襲ってくるすっきりしない爽快感の中で考えるようになった。アンバランスなバランスの中でもう一度適当なページを開いてそのページを読み込んでいた。

風の歌を聴けに衝撃を受けることになった要因のひとつに、言葉の限界について悟ったことがある。
「文学というのは言語の限界を知ってはじめて、その隠された意味を読むことができる」
それが僕には新鮮で、知的に感じられた。僕は少しだけ、小説を読んでインテリぶっている連中を馬鹿にしている部分があったのだけど、それはひどく愚かな行為だったことを認めてしまった。要するにお手上げだった。僕は今までの自分の愚かさに懺悔をして「僕も仲間にしてください」って思うようになった。
僕が今まで読んだことのある文学作品の中でも特に衝撃を受けた一文は川端康成の雪国だった。「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」
この一文だけで僕たちは川端康成の織り成すファンタジーの世界にぐっと引き込まれることになるのだけど、少なからず当時の自分は「ノーベル文学賞をとったくらいなんだから凄い一文なんだろう」くらいにしか思えていなかった。
風の歌を聴けもまた同じように完璧な一文で始まっていた。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
この一文に込められた哲学や教養が、今まさに僕が必要としている学問の全てを凝縮しているように思えた。

 

教養学部言語学を研究している内定先の同期は、言語学を「放っておけない友人」と評していた。
彼の言葉でいうと、「言語学を研究するというのは事象とか意味とか行為とか、そういう概念の定義をすっ飛ばしてしまうことのむず痒さ」というものがあるらしく、彼は最近それに耐えることが出来なくなっていたらしい。
「論文を書いてるうち、信じるものが死ぬことが二回ほどあったが、最終的には自分の立っている営みが丸ごと溶け落ちて行ってしまった」「人間が「知った」ことを「知らなく」なれるのはそれが認識に内在化された時だけだ。それが怖いことでもある。」 

言葉というのは完璧なまでに不完全だ。

そんな彼とラインをしていたときに、ウィトゲンシュタインに触れる機会があった。僕達の認識は言語が生み出す構造の限界を超えることが出来ないことについて、対話をしていた。目眩のする話なんだけど、結局のところ「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」
それでも尚、語り得ぬものを語ることの重要性を僕たちは感じていたし、後期ウィトゲンシュタインがそうしたように、僕たちは例え無駄に見えたとしても、語り得ないものを認識できるように問いを生み出し続けるし、歩みを進めていくんだよね、という風に思った。
そうして僕は自然と認識の限界を超える努力をするようになった。勿論、自分の認識できている世界の小ささに絶望することもあった。
しかし完璧な絶望が存在しないように、絶望の中に同時に存在する希望についても語りゆくことになる。


スプートニクの恋人を読んでから、人間の自死は現実の世界よりも夢の世界に存在する自分の側に生を感じたときに起こるのだと思うようになった。そこで僕は味のしないアイスティーを飲みながら「いまは生きる意味がわからないから生きているのだけど、死ぬ理由のひとつについてはちょっとわかるようになってきた」と思った。主人公の僕にとってそれは単なる絶望ではなく、複雑な希望だったのだと。
スプートニクを読む少し前、ちょうど友人に薦められたショーシャンクの空という映画も観ていたので、希望だけでなく自由とは何か、についても考えていた。希望というのは絶対に誰からも奪われない。故に希望であり、故に自由なのだと。

勿論、フランスの国旗が象徴するような自由や平等や博愛というものもあって良いのだけど、自由というのは革命によって勝ち取るものではなく、自己の内面に深く溶けていくことで解放されるものなのだと思った。なんだかユダヤ的だなってぼそっと言ってみた。誰かに聞かれたような気がした。
そういえば自己の内面に深く同化していくとそこに神の存在を感じることがあるのだと思ったことがある。神は外的に存在することはないのだとなんとなく悟ってみたんだけど、それについて考えていると怖くなったのでやめた。

 

 


文章を書くことは自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない理由について、少しだけ書いてみようと思う。
言語の限界や認識の限界に気づきだしてから、この世の中に存在する認識に正しさや間違いというものが存在していないことに気づいていったのが結構最近の出来事で、アカデミックの一端をかじってみると、どうやら全ての事象は疑いうるということを理解してくる。そうなってくると信じることがとても難しいことのように感じられてくる。つまり正解がない中で如何に自分の中で答えを出すか。それだけでしかない。

社会人というのは自分が出した答えが果たして良かったのかどうか、みんな不安を抱いている。だから自分の答えがより正解らしく感じられるように、自分が答えを出すまでに綿密に組み立てたロジックを最大限に活かし、自分の意見が間違っているかもしれないと感じられる答えに対して問題点、要はその人の出した答えを否定する論理を組み立てる。そうすると当然、対立が生じ、議論が巻き起こる。実に不毛な議論だが、多分それはエンターテイメントとして成立しているのだろう。例えば学生起業VS就職、とかね。僕たちはこういう大人の都合に振り回されながら、いや、振り回されることを自ら望みながら生きている。振り回されていることに気づくことはとても難しい。

僕は何かを100%信じることがもはや出来なくなってしまった。これは同期が「知るということは知らなかった状態に戻れなくなる点がある」と言っていたのと同じように、全ての事象は疑いうることを知ってしまった僕の宿命だった。
そうして僕は信じる力を失ってしまったように感じた。自分の力強さのひとつだと思っていたリーダーシップのようなものがサイダーの泡となって消えていく感じがした。
よくアカデミックにいる人間のことを、ビジネスサイドの人間は頭でっかちだと揶揄することがある。それはどうしてそうなってしまうかというと、アカデミックの人間というのは決めるということがどうしても出来ないからなのだ。知性の究極は答えを出さないことにあるような気がする。正解も間違いも存在していないこの世界で、正解や間違いを決めると、その瞬間に間違いになってしまうことを彼らは知っている。それは複雑な絶望のように思う。
しかし何かコトを成す為には、コトを成し遂げたかったら、僕たちは何かを信じ続けなければならない。信じているものを疑ってしまった瞬間、その歩みが止まってしまう。なんだけど、僕たちはもう、信じ続けることができない。


信じることと疑うことを同時に行うことの難しさは、巷で言われているロマンとソロバンを両立することよりも難しいと思った。なぜなら、ロマンとソロバンは突き進む方法について疑うことがあっても、突き進む方向性について疑うことをせずに済むから。
でも多分新時代は信じながら疑うことのできる人材を求めているのではないか。いまこの世界の人々はブレない哲学を希求している。例えばトランプが大統領になったように、エリートからは間違っているようにみえるものでも、間違っていても信じる値するものを望んでいる。今この社会のほとんどの人が、大量消費社会を越えた新しい拠り所を探している。勿論、信じることに長けた成功者は例外的に存在すると思うのだけど彼らの論理は弱者に伝わりにくい。そんな世の中でより良く生きる為に、僕はしなやかな鉄になりたかった。

固いものというのは壊れやすい。例えばグラスのように。それは人間であっても同じだ。凝り固まった何か、例えばそれが正しさやプライドといったものを固持してしまうと、何かの拍子にパキンと折れてしまうことがある。修復不可能なほどに。
柔らかいものというのは変幻自在だ。例えばスライムのように。それは人間であっても同じだ。例えば自分の意見を持たないことによって角が立たないようにすること。また誰かに従い、自分の意見を捨象すること。そうすると流されてしまう。つまり柔らかすぎると自分の形を見失いやすいのだ。

しなやかな鉄というのは、日本刀のように美しいのだと思う。僕はその響きを2016年の2月に聞いたのだけど、その在り方を体現出来ている人間にひどく嫉妬した。その言葉に敵意を向けた。美しすぎるモノに恐怖を感じることがあるように。
日本刀というのは鍛錬を欠かさない。玉鋼と呼ばれる日本刀の材料を、たたら吹きという製法で低温で高速還元を行い、良質な鋼を生み出していく。鍛錬は心金で7回、棟金で9回、刃金では15回、側金では12回程度の折り返しが行なわれる。何十回も熱し、叩き、冷却する。この作業を繰り返していくことで、折れず、曲がらず、良く斬れるという3要素を実現していく。

つまりこれからの僕というのは、2016年までに生み出してきた僕という玉鋼を柔らかく、しなやかに美しくしていく為に、何回も、何十回も信じ、疑うプロセスを繰り返していく必要がある。そうして出来上がった、決してブレないが、しかし柔軟な自分が成し遂げることとその可能性に希望を見出したい。大きなことを成し遂げるためには、どうやらそういう人間にならないといけないらしい。

答えを出すというのは疑いうるものを信じることによって達成される。しかしそれはあくまで暫定解にしか過ぎないことを心に留めておく必要がある。そうでないと傲慢であるし、朝令暮改を繰り返すと信用も失ってしまう。だがしかしこの営みは全ての人間に必要かと言われると、僕は必ずしもそうは思わない。それが出来る人に任せてしまっても良いのではないか?と思う。
ではそれが出来る人の宿命はなんなのか。僕という人間はもしかしたら、この問いに答えていくことを必要としているのかもしれない。


僕達の認識できるものは言語によって削ぎ落とされる。
大切なもの程、表現しようとすればするほどその手からこぼれ落ちる感覚がある。
そういったときは、言葉にしなくて良いのだと思う。そういった大切なものは往々にして表現できる限界を超える。
僕ができるささやかな自己療養の試みは、そうした大切なものがそこに存在していることを示すことまでなのだと思う。

 

 

2016年というのは自分の心に従って生きることができた。それが24年近く生きた僕にとって最も重要なコトのひとつのように感じられる。しかし今の自分に至るまでに様々な苦悩があったことも忘れないようにしようと思う。
知るということが増えていくことや、自分の脳の処理速度が上がるのに伴って、感情が置いてけぼりになる。
思考というのはマグロのように止まることを知らず(止まると思考は死ぬ)脳というキャパシティから大量に漏れ出していく。
それぞれをひとつひとつ処理していくことに僕の感情が追いつかなくなり、ひどく落ち込んでいたときもあったし、時には現実逃避をしていたこともあった。でもそれは必要だった。僕が生きる為に必要だった。今年はとにかく必死に生きた。振り返ってみると今までどうやって生きてきたのかわからなくなることがあって、そんなときにどうにかなりそうになることがあったと思う。
でも今は穴が空いて溢れ出した思考の一つ一つに、対話や教養によって得られた暫定解を詰め込むことによって、正常を保つことができるようになった。再現無く湧いてくる思考に、バケツのようななにかが耐えきれずひっくり返った先に自分の死が存在していることを知ったし、その意味では死と隣合わせになる感覚を体験したようにも思う。暫定解を詰め込んでおくことを「それでいいのだ」と思えたとき、僕の心に広がっていた濃霧が晴れていった。それがどういうことなのか、今の自分にはわからないのだけど。

例えばウィトゲンシュタインや、ニーチェ三島由紀夫や、小林秀雄川端康成など、様々な物書きに出会い、そして僕は変わっていくことができた。(いや、彼らによって僕は困惑したのかもしれないが)村上春樹にも同様に感謝をしながら、2017年に向けて、ただひたすら踊っていくことにする。ひとまず今は読みかけのダンス・ダンス・ダンスを読み切っておきたい。