世界の輪郭に溶ける

社会とうまく馴染める距離を探しています

無知からの解放と人類の未来について

信じていた人に信じてもらえていないことっていうのは悲しいことのように思う。
でも、大抵の場合において、信じている人に猜疑心を向けることというのは、信じていない人には疑いを向けることがないという点において、人を信じるというのはどうやら同時に疑いを持つということでもあるのかもしれないなと思うようになった。

 

そんな時、僕たちはどうしたらいいのだろうか。
僕の答えは「文章を書く」ということだった。

だから僕は今から文章を書こうと思う。なんのとりとめもない文章を書いてみようと思う。そこにどんな意味が込められることになるのかはわからない。今僕が純粋に言葉にしたいものを、意識してか意識しないでかを抜きにしたときにできる、感情の取り出しに挑戦してみたい。今の僕はどうしようもなく伝えたいことがある気がするし、しかし一方でどんなことを誰かに伝えたとしても全くもって意味がないんじゃないかと思うこともある。真昼のジョナサンで「よし今から文章を書いてやろう」と意気込んでみたけど、頭の中で紡いでいる文章をいざ文章に書き下ろしてみようとすると、途端にその手が止まる。道中、頭の中で考えていた時には革命的に思えた知的生産物も、文章が描くストーリーラインに沿わない限り、なにも響くことがないように思う。こうした知的生産物はCoccoが言ったような「私のうんち」と大体同じで、ずっと溜めておくことができない。どこかのタイミングを見計らって、出来る限り清潔感があって、ちゃんとトイレットペーパーが補充されているところでひっそりと排泄しない限り、病を患うんだろう。

Coccoは本当に秀逸だなって思う。確かに、僕の生産物は誰かにとってはうんちと同じか同じくらいだと思う。実を言えば、僕は間違いなく「なにか良いことを書いてやろう!」とおもって文章を書いているはずなのだ。なんだけどそこで生み出されたのは誰かにとっては僕のうんちでしかない。悲しい。でも仕方ない。だから僕は、牛の糞の化石が歴史的な価値をもたらすことと同じように、誰かに理解してもらえることで、もしかしたら世紀の大発見になるかもしれないことをどこかで期待することにしている。あるいは文章を読んだ誰かの人生にパラダイムシフトを起こすだけの衝撃を与えてみたい。でもやっぱり、専門家でない限り、牛の糞はただの牛の糞だと思う。

今日はホッブズが描いた理想社会が世紀の大発見と同じだった。今の僕たちが「政治経済学部ってなにが学べるんだろうね」などといってしこたま考えた結果「なんかホッブズが言ってたことと同じになったね」っていうようになって初めて価値が出るのと同じように、今はよくわからないけど100年後200年後になったらすげー大切なことだったみたいなことを僕はどうにかして言えるようになりたい。「やっぱホッブズつえーわ」みたいなことを200年後の日本で言われたい。特に12歳とかこれから中学生になる途中で「進撃の巨人・・・」とかやっちゃう年頃の君に「あいつやっぱつえーわ」って言われるようになれたらいい。でもホッブズのようなことが言えるようになるにはそれなり努力が必要だと思う。ホッブズが当時いっていたことを言えるようになるにはそれなりの努力が必要になると思う。ただ、ホッブズ現代社会にもたらしたインパクトを真似しようとすると、それなりなんかの努力じゃ到底足りない。それどころか、どこに生まれるかからやり直さないと難しい。となると、僕の生まれた場というのは、果たして僕の意志によって選択されただろうかということが気になってくる。2年前の僕は「僕だったらある程度恵まれた国なんだけど、恵まれすぎていない環境に身をおくことで自分の精神を高めたいと思うだろうな」と思った。そして僕は実際に"そういう"環境に生まれた。

僕は単純に思想家になりたいというわけじゃない。やっぱりそうだよねって思うことではあったんだけど、歴史を俯瞰してみる努力を始めてから、どうやらこの人類というのは、あるひとつの共通したゴールに向けて、血の絶えない壮絶な試行錯誤を繰り返しているらしいことがわかってきた。そしてその共通のゴールがどのようなものなのかもなんとなく認識するようになってきた。これは先人のおかげだ。
では今の時代というのはどういう時代なんだろう?っていうのを考えていくと面白いことがわかってくる。僕の見えている矮小な世界観を吐露するつもりでいるのだけど、それはケツの穴を見せるのと同じくらい、僕の底が知れる恥ずかしさがあるので、出来る限り遠回りして書きたい。経験したことはないが(多分)、排泄物を見られることよりも、ケツの穴を見られることの方がよほど恥ずかしいものなのだろう。

 

最近は特に、エマニュエルトッドに関心を寄せるようになった。いくら先人が偉大とはいえ、現代における知性の最高峰は相対的に存在するし、ヘーゲルがいった弁証法を僕は支持しているので、思想の歴史的反駁の流れを想定すると、常に現代の最先端で言われていることが最も進歩的であるように感じられるはずだ。これは先のホッブズの話と矛盾しているように聞こえるかもしれないが、実際にはこちらの方が実現頻度が高い。そして僕はなんとなく、現存する知性の最高峰はトッド先生なんじゃないかなって思うようになった。これは勿論、僕の知る限りでしかないのだけど。
というわけでトッドの言ったことに触れたい。なんでトッドに触れることができたかというと、それはひとつには尊敬する先輩のうちの一人の方が書かれていた文章の中でトッドの言ったことが引用されていたから。
「なぜ進学という道を選んだかというと、エマニュエル・トッドの言葉を借りるならば『もしかしたら存在するかもしれない治療薬を探すために、まずは発熱の元である病気の診断書』を書こうとしてみたいからです。」

もう一つは、大学の講義で受けている比較社会学の単位を取るためにレポートを提出する必要があったからだった。社会統合の特徴をそれぞれの地域性の違いに言及した上で、さらに「講義内容に即して」論述しなければならなかった。講義の半分くらいはまともに聞いていない中でインターネットをフル活用しながらたどり着いた結論が、講義内容の結論とほぼ同じだったことと、その結論を語っていたのがトッド先生だったことが僕には衝撃的に思えた。どうにかしてこのことはレポートに書かなくてはならないと駆り立てられる気持ちになった。そうして2000字程度の文章を提出すれば単位が来る所、3倍以上の文章を書いて提出することにしたのだった。

トッドの言ってることは乱暴にいえば、その人の家庭環境がどういうものかによってその人の価値観が形成されるよねっていうのを人類学的な普遍性として法則を抜き出したみたいなもので、衝撃的だった。親が厳しかったらその子供は規律を重んじる思想を信仰しやすいといったように。

イデオロギーの領野は、どこでも家族システムを知的な形式に転写したものであり、基礎的な人間関係を統御している根本的な価値——例えば自由、平等、そしてその反対物——を社会的レベルに転換したものである。」

 

「文化現象の優位性を明らかにし、ある種の経済政策の幻想性、もしくは有害性を明示したとしても、それは決して地球の未来に悲観的な姿勢をとることを意味しない。反対である。リズムの相違はあるとはいえ、識字率の上昇は普遍的な現象なのである。現在の統計学的なカーブによれば、あまり遠くない将来、完全に識字化された世界、つまり無知から解放された世界をかいま見ることができるのである。もちろんそのような状況は、識字化と完全な経済的テイクオフとの間にかなりの時間が必要であるとして

も、もっとも緊急を要す人口問題と、経済問題の解決につながるものであろう。世界の歴史で特権的な瞬間となるこの未来の瞬間は、文字の発明から人類全体がそれを習得するまでの数千年に及ぶ長期の学習の終了を意味する。それは人類の長い幼少期の終わりを印すものである。」

彼が⾔うように、人間の文明の発展は経済学で語られることが非常に多いが、それは一面的な見方でしかないし、経済が発展するという現象は、あくまで文化的な発展の後に結果として起きるものなのだ、というのが、人口学や人類学を研究している彼だからこそ出る発想であって、ユニークさがある。そしてデータを元に実証することを試みている点で、少なくともウェーバーの、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」よりはより適切に説明しているように感じる。このユニークさと納得感がとてもおもしろくて好きなのだけど、特に僕個人がとても好きなフレーズは
世界の歴史で特権的な瞬間となるこの未来の瞬間は、文字の発明から人類全体がそれを習得するまでの数千年に及ぶ長期の学習の終了を意味する。それは人類の長い幼少期の終わりを印すものである
というフレーズで、告白してしまうと、これを伝えたいが為に僕は1000字近くも遠回りしたことになる。

トッドがいうには、人類にとって文化的発展の第一フェーズは識字にあるという。どういうわけか、家族システムと識字率の向上は大きな相関性を占める。
次に、女性の識字率が向上すると晩婚化が生じる。晩婚化が生じると出生率の低下が起こる。識字率の向上を出生率の低下の大きく2つが、近代化の要因とトッドは言う。(そう言われて僕はやっぱりグーテンベルクの活字技術が宗教革命や産業革命をもたらした可能性を支持したいのだけど話がそれるのでおわり)

識字率の向上が何故近代化の要因になるかといったら、それに伴って労働効率が上がるからなのだが、それは確かに、知性の獲得によって労働生産性が上がることは僕達も実体験として納得がいく。

そして、この識字率の向上こそが無知からの解放であり、人類の長い幼少期の終わりを印すのだ。

無知からの解放というのは、自由を享受する上で非常に重要であるように思う。
文字を読み書きする行為を通して、自分で考えることを養うことができる。自分で考えることができるようになれば、権力者が扇動する際には一度立ち止まって考えることができるようになるし、相手の立場に立って考えることが出来るようになれば、意見対立も民族対立も起きるようにはならない。友達が卒論の中で「民主政治は大衆が自ら学ぶことによってのみ、専制君主などの他のどの体制よりもベターなのである」といっていたが、もしも本当に、僕達大衆に知性が備わったとしたらデモクラシー革命は終焉を迎えるのかもしれないなと思う。
悲しいのは、現状最善解の民主主義(僕達もこの制度の中で暮らしているのだがあまり実感がないのは日本人の政治関心の薄さにあるのは置いておいて)がBrexitやトランプ大統領の当選によって欠陥扱いされ始めているということだったりするのだが、こうした知的エリートの誤謬が今までの歴史の中でより大きな間違いを犯すことになってしまったことを鑑みると、やっぱりここは一度「民主主義ってどういう制度で、どういう風に扱うとなにができちゃうんだっけ?」と考えるところから立ち戻ってみるとなにか得られることがあるんじゃないかと思ってみたりする。知性の獲得というのはそういうことだと思う。もしもみんなが同じように、一度立ち止まってみることが出来たら、きっと僕たちは国家や思想から自立することができるのではないか。そこでようやく僕たちは自由を得ることができるのではないかと信じるようになった。

面白いのは、僕にとってそこが人類のターミナルだと思っていた場所が、トッドに言わせると幼少期の終焉となっている点だった。つまり人類には次のフェーズが待ち受けているらしい。僕にはそこがどうしても描けない。何が起きるのか。SF小説やSF映画にあるような話なのか、あるいはオカルトの世界観であるのか、人類が肉体を捨て、地球の安全保障役になる日が来るとするならば、それはヘブライ人が神様と接触していたと同じ構図を人類がたどることにでもなるのだろうか。人類に青年期があるとするならば、僕はそこを具体化していきたい。

 

さて、ここで思考を止めてしまっては勿体無い。
次に考えなくてはならないのは、識字率の向上をどうやって世界的に実現するか、を考えることになる。のだが、これは残念ながら、もう2段階進んでいる。
第一段階はパーソナルコンピューターの普及
スティーブ・ジョブズビルゲイツが大まかにその両翼となっている。
第二段階が検索エンジンの普及
ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンが面白い研究をしてたら実現しちゃった的な感じ。

もしも情報非対称性を減らすことが世界にとって有益であると彼らがわかってやっていたとするならば、それを実現してしまった彼らは天才中の天才であるし、彼らは実際にそれを実現したから天才中の天才になったのかもしれない。(もうやだ)

現状によると、第三段階がこれから待ち受けているらしい、ということがわかる。様々な因子があるとはいえ、現在人類の課題となっている点はおそらく、これらのデバイスを適切に扱うことが出来ない点にある。

まず第一に、適切な情報を公開する能力が人間にはないという点。構造的に、インターネット上に公開されている文面に信憑性を求めることは難しい。これは公共事業ではなくビジネスだからだというのも要因として大きな影響がある。

第二に、情報を取捨選択する技術がどうやら乏しい。これは僕にも言えることだが、wikiに書いてあることを信じるなと言われても、知らない段階でその情報が正しいかどうかを判断することができない以上、まずはどう解釈されているかを知ることしかできない。

第三に、意見交換の場として扱うリテラシーが低い。
これは匿名性のたどる道だが、2chTwitterが炎上することのように、インターネットによって人間の負の感情が表面化する。この問題の解決には、人類に服を着る文化が出来たのと同じように文化発展をすることがないと難しいように思う。Twitterなどをみていると、日本社会においては特に、社会の構造的暴力に苦しみながら、また、自分の境遇を何かのせいにしたいと思いながら、日々我慢を強いられているっぽいことがわかってくる。みんな主役になりたかった。みんなアカレンジャーになりたかった。でも、みんながアカレンジャーになることはできない。キレンジャーになる必要がある人もいれば、アカレンジャーたちを支える博士になる必要がある人もいる。ときには敵役を演じなければならないかもしれない。夢が幻想のまま終わることは確かに健全ではないが、現実である。

 

また、スマホなどのようなデバイスが供給されたら途端に人類が賢者になる、といったことも起きなかった。これは使用者のリテラシーとともに、ニーズが多様である点が大きそうだ(そもそもiPhoneは電話だ)
この多様性は尊重されるべきだと思う。しかし一方で、能動的に、主体的に、人類は適切な情報にアクセスしなければならないと思う。という点において、情報の非対称性をなくすという目的がもしあったとしてもなかったとしても、効果がいまひとつであることは認めなければならないらしい。

 

僕が支持したい時代の系譜は、人類が次に到達する段階を加速させるところにある。
それは出来る限り確からしさが保障された情報にアクセスされ続けることができる状態になることであって、また、その情報が全人類的に知られている状態となることである。となると、究極の知性が個人のデバイス化もしくは一体化されることによって、人類が無知から解放されることを実現することになる。VR技術が現段階で実現可能性の高い次のデバイスのように感じられるが、あくまでこれらの技術は空間やコミュニケーションの拡張に留まると考えれば、次の覇権を担うところまでには至らないのではないかと思うし、しかし一方で五感の拡張という立場に立った時、人間の電脳化が終着点なため、記憶の移植は容易に行えるようになる点を踏まえると、VRが覇権を取るかもしれない。これは自分自身の無知によるものだが、現段階と電脳化の段階にはいくつかのステップが存在しているらしいことがわかる。今の僕の限界はここで、僕のケツの穴はここにある。

 

 

本当のところを言えば、僕が本当に関心を示していたのは資本主義VS社会主義の構図であり、特にこの資本主義という概念に対して怒りの鉄拳を加えてやりたかった。反駁の嵐を叩き込むことによって、どうにかしてこいつを倒してやろうと企てていたのだ。どうしてそう思ったかといったら僕の出自に関係する。そもそも大学受験をしようと思った理由というのは「この腐った社会で生きるためにはどうやら一旦社会のルールに従わないといけないらしい」ことがわかったからで、浪人中に「みんなが平等に暮らせる世界ないかな」って思っていたらマルクスが「やっほー呼んだ?」と言ってきたのであった。そんな平等主義の思想とマルクス主義が程よく共鳴して、資本主義批判をするようになった。だから僕が政治経済学部にいるのは偶然ではなく、僕の学問はマルクスによって開かれたと言ってよい。ただ、勉強していくうちにどうやら僕のこの出自に拘ることはちょっと器小さくないかということになったので、世界を救うため的なニュアンスに変更しようとしている(いい感じのフレーズがほしい)

そういえば、アジカンのゴッチが「出来れば世界を僕は塗り替えたい 戦争をなくすようなたいそれたことじゃない だけどちょっとそれもあるよな」って歌っていたように思うのだけど、多分同じことを僕も思っているらしい。青臭くて、だけどこの青臭さを大切にしたいと思う感覚は、僕の大学生活にルーツがあるように思う。余談だけど。

というわけで最近の僕は歪みをもたらすものだと思った自由至上主義の批判をひたすらしてやろうと思っていた。とくにハイエクを倒してやろうと思ったけどハイエクが強かった。というより、思想の根幹は割と似通っているものだったんだってことに気づいた。ハイエクは隷属の道から入ったのだけど、ファシズム批判が強すぎてもうこれはきついわってなってから嫌いだったのだけど、ハイエクの解説を読んでいくうちに「あれどうやらこのおっちゃんも知性の限界について言及しているし、致命的な思い上がり(まだ読んでない)っていってるし、意外とプラグマティカルだな・・」ってなったのが大きい。自由至上主義者はあかんやろっていう偏見がハイエクのおっちゃんを理解するのに妨げになっていたことは、自分のものの見方の一面性を疑い続ける契機になったし、コレは実社会でめっちゃんこ起きてることだなと思うようになった。

さてそうやってがむしゃらに考えてみていたのだけど、結論としては、まず人類がしなければならないのは社会的富の総生産量を増やし続けることとなったため、あえなくこの主義思想の前に撃沈し、僕の企ては失敗することとなった。

この結論に至った背景はまだハイエクを十分に理解していないよねっていう点からも、またいつかどこかで書くことにするとしても、まだこの結論を反駁する余地はあるはずだと思っている。決して諦めたわけではない。資本主義も社会主義も本質的には生産様式であることを踏まえると、富の集中が技術革新もたらしているがしかし一方で歪みを許容しないといけないこの資本主義を倒すためには資本主義に取って代わる新しい生産様式の制度設計する必要があるということになる。しかし、これはちょっと骨が折れる(と言うより僕の力ではまー無理だし、出来てしまったらノーベル賞もの)

理想を言えば、人類が公益の最大化を第一義的に目指すことが出来れば資本主義でなくても経済成長はできるよね。という話ではあるのだけど、資本主義の利己性を経済成長の原動力にしている現在に取って代わって利他性を原動力にする為にどうしたらいいかが全く思いつかない。それこそ知性の獲得以外に方法がないように思う。逆説的なのだけど、人類が公益の最大化を美徳とした社会が実現されていたら、それはもうすでにハッピーな社会なのだと思っているので、ハッピーな社会を実現する過程で実現されることは絶対にない。(こんな単純なロジックに気づかなかった半年前の僕)

 

そういうわけで僕の暫定解は
「社会的富の総生産量をテクノロジーによって増やしましょう」
ということになったのだが、これが僕達の生きる現代の使命のようなものなのだなと納得してみようかな、という気になったため、多分、思想家になるのとはまた違うのだろうということになった。勿論、思想家ではあるのだけど、目指すところがホッブズではなく、フォードとか、スティーブ・ジョブズとかその辺の人たちだったらしいということになった。ホッブズになることの難度を踏まえても、やっぱ結構難しい。それにやっぱりこうした反論を自分の中で生み出してしまう。これはトッドを教えてくれた先輩とのラインなのだけど、

「社会的富の生産量って、とりあえず個人が放置してても、社会の流れ的にこのまま増え続けそうだとは思わない?」

 

それに対して僕はこう答えた。


「その通りだと思うし、実際にそうだと思います。

僕個人がなにをどうこうしたとしても、今言っているレベルの例えばそれこそ資本主義から社会主義に制度変更しましょうっていうのは起こせないと思ってます。人生100回やりなおして2回成功するかしないかくらいな気がします笑
僕もその点において自覚的でありたいと思います。でもそれはややもすると、どこでなにをしていても同じだから無意味だよねってことになってしまうんですよね。諦念でもありますが。
でもどこでなにをしていたとしても、なにかの為に奔走し続けるのは意味のあることであってほしい。
例えば売れないバンドマンがジョンレノンになることは極たまにあるし、ヤクルトを応援していた村上春樹がいきなり小説を書こうと思い立ったら現代日本小説家の最高峰になっちゃいましたみたいなことも起こり得ます。
なにをどこでやっていても、なにかが起きる可能性があって、その可能性が存在する限り、自分はどこかでなにかをしていないといけないことはわかっているつもりです。」

 

 

客観的にこうだよねって言えるようになったものの、しかし自分の人生とその答えを結びつけることはとても難しい。だけど、僕が何故この暫定解を構築するのに必死だったかと言われれば、僕達がなぜそれをするのかをはっきりと、そしてありありと語る為に必要不可欠なものであると信じていたからだと思う。そうした絶対にブレない信念を自分の中に拠り所として用意しておかない限り、僕は自分のやっていることに疑いの目を向けてしまうことは明らかだと感じられた。だから、ぼくは就職する前にどうしてもその盤石な思想基盤を築いておく必要があった。それは就職するという不自由な環境の中で自由を享受するために必要な希望であった。方法はいくらでもある。ジョンレノンを目指してもいいし、村上春樹を目指してもいい。マルコムXも良いかもしれないし、麻原彰晃もワンチャンあるかもしれない。その中で暫定どれを取るのが誰かにとって、また、自分にとって最善で最短か、というのを、自分という人間に何ができるのか、という点から考えられるようになったことを示している。

ただ、就職するという結論は換えがたかった。それは自分の意志の弱さがそうさせていることはわかっている。でもそうした希望の中に生きることを決意してから、僕はやっと、ビジネスとはなにかという問いに進んでいくことが出来るようになった。
出来ればなるべく、ビジネスの話をするときは、この思想基盤の前提の上で話したい。そうでない限り、ビジネスのお金儲けにつきまとうイメージを払拭することが出来ない。でも、多分もう大丈夫なのだと思う。

 

 

先日ある先輩にこんなことを言われた。

「おれたちはお前の名前でお前のことを固有名詞としてイメージすることができる。お前というコンピテンシーは確かに、おれたちの共通言語として語ることができる。でもおれには俺という人間がお前みたいに形として存在していないから、何かを手に入れる必要があった。だから俺は今VRの業界にいるんだよね。」

 

僕にも実体なんてないと思う。でも最近思うのは、
中身のある人間というのは、いつだって自己を超越した利他心を原動力をしているような気がしているということで、出来れば僕はそうした生を全うしたい。
僕が今持っている思想基盤については、また次の機会にでも書けたら良いと思う。

 

 

風の歌を思いながら

文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ  村上春樹 (1979年)『風の歌を聴け

 

文章を書くことは確かに僕にとっても、自己療養の手段にはならず、そのささやかな試みにしか過ぎない。

 

1ヶ月くらい前、大学の友人とラインをしていた時に卒論のテーマについて話すことがあった。彼は胸ポケットからセブンスターを取り出し、マッチで火をつけて吸うのと同じ様に村上春樹について取り上げていた。
彼は大学一年の秋頃からノルウェイの森を読み出した。それで僕たちは事あるたびに主人公の僕を真似して「やれやれ」といってみたり、「僕は射精した」とか言ってみたり、そんな冗談を言い合っていた。確かに実際、射精は頻繁にしていたのだが、ノルウェイの森を小馬鹿にしているような僕がまさか村上春樹にハマるなんて思いもしなかった。僕はハルキストに少しばかり蔑んだ目を向けていた。なんでかっていったら、高校2年生の頃僕の担任であった国語の先生が薦めてくれた「風の歌を聴け」が、ひどく退屈な男女の雑談にしかみえなかったからなのだろう。

冗談を言い合っていた例の友人達と大学2年生のときに北海道へ旅行に行った。そこで僕たちは例えば小樽で羊をめぐる冒険を始めてもよかったし、いるかホテルを巡って札幌市内を歩き回ってもよかった。羊男と出会って上手に踊り続けてもよかったし、『片思い』を4回ほど映画館で観たあとに、「どうしたっていうのよ」って言ってみてもよかった。別に僕がプリウスを海岸にぶち込んで砂浜から出られなくなって全員で途方に暮れる経験なんてしなくても良かった。でも当時の僕にはそんなことしか出来なかった。

つまり僕は、村上春樹の「羊をめぐる冒険」や、「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいなかったら北海道旅行に込められた誰かのストーリーを感じることができないように、物事の情緒を感じる為には僕の知性や教養といったものが非常に重要になるということに対してあまりにも無知だった。僕の冒険と主人公の僕がした冒険をリンクさせ、「この喫茶店で彼は味のしないコーヒーを飲み、プラスチックのようなサンドイッチを食べていたのだな」という風に感じることが出来ないのだ。僕が認識できる世界は、家の庭でせっせとセミの死骸を運んでいる働き蟻が認識できる世界の大きさと同じくらいだ。

 

大学1年生の僕というのは知性のちの字も知らないような人種であった。◯◯とは何か、という哲学的問いに対してアウフヘーベンしようなんて、そんな徒労に終わるだけのような事に魅力を感じられていなかった。大学4年生ともなると、知性とは何かという哲学的テーマについても少しは考える力がついているもので、知性というものが少しずつわかってくる。知性というものがわかってくると、他者の関心事に関心を示すことというのが重要性を帯びてくる。僕はその実践とも言える形式で、「風の歌を聴け」をもう一度読み返すことにした。僕がひどく退屈に思えた150ページの2時間半を、彼の目からはどのように映るのか。どのように読めるのか。僕は知性というものがそういうものだと思うにつれて、彼の関心事に好奇心が湧いていった。

働き蟻と同じくらいの世界を少しばかり広げようとすると、いくつかの扉が僕達の目の前に現れる。そのうちのひとつをノックし、押し開けると、そこには沢山の小説が並んでいる書斎と、イスに腰掛ける彼の姿があった。彼は僕に「やあ、待っていたよ」と言った。「やれやれ」と僕は言った。

 

2016年を振り返るとするならば、「僕は馬鹿だ」になるのだろう。この言葉は多分、僕が今でも恩師として感謝している国語科の先生が行っている授業で扱った近代文学を象徴する夏目漱石のこころに触れた当時の心象がいまだに残っているから出たのだと思う。先生とKとお嬢さんの三人と出会うことを通して、僕ははじめて文学と邂逅することになった。そのきっかけは錆びること無く、今の僕にも意味を示している。

振り返りという営みを通して僕は常に「僕は馬鹿だった」と言っている。でもそれはそれでいいのだ。振り返りというのは、後になって馬鹿に思えるようなものなのだと僕は思う。

 

 

風の歌を聴けを読んで思ったこと」と書くと、そこに含まれる言葉には少し語弊があるように感じられる。はっきり言うと、そのハルキストの友人が貸してくれた「謎とき 村上春樹 (光文社新書)」の方にこそ、僕は衝撃を受けていた。
高校2年生の時に僕が感じていた「なんだこれ男女がセックスについて語っているだけの物語かよ」というストーリーラインがコペルニクス的転回を見事なまでに引き起こした。経験と年齢を重ねることによって浮き上がってくる隠されたストーリーラインがあることを、この解説本を通して漸く理解できるようになった。僕は自分の読み方、感じ方というのを、読後に襲ってくるすっきりしない爽快感の中で考えるようになった。アンバランスなバランスの中でもう一度適当なページを開いてそのページを読み込んでいた。

風の歌を聴けに衝撃を受けることになった要因のひとつに、言葉の限界について悟ったことがある。
「文学というのは言語の限界を知ってはじめて、その隠された意味を読むことができる」
それが僕には新鮮で、知的に感じられた。僕は少しだけ、小説を読んでインテリぶっている連中を馬鹿にしている部分があったのだけど、それはひどく愚かな行為だったことを認めてしまった。要するにお手上げだった。僕は今までの自分の愚かさに懺悔をして「僕も仲間にしてください」って思うようになった。
僕が今まで読んだことのある文学作品の中でも特に衝撃を受けた一文は川端康成の雪国だった。「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」
この一文だけで僕たちは川端康成の織り成すファンタジーの世界にぐっと引き込まれることになるのだけど、少なからず当時の自分は「ノーベル文学賞をとったくらいなんだから凄い一文なんだろう」くらいにしか思えていなかった。
風の歌を聴けもまた同じように完璧な一文で始まっていた。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
この一文に込められた哲学や教養が、今まさに僕が必要としている学問の全てを凝縮しているように思えた。

 

教養学部言語学を研究している内定先の同期は、言語学を「放っておけない友人」と評していた。
彼の言葉でいうと、「言語学を研究するというのは事象とか意味とか行為とか、そういう概念の定義をすっ飛ばしてしまうことのむず痒さ」というものがあるらしく、彼は最近それに耐えることが出来なくなっていたらしい。
「論文を書いてるうち、信じるものが死ぬことが二回ほどあったが、最終的には自分の立っている営みが丸ごと溶け落ちて行ってしまった」「人間が「知った」ことを「知らなく」なれるのはそれが認識に内在化された時だけだ。それが怖いことでもある。」 

言葉というのは完璧なまでに不完全だ。

そんな彼とラインをしていたときに、ウィトゲンシュタインに触れる機会があった。僕達の認識は言語が生み出す構造の限界を超えることが出来ないことについて、対話をしていた。目眩のする話なんだけど、結局のところ「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」
それでも尚、語り得ぬものを語ることの重要性を僕たちは感じていたし、後期ウィトゲンシュタインがそうしたように、僕たちは例え無駄に見えたとしても、語り得ないものを認識できるように問いを生み出し続けるし、歩みを進めていくんだよね、という風に思った。
そうして僕は自然と認識の限界を超える努力をするようになった。勿論、自分の認識できている世界の小ささに絶望することもあった。
しかし完璧な絶望が存在しないように、絶望の中に同時に存在する希望についても語りゆくことになる。


スプートニクの恋人を読んでから、人間の自死は現実の世界よりも夢の世界に存在する自分の側に生を感じたときに起こるのだと思うようになった。そこで僕は味のしないアイスティーを飲みながら「いまは生きる意味がわからないから生きているのだけど、死ぬ理由のひとつについてはちょっとわかるようになってきた」と思った。主人公の僕にとってそれは単なる絶望ではなく、複雑な希望だったのだと。
スプートニクを読む少し前、ちょうど友人に薦められたショーシャンクの空という映画も観ていたので、希望だけでなく自由とは何か、についても考えていた。希望というのは絶対に誰からも奪われない。故に希望であり、故に自由なのだと。

勿論、フランスの国旗が象徴するような自由や平等や博愛というものもあって良いのだけど、自由というのは革命によって勝ち取るものではなく、自己の内面に深く溶けていくことで解放されるものなのだと思った。なんだかユダヤ的だなってぼそっと言ってみた。誰かに聞かれたような気がした。
そういえば自己の内面に深く同化していくとそこに神の存在を感じることがあるのだと思ったことがある。神は外的に存在することはないのだとなんとなく悟ってみたんだけど、それについて考えていると怖くなったのでやめた。

 

 


文章を書くことは自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない理由について、少しだけ書いてみようと思う。
言語の限界や認識の限界に気づきだしてから、この世の中に存在する認識に正しさや間違いというものが存在していないことに気づいていったのが結構最近の出来事で、アカデミックの一端をかじってみると、どうやら全ての事象は疑いうるということを理解してくる。そうなってくると信じることがとても難しいことのように感じられてくる。つまり正解がない中で如何に自分の中で答えを出すか。それだけでしかない。

社会人というのは自分が出した答えが果たして良かったのかどうか、みんな不安を抱いている。だから自分の答えがより正解らしく感じられるように、自分が答えを出すまでに綿密に組み立てたロジックを最大限に活かし、自分の意見が間違っているかもしれないと感じられる答えに対して問題点、要はその人の出した答えを否定する論理を組み立てる。そうすると当然、対立が生じ、議論が巻き起こる。実に不毛な議論だが、多分それはエンターテイメントとして成立しているのだろう。例えば学生起業VS就職、とかね。僕たちはこういう大人の都合に振り回されながら、いや、振り回されることを自ら望みながら生きている。振り回されていることに気づくことはとても難しい。

僕は何かを100%信じることがもはや出来なくなってしまった。これは同期が「知るということは知らなかった状態に戻れなくなる点がある」と言っていたのと同じように、全ての事象は疑いうることを知ってしまった僕の宿命だった。
そうして僕は信じる力を失ってしまったように感じた。自分の力強さのひとつだと思っていたリーダーシップのようなものがサイダーの泡となって消えていく感じがした。
よくアカデミックにいる人間のことを、ビジネスサイドの人間は頭でっかちだと揶揄することがある。それはどうしてそうなってしまうかというと、アカデミックの人間というのは決めるということがどうしても出来ないからなのだ。知性の究極は答えを出さないことにあるような気がする。正解も間違いも存在していないこの世界で、正解や間違いを決めると、その瞬間に間違いになってしまうことを彼らは知っている。それは複雑な絶望のように思う。
しかし何かコトを成す為には、コトを成し遂げたかったら、僕たちは何かを信じ続けなければならない。信じているものを疑ってしまった瞬間、その歩みが止まってしまう。なんだけど、僕たちはもう、信じ続けることができない。


信じることと疑うことを同時に行うことの難しさは、巷で言われているロマンとソロバンを両立することよりも難しいと思った。なぜなら、ロマンとソロバンは突き進む方法について疑うことがあっても、突き進む方向性について疑うことをせずに済むから。
でも多分新時代は信じながら疑うことのできる人材を求めているのではないか。いまこの世界の人々はブレない哲学を希求している。例えばトランプが大統領になったように、エリートからは間違っているようにみえるものでも、間違っていても信じる値するものを望んでいる。今この社会のほとんどの人が、大量消費社会を越えた新しい拠り所を探している。勿論、信じることに長けた成功者は例外的に存在すると思うのだけど彼らの論理は弱者に伝わりにくい。そんな世の中でより良く生きる為に、僕はしなやかな鉄になりたかった。

固いものというのは壊れやすい。例えばグラスのように。それは人間であっても同じだ。凝り固まった何か、例えばそれが正しさやプライドといったものを固持してしまうと、何かの拍子にパキンと折れてしまうことがある。修復不可能なほどに。
柔らかいものというのは変幻自在だ。例えばスライムのように。それは人間であっても同じだ。例えば自分の意見を持たないことによって角が立たないようにすること。また誰かに従い、自分の意見を捨象すること。そうすると流されてしまう。つまり柔らかすぎると自分の形を見失いやすいのだ。

しなやかな鉄というのは、日本刀のように美しいのだと思う。僕はその響きを2016年の2月に聞いたのだけど、その在り方を体現出来ている人間にひどく嫉妬した。その言葉に敵意を向けた。美しすぎるモノに恐怖を感じることがあるように。
日本刀というのは鍛錬を欠かさない。玉鋼と呼ばれる日本刀の材料を、たたら吹きという製法で低温で高速還元を行い、良質な鋼を生み出していく。鍛錬は心金で7回、棟金で9回、刃金では15回、側金では12回程度の折り返しが行なわれる。何十回も熱し、叩き、冷却する。この作業を繰り返していくことで、折れず、曲がらず、良く斬れるという3要素を実現していく。

つまりこれからの僕というのは、2016年までに生み出してきた僕という玉鋼を柔らかく、しなやかに美しくしていく為に、何回も、何十回も信じ、疑うプロセスを繰り返していく必要がある。そうして出来上がった、決してブレないが、しかし柔軟な自分が成し遂げることとその可能性に希望を見出したい。大きなことを成し遂げるためには、どうやらそういう人間にならないといけないらしい。

答えを出すというのは疑いうるものを信じることによって達成される。しかしそれはあくまで暫定解にしか過ぎないことを心に留めておく必要がある。そうでないと傲慢であるし、朝令暮改を繰り返すと信用も失ってしまう。だがしかしこの営みは全ての人間に必要かと言われると、僕は必ずしもそうは思わない。それが出来る人に任せてしまっても良いのではないか?と思う。
ではそれが出来る人の宿命はなんなのか。僕という人間はもしかしたら、この問いに答えていくことを必要としているのかもしれない。


僕達の認識できるものは言語によって削ぎ落とされる。
大切なもの程、表現しようとすればするほどその手からこぼれ落ちる感覚がある。
そういったときは、言葉にしなくて良いのだと思う。そういった大切なものは往々にして表現できる限界を超える。
僕ができるささやかな自己療養の試みは、そうした大切なものがそこに存在していることを示すことまでなのだと思う。

 

 

2016年というのは自分の心に従って生きることができた。それが24年近く生きた僕にとって最も重要なコトのひとつのように感じられる。しかし今の自分に至るまでに様々な苦悩があったことも忘れないようにしようと思う。
知るということが増えていくことや、自分の脳の処理速度が上がるのに伴って、感情が置いてけぼりになる。
思考というのはマグロのように止まることを知らず(止まると思考は死ぬ)脳というキャパシティから大量に漏れ出していく。
それぞれをひとつひとつ処理していくことに僕の感情が追いつかなくなり、ひどく落ち込んでいたときもあったし、時には現実逃避をしていたこともあった。でもそれは必要だった。僕が生きる為に必要だった。今年はとにかく必死に生きた。振り返ってみると今までどうやって生きてきたのかわからなくなることがあって、そんなときにどうにかなりそうになることがあったと思う。
でも今は穴が空いて溢れ出した思考の一つ一つに、対話や教養によって得られた暫定解を詰め込むことによって、正常を保つことができるようになった。再現無く湧いてくる思考に、バケツのようななにかが耐えきれずひっくり返った先に自分の死が存在していることを知ったし、その意味では死と隣合わせになる感覚を体験したようにも思う。暫定解を詰め込んでおくことを「それでいいのだ」と思えたとき、僕の心に広がっていた濃霧が晴れていった。それがどういうことなのか、今の自分にはわからないのだけど。

例えばウィトゲンシュタインや、ニーチェ三島由紀夫や、小林秀雄川端康成など、様々な物書きに出会い、そして僕は変わっていくことができた。(いや、彼らによって僕は困惑したのかもしれないが)村上春樹にも同様に感謝をしながら、2017年に向けて、ただひたすら踊っていくことにする。ひとまず今は読みかけのダンス・ダンス・ダンスを読み切っておきたい。