世界の輪郭に溶ける

私という概念をいかに物語り、私を捨象していくか

共産資本主義の合流

ようやく卒論がほぼほぼ完成した感じになってきたので、1年かけて自分が何を明らかにしたくて、何を言いたかったのかについて書いていきたいと思います。
以前のブログでも書いてたんですけど、もうちょいわかること増えました。

abhiniveza.hatenablog.com

 

この時の僕は「うわー資本主義に敗北したわーこれもう正しいわあ無理だわぁ」
ってなってました。暫定解として「社会的富の総生産量をテクノロジーによって増やしましょうがまあ正しいよね」っていう風に思ってたんですけど、「じゃあどうしてそういう風に言えるの?」っていうところが実はぽっかりと抜けてて、自分的にもそれで納得してもいいんだけどなんか腑に落ちねーなってなってたので、その後もずっと考えてたんですよね。
それと、この時の自分にとってじゃあ何のためにそれを突き止めたいかっていったら、「これから社会人になるにあたって"俺なんで働いてるんだっけ?"って思ったらダメな気がする」っていう危機感がずっとあって、それをなんとかして「僕このコンパス持ってるからブレません」になりたかった。とりあえずまあ技術革新に貢献してればそこそこハッピーになるなって思ってたんですけど、考えたらきりがないんですよね。「じゃあなんで日本はマイナス成長になったの?」とか「アベノミクスはうまくいったと言えるの?」とか、「成長ってなんなの?」とか「ぎじゅつかくしんってなんなの?」とかfぁfぁkjdf;jヵ

 


んで最近でた結論として、「あ、こうだわ、このまま行くとこうなるわ」っていうのがわかってきました。それが共産資本主義の合流です。

つまり、僕が最も言いたいのは「資本主義が成功すると同時にその社会は共産主義みたいになってるよね」
っていうことなんです。
これだけいって「あーね!それな!」ってなる人と「ばーかこの観点抜けてんだろ」ってなる人には多分僕の記事あんま価値がないと思うんですけど
経済成長ってなに? くらいの人には価値があるんじゃないかなと思ったので書いてみたいと思います。

あと、「みんなわかってないよね〜」ということをわかることってすげええええ大事だと思います。日本政治史を専門?にしてる大学の先生に「経世会の総理大臣ってみんな悲惨な感じになってますけどそれって陰謀的なアレが本当にあったんですか?」って聞いてみたんですけど「わっかんないよね。本当なのか笑」って言ってたんでまあみんなわかってないし、経済成長がなんでしなくなったのかとかも意外と専門家も「まあ多分こうだと思うけど本当かどうかはわっかんねーな?」ってなってるんで、やっぱみんなわかってないっていうのが持論です。





前置きはこんな感じで、以下要点を纏めていきます。
全部僕の意見なのでそうじゃないというところもあると思うんですがこんな感じです。

・資本主義の問題点は格差拡大や貧困というよりもむしろ、公正な競争と倫理観のある経済活動が出来ていないこと

・資本主義が現状最善な理由は経済成長の効率が最も良いから

・現行体制は実は混合経済体制

・経済成長の停滞理由は人口動態もあるけど規制(政府の介入とか)によって首を締めていることが理由と考える人達がいる

・自由市場化したらいけない市場はあるだろう

・資本主義に公正な競争は原理的にほぼ無理

・資本主義の成功には欲求の充足が必要

・共産資本主義化する未来は存在する


資本主義の問題点は格差拡大や貧困というよりもむしろ、公正な競争と倫理観のある経済活動が出来ていないこと

 

資本主義ってなに?っていわれると「う〜んなんだろう」って僕もなるんですけど、一番理解しなきゃいけないことは「資本主義は生産様式のひとつである」ということなんじゃないかなと思います。生産様式というのは、モノを効率的に生み出す仕組み、と考えたらわかりやすいと思います。その前提の上で、「労働者の剰余利益を資本として自己増殖していく仕組み」というのがいいんじゃないかなと思います。
剰余利益っていうのは僕達が雇われて働いてるとき(労働者)に実際に生み出した価値の何割かを雇い主(資本家)に奪われているアレです。
僕が1個100円のりんごを一日で100個つくってもし全部売れたら10000円になります。
この10000円は丸々僕の手元にはいるわけではないです。いいとこ1000円くらいの時代もあれば5000円の時代もあります。ビジネスモデルにもよるんであれなんですが、つまり、自分が働かずにお金と人を動かすことによって利益を得て、その利益をまた動かすことによってお金を儲けていくやり方でいこうねっていうのを資本主義って呼んでます。
もっといえば「あなたにはあなたが生まれたときから有している権利があるので、もしあなたが何かを欲しいと思ったらそれをあなたの財産として認めますよ」っていうのを相互承認している社会でもあるということです。この思想にもとづいてアダム・スミスパイセンが言ってるような市場原理を導入してます。市場原理っていうのは「人々が好き勝手商売したら受容と供給を満たすように勝手に人々が動くように出来てるからほっといていいんだよね。」っていうやつです。神の見えざる手が人々を動かしているっていうアレです。こういう考え方を自由主義って言います。
資本主義は自由主義と仲が良いので、よく曖昧になりがちです。資本主義は生産様式であるのに対し、自由主義はルール・約束に近いです。

なんでじゃあ今どこの国でも大抵資本主義を導入しているかっていうと、これは諸説あるし言ってしまえば資本主義陣営が社会主義陣営に勝ったって話なんですけど笑
なんで勝ったの?ってなったら経済成長の効率が社会主義国よりも良かったからだと僕は思ってます。なにがあったかは正直まだ僕にはわからないけど、一般的には社会主義国の自滅と言われています。
社会主義っていうのはどういう生産様式かというと(社会主義は経済体制であり生産様式であるし、自由主義のようなルール・約束でもあると僕は考えてます)大きく2つのポイントがあります。それが
私有財産の否定計画経済体制です

私有財産の否定というのは、いまから大体100年前くらいにマルクスエンゲルスっていうおっさんたちが「資本主義を導入したせいで格差が生じるわ。労働者は奴隷のように扱われるわ、こんなんハッピーな社会じゃない!労働者はもっと抵抗しないと!」「人間がなんでハッピーにならないかっていったらブルジョワジーが富を独占しているからや!ハッピーな社会っていうのはみんなが平等で富の偏りのない状態なんだ!」
みたいなことを言ってたらみんなが「いやーほんそれな!」「ほんとマルクスパイセンの言うとおりだわおれらでこれ実現しね?」っていって制度化したんですね。
つまり、「お前のものはみんなのものだぜ」っていうのを中央政府が管理して、均等に分配したら、みんな平等でしょ?
っていう考え方です。

計画経済っていうのは「モノを生み出すのに市場原理に頼るよりおれらが管理して動かしたほうが安定するよね」ということで、「食料はこれくらいつくってね、衣服はこれくらい、家はこんなくらい」みたいなことを政府で決めて働いてもらうんですね。
それで「Aさんの給料はいくらいくらで、Bさんの給料もいくらいくらです」っていって感じで働いてもらうんですね。

まあ、みなさんのお察しの通りうまくいきません。だいたいみんなサボります。
でも「社会主義って頑張った分だけ報われないからダメだよね〜」ってだけだと2点くらいしかもらえないと思います。社会主義がどうしてだめだったのかの本当の理由は「独裁」だと思います。


政治権力っていうのは長い間維持することってすごい難しいんです。歴史上では大まかに民主政・貴族政・君主政の3つの政体があったんですけど、どれも大体うまくいきません。なんでうまくいかないのかっていったら、権力の集中と腐敗が起こるからです。

あんだけ「平等の社会を実現すんぜ!」って言ってた政治リーダーたちは実は、こっそり莫大なお金を儲けていました。
これはほんとダメですね。ソ連でいうとオリガルヒ(政治学科ならダールのオリガーキーを知ってるはずですそういうアレです)っていう新興財閥について調べるといっぱいでてきて楽しいです。
んで、このオリガルヒたちがまあ、自分達の思い通りにしようといろいろ画策してるんですね。規制を強めたり、自分達に都合のいいルールを敷いたりしちゃいます。
となるとまあ、みんなおこりますよね。ばかやろー!ですよ。
そこで出てきたのがプーチンなんですけど、ちょっと話が長くなるのでプーチンについては調べてみてください。参考でいうと、

blog.livedoor.jp

これが最高でした。
簡単に結論を言えば、社会主義っていうのはうまく経済成長できなくてみんな貧しくなって爆死したんですね。でも一方で人類初有人宇宙飛行に成功したのはソ連ですし、世界で一番深い穴を掘ったのもソ連で、実は技術力は凄い高かったんです。まあそれもなんでそんなことできるかっていったら政府の権限がとてつもなく大きかったからという話なんですが。

というわけでこんな感じのロジックで資本主義が現状最善な理由は経済成長の効率が最も良いから
ということになってるのが現状です。
ただ、ぶっちゃけると社会主義は経済成長するに相応しい生産様式ではなかったよねっていうのが僕の持論なんです。

つまり簡単に言えば、
資本主義=豊かになるけど徳のない社会
社会主義=貧しいけど徳のある社会
のどっちを選択するか、の話だったはずなんです。だから社会主義に近い一部の国では国民の幸福度が高かったりします。あと江戸時代とかもかなり社会主義に近い感じあります。なんだけど、社会主義は貧しくて徳のない社会になっちゃった

社会主義がそうなっちゃうんだったらまあ、人間って本当にダメだよねぇ、だったら、まずは豊かになろうじゃん?」
っていうのが資本主義だと認識してオッケーだと思います。

豊かになることが第一目標だから、経済成長が必要になるということです。

じゃあ豊かになるってどういうことやねん?経済成長ってなにをもって経済成長っていうねん?

って話になるんですけど、これはもう一言でいえば「生産性の向上」です。
言い換えると「技術革新」となります。

生産性の向上というのは、僕が今年りんごを一日100個つくったとしたら、来年は120個作れるようになる。ということです。虫の除去の仕方とか、水のやり方とか、「なんかこうしたらもっとうまく言ったかも〜」を改善することによって僕達の技能が上がるわけですね。すると同じコストで20個余分に作れるじゃないですか。20個余分に作れたら1個あたりの値段も下げられるし、より多くの人にりんごを食べてもらえます。そうするとより多くの人がハッピーになります。
これが大雑把にいえばGDPが上がるということで、去年より豊かになったね!ということになるんです。
「経済成長のためには外貨を稼がないといけないよねぇ」っていうのもよくある話だと思うんですけど、それだと△なんですよね。なんでかっていうと、輸出入を繰り返しているだけだと生産物増えないんですよね。だから重商主義は批判されたんです。
簡単に言えば
Aさんがりんごを100個もってて、Bさんがパイナッポーを100個もってたとして
Aさんはりんごを100個渡すけど、Bさんは80個しか渡さない。
そうするとAさんは20損をして、Bさんは20得をするわけです。
これはたしかに「やったー日本は豊かになった!」だし、そういえばそうなんですけど、社会全体の富の総量が変わらないから、日本が得した分だけ損をする国がでてきちゃうわけです。だから貿易っていうのはなるべく輸出入のバランスが取れるようにしないと「お前の国だけ儲かってるのだめだぞ!」っていわれて車とか壊されちゃうわけです。
この仕組みを回すのがとにかく上手だったのが資本主義の経済体制というわけです。なんでかっていったら「頑張った分だけハッピーになるから」ということになります。

なんだけど、結局人間には能力の差っていうのがあって、お互いに競争しあってより良いものを作ろうぜっていうルールだと圧倒的に勝つやつと圧倒的に負けるやつが出てきます。これが経済格差ですね。
圧倒的に勝てるやつはとにかく頭がいいから、どうしたら出し抜けるかがわかるわけです。そうなると「いやそれはおまえやったらダメだろ!」みたいなことでも「いやでもこれやるとめっちゃ儲かるんやで」っていう事態が起きてくる。

リーマンショックは何が起きたのかっていうと社会的信用のない人でも家を買えるようなローンを作ってめちゃくちゃ売ったんです。
社会的信用がないっていうのは、「こいつにお金貸しても返ってくるかわかんねーな?」って状態のことです。つまり「この人の所得だと多分ローン組んでもお金支払えないよねえ」って人たちなんですけど、この人達にとにかく売った。証券も売った。

その結果としてリーマン・ブラザーズの株価が暴落して経営破綻になっちゃったんですね。詳しい流れは僕もよくわかってないんですけど、簡単にいえば

金融機関「家のローンはらってください〜」
1さん~10000さん「いやちょっと今月はきついっす」
金融機関「ちょwお金戻ってこないから会社経営できねえw」
投資家「あれ、この会社の経営ちょっとやばくね?今のうち株売却しといたろ!」
って流れだと思います。

よくよく考えてみたら「いやそんなことすんなよ・・・」みたいなことなんですけど、未然に防ぐのはまあ無理です。明日もしかしたら競合のD社がきわどい手を使ってくるかもしれない・・・ってなったら囚人のジレンマみたいになります。どっかがキュレーションサイトを大量生産したらうちもそうしないと負けちゃうわけです。負けちゃったら株主に「おまえんとこもうお金だしてやらねえ」ということになっちゃいます。というわけで資本主義に公正な競争は原理的にほぼ無理ということになります。

これはかなり言い換えると
「資本主義に公正な競争と適切な倫理観が備わっていたら、最強」
ということになります。ワールドカップみたいにしたらいいと僕は思うんですけどね。


富の再分配の話も、資本主義にどう倫理観を備えるか、という問題と言って良いでしょう。公正な競争をしても圧倒的に勝てるやつがいっぱいいるってなると、問題は変わらないですよね。そこで「ほんと申し訳ないんだけどみんなの為にちょっとお金わけてくれないですか?」っていう方式を取るのが現状最善なんじゃない?って言われてるんですけど、これもタックスヘイブンとかをみれば「多分うまくいってない」ってことになると思います。ピケティは「お金が国境またぐときに税金かけようぜ」って言っててビル・ゲイツは「いやそれだとちゃんと使えるやつのお金まで(ちゃんと使えないと思ってる)政府の財源になるやん、それだったら累進消費税にした方がよくない?」って言ってて、どうしたらいいのかは多分まだ結論でてないと思います。資本主義の格差拡大に関してはどうやって再分配するのが良さそうか、っていうのを知の巨匠がしっこたま考えてる最中ということになります。

ちなみにベーシック・インカム(BI)が世の中を賑わせていると思うんですけど、あれはリバタリアン(自由至上主義)の思想なんじゃないか?って僕は思ってます。なんでかっていうと、BIの出発点っていうのは「いろいろ税制生まれて複雑になっちゃって、何がどうなってんのかわっかんね〜よ」「これ管理楽にしたらもっと効率よくお金回せるんじゃね?」って感じです。
これはつまり「政府の機能を縮小すること」を目指しているのではないか?
とも言えるわけですね。自由至上主義の立場というのは「市場原理が不活性化しているのは政府の余計な介入と規制があるからだ!」「全部市場に任せたらうまくいくから余計なことすんなよ!」っていう古典派経済学の流れを脈々と継いでいるというか「神の見えざる手」をめちゃくちゃ信望してますね笑

僕はどの立場かというと、

①目指す所は共産主義
②現実的には経済成長重視
なので自由放任に対しては一部賛成で一部反対でどちらかというと結構反対です。
なので折衷案として、「政府が守るべき市場は政府が守りましょう」「基本方針は規制緩和」「じゃあどこなら自由放任がよくてどこは政府が守ったほうがいいんだっけ?」っていうのを考えていくのが大事だよねっていう風に思ってます。自由市場化したらいけない市場はあるだろうということです。
自由至上主義って格差広がっちゃうんですよ。強者の論理なんですよね。経済成長の停滞理由は人口動態もあるけど規制(政府の介入とか)によって首を締めていることが理由と考える人達がいるというのはリバタリアンのことです。僕は日本人なのでコミュニタリアン寄りだと思っています。

 


現行体制は実は混合経済体制

資本主義VS社会主義っていって、資本主義勝ったから日本は資本主義〜
ってなると思ったら実はそうではないのが面白いところで、
ほとんどの資本主義体制の国家は混合経済体制です。
混合経済体制っていうのは、「市場原理だけにまかせたらなんかうまくいかねーよ。独占する企業でてくるし、倒産した企業立ち直らせないとまじやべえし、負の外部性は起こるし、公共財はどうすんだし、宇宙人くるかもだし、みんながみんなホモ・エコノミクスじゃね〜し」ってなったので「じゃあ政府がなんとかしないとだよねえ」ということで金融緩和をしたりお札刷ったりしてちょっとインフレさせたりするのをやってみるっていうわけですね。市場の失敗に対処する必要があったわけです。
経済政策っていうのは計画経済の孫みたいなもんで、社会主義のいいところと資本主義のいいところをハイブリッドした体制を敷いているのが今
って感じです。
ぶっちゃけいいとこどりって今のところ最強です。共和制とかもハイブリッドなんですけど最強です。間接民主主義もハイブリッドなので最強です。ハイブリッドは最強ということを覚えておくと良いと思います。ただ最強っていっても現存体制の中で最強なだけでダメなところもいっぱいあります

 

 

共同体主義が日本らしくていいよ

僕は日本人なのでコミュニタリアン寄りなんですけど、コミュニタリアンっていうのは共同体主義と訳されてます。
自由っていうのは言ってしまえば個人主義なんです。
「俺に構わないでくれよ、おれも構わないから」だから「お互い自由を尊重してるんだからお前が今お金なくてもそれはお前のせいだろう」
になっちゃうんですね。これ、日本人には合ってないんです。日本人っていうのは和を持って尊しとなしですから、みんなに合わせて生きたいわけです。空気を読みたい。
今の日本人の承認欲がお化けになっててTwitterでは日常的に炎上してるしインスタにはアレだしアレなのは自由=個人主義思想が戦後注入されて人々がバラバラになっちゃったからだと思ってるんですよね。
昔の日本はわりと地域社会で、連帯してたんです。助け合って生きてた。
家にはおばあちゃんおじいちゃんいたし、おにいちゃんの家族も一緒に暮らしてるみたいな、サザエさんみたいな社会だったわけです。
ところが日本は工業化して核家族化が進んで、地域社会も分断されて、人々の所属場所がどんどんなくなっていった。
終身雇用とか年功序列っていった制度も、日本人らしいなって思っていて、所属・連帯の先が企業になっていったんですね。
でも今の日本って、終身雇用制度が崩壊して、中途採用とかも増えたし、非正規雇用が増えて、結果として「自分がどこに所属しているのかわからない」人が大量にでてきちゃった。

そうなるとみんなひねくれちゃう。自分の存在を認めてほしいですから、ちょっと攻撃的になっちゃう。
これが今の日本の現状なんじゃないかなーと僕は思っています。


だからこそ今の日本には地域性というか、連帯が必要だなって思っているし、
会社以外の居場所が必要なんだろうなっていう風に思っているし、
それこそシェアハウスが大ブームしているのも、新しいコミュニティの成立を人々が求めている証拠なんだろうなって思っているわけです。

ただ、共同体主義も自由が好きな人からするとちょっと窮屈です。
共同体の中で生活するためには、みんながちょっとずつ我慢することを強いてしまうからです。
ちょっと我慢することを強いるのが共同体主義だとしたら、
日本人が出る杭を打ちたがるのは「俺がこんなに我慢してるんだからお前もちょっとは我慢しろ」
って潜在的に思っているのかもしれないですよね。


あと共同体主義の致命的なポイントは、自由主義ほど市場原理が働かない
っていうところだと思います。だから今専門家は「お金以外のインセンティブってなんかないんだっけ?」っていうのを科学的に探っている段階になっている。というわけです。ポジティブ心理学ですね。the science of happinessっていう学問があるらしい。

この辺は不勉強だからこれから勉強していくとして・・・・



共産資本主義化する未来は存在する

僕が一番いいたかったのここなんです。

共産主義思想は元々人類の理想を示したものだと僕は思っています。人々は社会主義国という苦い思い出を痛感しているから、共産主義思想は権力の独裁と労働者の意欲を低下させる最悪の政体のひとつなんじゃないかと思われている気がするんですけど、

強引な共産主義国を実現した結果として、社会主義国家が誕生し、全体主義思想を強制させる結果となってしまった。

のがボトルネックだと思います。
じゃあどうしたらうまくいったのか。
僕は必要な富(=技術革新によって生み出された生産物)の生産量が充足したらうまくいくと思っています。

例えば

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 人間が政治を行った場合、権力の集中と腐敗が起きてしまうことが不可避であるならば、人間が正しく政治を行うことは不可能である。この立場に立つとするならば、AIというリヴァイアサンを生み出し、すべての人民が社会契約を行うことで理想的な社会に到達することが最も善いということになるだろう。そのような社会が仮に成立した場合、政府の存在は最小化されるか、もしくは最大化される。

 限界費用がゼロの社会ではもはや財産の所有に価値が置かれなくなる。富の価値は希少性によって決定されるものであるとするならば、富の総生産量が無限に限りなく近づいた社会では富の私的所有にもはや意味がなくなる。

 共有型経済や複合社会といったように、公益を尊重した徳のある社会が実現された場合、それはある種共通した思想を持つということになる。自己利益の追求という利己主義が現代の共通思想であるように、公益の追求が生産様式となる社会では、倫理観や道徳性がなによりも重視される。

  • 高度な分業化

 人々はテクノロジーの進歩により、専門が分岐し、より複雑な分業を敷くことになる。人々は自身の潜在能力を理解しており、自己実現の為に自らの才能を最大化する術を知っている。その為お互いの能力や職能に対し尊厳が生まれている。また、雇用の概念は溶け、人々は人に雇われる必要がない。

  • 知性の獲得

教育の効率が最大化された社会では人々は人々の持ちうる知識に差がなくなる。理性的な判断が可能となっており、理想的な直接民主主義が実現可能である。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

簡単に言えば、
「限界費用がゼロに限り無く近づいたら所有の概念溶けるよね〜」
「そんな社会が実現したら私有財産とか価値なくなるよね〜」
「そしたら人々って共産主義思想を持つようになるんじゃないの〜?」

って感じです。
限界費用ゼロ社会からかなりインスピレーションうけてます。

www.amazon.co.jp

 

皮肉にも、資本主義は成功と共に新しい時代の幕開けを迎えることになります。それが忌み嫌っていた共産主義の時代なんじゃないか。
ということなんです。

もし共産主義と資本主義が手を取り合うような時代が僕の生きているうちに訪れるのであれば、それほど楽しいことはねーなっていうのが最近の夢です。

「じゃあこれを実現するために、政治機構が腐敗する前に技術革新してなんとか資本主義を成功させるのが現代人の役割だよね〜」

が僕の目指す所となりました。

肌感なんですけど、次の政治的な支配者に徳がなかったら多分もう人類の敗北なんじゃないかなと。そう考えると僕たちは人類史上最大の激動時代にこれから突入していく可能性があるわけです。そう考えると結構楽しいです。

僕たちにはテクノロジーを人類の反映と幸福に向けて適切に使えるだけの徳が必要とされているのではないか。
そうなってくると、もっともっと哲学をして人類はどうあるべきなのか〜っていうのを
多分みんなで考えないといけないんだろうなって言うふうに思います。

直近でやんなきゃいけないことは人々の欲求を充足させること。
マズローの5段階でいうところの自己実現者をテクノロジーを活用してなんとか増やす
ってところになると思うので、
やっぱマルクス好きだし労働者の立場からなんかできることないかな〜っていうのをぼけぼけ考えていきたいと思います。


卒論をギリギリで書き上げて「共産資本主義っていう新しい概念あるじゃん!」
って気づいたんですよね。「これまじでフィジビリ研究したらおもしろいことになるんじゃね?」「てかむしろそのフィジビリを卒論で書くべきだったのでは?」「いやでも学士の人間にそこまでできるキャパないよねw」ってなって終了したのですが、なんでもっとはやく到達しなかったのかっていって落ち込んでました。
とはいえ考えなきゃいけないこといっぱいあると思うので、社会人になってからもほそぼそと研究していけたらいいな〜って思います。


PS.本当はホッブズロックルソーあたりにも触れて書きたかったのですが、体力がなくて断念_(:3」∠)_

 

最後に参考文献載せて終わります。

 

トーマス・セドラチェク(2015)『善と悪の経済学―ギルガメシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠』(村井章子訳)東洋経済

アマルティア・セン(1989)『合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究』(大庭健川本隆史訳)勁草書房

カウシック・バズー(2016)『見えざる手をこえて:新しい経済学のために (叢書“制度を考える")』(栗林寛幸訳)NTT出版

橋本 努(2008)『経済倫理=あなたは、なに主義?』講談社

樋口 均(2016)『国家論―政策論的・財政学的アプローチ―』創成社

飯田 泰之(2014)『図解 ゼロからわかる経済政策 「今の日本」「これからの日本」が読める本 (ノンフィクション単行本)』角川書店

重田 園江(2010)『連帯の哲学 1 フランス社会連帯主義』勁草書房

ジェレミー・リフキン(2015)『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』(柴田裕之訳) NHK出版

ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)『サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之訳)河出書房新社

エーリッヒ・フロム(1965)『自由からの逃走 新板』(日高 六郎訳) 東京創元社

 

 

佐藤航陽のブログ(最終閲覧日 2017/07/06)

http://katsuaki.co/?author=1

共同体主義の批判検討(最終閲覧日 2017/07/06)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/47/3/47_3_320/_pdf

混合経済体制論(最終閲覧日 2017/07/06)

http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170706194201.pdf?id=ART0008304808

カール・ポランニーの「複合社会」と国家の役割―福祉社会における公共性―(最終閲覧日 2017/07/06)

http://jshet.net/docs/conference/77th/kasai.pdf

nandoブログ(最終閲覧日 2017/07/06)

 http://nando.seesaa.net/article/155722930.html

Philosophy Guides(最終閲覧日 2017/07/06)

https://www.philosophyguides.org/

苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説)(最終閲覧日 2017/07/06)

https://ittokutomano.blogspot.jp/

内田樹の研究室(最終閲覧日 2017/07/06)

http://blog.tatsuru.com/

 


 

 

 

初恋の女の子が家の近くに越してきた

最近といってもおそらく2年くらい前から、家の近くに初恋の女の子が引っ越してきた。

彼女は社会人なので、通勤のために実家から通っている。僕の方は取りこぼした単位を拾う為に今期から真面目に1限に出席するようになって、そのおかげで朝の電車が同じになることがたまにある。今までは1限なんかにとてもじゃないけど出席することもなかったから、まさか1限に出ることで同じ電車のしかも同じ車両になることがあるなんて思いもしなかった。
確かに地元は一緒だったし、なんだったらどの辺に住んでいるのかも知っていたから、僕の最寄り駅にも自転車を使えば通えないこともない。彼女の大学が高田馬場から東西線で一駅のところだったから車両の一番後ろに乗ることを知っていて、僕の方は西武新宿で乗り換えて中央線に乗っているので、一号車に乗る。だから思いもしなかったっていうのはさすがに言いすぎかもしれない。ただ同じ車両になるというのはひどく窮屈だ。緊張しさえする。こちらとしては彼女の姿をこの目に収めておきたいのに、あの羞恥心が邪魔をしてしまう。職場が青山にあるというので大江戸線に乗りたいのだろう、彼女が中井で降りる気配を感じる。夏目漱石のこころをiPhoneにインストールしているkindleで読み直しているけど、様子が気になって内容がちっとも入ってこない。
こんなことになるなら、引っ越すとしても元の家から徒歩で15分くらいのところじゃなくて、もっとこう"シティ"な感じのところにしてくれたら良かったのに。パパが僕たちの地元を大変お気に召しているのだろうけど、大したもんはココにはない。ジョギング中の夫婦が「ヨーロッパに来たみたい」なんて言っていたのを聞いたことがあるけど、僕は地元に"ヨーロッパらしさ"を感じたことは一度もない。ヨーロッパらしいってしかもアフリカっぽいと同じレベル感なのがグッとくる。フランスもドイツもスイスもフィンランドも"ヨーロッパっぽい"のだろうか。日本はアジアっぽいのだろうか。


それにしたって彼女のほうだって気まずくないのか。もしかしたら彼女の方は全く気にしていないどころか、僕なんかに微塵も興味を感じていないのかもしれない。そうだとしても不都合だ。朝の通勤時間に小説やビジネス本を読むような彼女には東横線か、あるいは田園都市線がお似合いだと思う。青山の広告代理店でパリッとクリエイティブな仕事をしているのなら、意外と二子玉川や武蔵小杉なんかも良いかもしれない。トレンディがある。そんな彼女の住まいが閑静なローカル線の住宅街で僕の家から走って2分だなんて。


初恋の女の子が僕の通っている小学校に引っ越してきたのは4年生の時だ。
学芸会の準備で役を決める際に視聴覚室か何かに学年で集まる機会があって、僕はその時三組だったから、二組に転校してきたその子を見かけるのはそれがはじめてのことだった。僕は一目惚れをした。

控えめにいって、ものすごく可愛かった。もしかしたら可愛くないのかもしれないとかそういうことを思うことなんか一切ない。疑いのない可愛さ。とにかくものすごく可愛かった。広末涼子のような清涼感にしかしどこか影のある、もしかしたら深田恭子かもしれないようなミステリアスさ、とまではいかないけど、こう、幸の薄そうな、アンニュイな佇まい。目が合っているようでどこか僕よりも遠くを見ているようなそういう雰囲気のある女の子。きっと心臓に包帯を巻いているに違いない。
そんな少女の横顔を偶然にもあの場で拝んでしまったその日から、僕の好みの女性のタイプが確立してしまった。確実に言える。初恋というのは実に恐ろしいものだ。

僕は地元の公立中学に進学することを決めていたし、彼女が日◯研かどこかの塾に通っていてそれで女子中学校を受験するというのは友達から聞いていたから、中学に上がったらこの思いも終わってしまうんだなと思っていた。金輪際のお別れになるんだろうなって思った。なんでかわからないけど、また会えることを期待したお別れであったり、悲しさのようなものを感じないまま中学生になった。今思えば、そういう感情が終わってしまうということが当時の僕にはよくわからなかったのだと思う。小学生の頃の僕たちはただ誰が好きだ誰と両思いだとかそういう秘密を"バクリョー会"と名付けたなんだかよくわからないグループでこっそり共有しあって、それでその子と廊下ですれ違うたびに肘で突き合うといった交友関係を楽しんでいただけだったのかもしれない。一度も話したことのないにも関わらず、これは初恋なんだって確実に言えるそれは小学校卒業と共にお別れしたかのように見えた。

 

 

 



高校1年生のとき、僕たちの間で前略プロフィールが流行った。
僕もその当時ノリノリでプリクラをプロフィール写真に設定し、好きな異性のタイプのところに「幸薄い子」って書くくらいにはエンジョイしていた。
今でいうTwitterのようなタイムラインは「リアル」と呼ばれていて、幼稚園の同級生だったモデルの女の子は「りさのりある」とかいって人気を博していた。

「ぼくのりある」もささやかな人気を誇っていて、"ねっとりとした"自分語りとますだおかだの岡田のような芸風がウケて意外にもいろんな人に見てもらえていた。
ゲストブックというのが前略プロフの中の機能にあって、そこに知人がコメントを残すことが出来るようになっている。そのときに現れた nさんが話題になった。彼女は僕のゲストブック=足跡 にミルクキャラメルが欲しいと言った。
僕が高校にあまりいかず(行ってなかったことはしらないだろうけど)近くのコンビニでバイトをしていたことを彼女は知っていた。
彼女の言うミルクキャラメルがうちのお店にあるかどうかの話を聞かれて、多分あるとかいう適当な返信をしていたのを覚えている。そのうちみんなが僕とnさんのやりとりに興味を持つようになって、学校に行くと「あのn ってだれ!?ww」とか言われるようになった。 
僕とnさんとのやりとりが130件を越えたあたりで、nさんはバイト先に来た。

僕は度肝を抜いた。まさかこんなことがあるのだろうか。あの女の子だった。
バイト中にも関わらず連絡先をその場で交換した。夜勤のお兄さんと一緒に夕勤に入っていたのだけど、事情を説明したら怒られなかった。むしろ茶化された。
そこから僕たちは小学校を卒業してから今までの4年弱を埋めるかのようにメールをした。

当時の携帯は文字数制限というのがあり、1万字を越えると入力ができなくなるのだけど、僕たちは文字数いっぱいになるメールを1時間半かけて丹精に返信した。そりゃ50~100個にもなるトピックを全て覚えられるはずもないから、3つくらいの返信を書いたら下書きに保存して、次のトピックはどんなこと話していたかを確認して・・っていうのを繰り返す必要があった。内容で言えばニコ動が面白いとか、彼女は御三家クラスの女子校に通っていたので、自然とヲタい趣味を持ちやすいのだと思うけど(偏見)、時かけMADがあーだとか、あるいは東京事変だどうだとか、そういう話もした。彼女は軽音部で、家にはドラムセットが置いてあって、透明人間をコピーしたりしていたらしい。椎名林檎が好きな女の子だった。高校1年生にしては早熟しているという感想がある。

返信をするのは一苦労だった。でもそれが楽しかった。真面目なのかわからないけど、分岐した話題には全て返信したし、彼女も返信してくれた。そういう色恋を僕は純粋に楽しんだ。
 

 

次第に僕達の仲は縮まっていく。バイトから上がって、電話がかかってくる。僕はそれには返事をしない。その代わり、デートに誘う。


正直にいって、僕は彼女に対して劣等感があった。先程も言ったとおり、これは羞恥心なのだ。尊大な羞恥心と言っても良い。彼女は1時間半かかるメールをしながら、僕が必死に入力している時間に勉強をしている彼女に対して僕は恥ずかしい思いをしないでは居られなかった。大学入学に向けて自主的に勉強をしているような子だった。
僕は偏差値が50もない都立高校に進学して、あまつさえ学年ワースト10の人間だったから、そういう天上人の姿を目の当たりにして惨めな思いがした。

「勉強なんて、くだらない」
「どうせやったって役にたたない」
「学校の先生が馬鹿に見えて仕方がない」

僕はみんなが僕と同じようにそう思っているに違いないと思っていたから、ボイコットと言えるような授業態度を取ることもあったし、それがきっかけで停学になることもあった。そういう人間なのだ。そういう貧困家庭で文化資本の微塵もない人間が彼女のような幸福に溢れる少女と関わるなんてこと、あってよかったのか。
僕は気持ちに応えたかった。けど、自分の無様な境遇を誰よりも理解していたからこそ、彼女の気持ちに応えることもなく、返信を止めてしまった。

「あの時いったこと、なかったことにしてください」

これが彼女から送られてきた最期の言葉だった。




僕が勉強に対してひどいコンプレックスを抱えていたのは、進学した環境へのミスマッチもあったけど、それよりも大きかったのはきっと彼女へのコンプレックスが勉強に向いていたからだと思っている。僕はそうやってここまでやってきたのだ。

幼馴染いわく、彼女はAO推薦で入学したらしい。
ものすごくモテるけど、性格が奇抜らしく、恋愛に発展することはそう多くなかったと聞いた。
彼女は3年生になって、イェール大学に1年間留学した。留学費用は親から借りて、社会人になったので、親に返していると言っていた。

 


彼女はきっと大学でケインズハイエクを勉強するような感じではなかっただろう。
きっとホロコーストに関心を持って西欧政治史を学ぼうとしたのだ。ハンナ・アーレントのようなそんなイメージがある。"アンシュルス"という響きが彼女を形容する。留学ではどんなことを学んだのだろう。

僕の方はどうだっただろうか。
見えない格差に悩まされないことはなかったし、この断層をどうにかして上り詰めてやろうと思った。もしかしたら届かなかったかもしれないし、もしかしたら届いたかもしれない。
でも、ある種の上流に来て思った。僕は平面的な世界しか見ていなかったことに気づいた。ここには奥行きがあって、階層が同じになったように見えても、生きる世界が交わることはないのだと。
彼女の生きてきた歴史を僕が覗くことが出来ないことが、たまらない不安となった。彼女の見える世界と僕の見える世界はブラウン管に映る「カサブランカ」と最新液晶で見る「君の名は」くらい違うに決まっている。僕はこれから出会う数々の人々に対し、僕と過ごすことのなかった埋めることの出来ない時間に苦しみから逃れることは出来ないというのか。僕にとっての特別に入り込む余地のないように、僕が彼ら彼女らの過去の特別に取って代わることのできないことを知ってしまった。世界の連続体は人によって異なる。見てきたもの、感じてきたもの、そこから学んだこと。それぞれがそれぞれの世界のかろうじて交わった範囲でしか交友出来ないのであれば、それほど虚しいことはない。



努力というのは貧しいものに必要とされるものであってほしい。
恵まれた家庭に生まれ、愛され、そうして社会になんの疑問を抱くことなく生きてきたのであれば、どうかそのまま幸せになってほしい。
社会人になって、通勤中にビジネス本を読んだり、コピーの勉強をする必要なんてきっとない。いつかきっと、おそらく今も付き合っているであろう彼氏や職場の人と結ばれて、2児の母になって、幸せになっていってほしい。
彼女のそれはエリートに他ならないではないか。もしそうであるならば、世界の溝はますます深まっていくことを受け入れなければならない。

彼女が政治経済学部に進学したように、僕も政治経済学を学んできた。
彼女が広告代理店に就職したように、僕も卒業したら広告を生業とするのだろう。
どこかで交わってもよかったはずの世界が、どんなに類似共通する点があっても交わることのないこの世界の片隅で僕はまことに勝手に息苦しさを感じている。

おそらく10月までに引っ越すことになるだろう。
僕が24年間生きてきた思い出深い地元を出た時、僕と彼女を結ぶ共通点がついに無くなる。
それは小学生のときにはわからなかった別れのような感情を僕に芽生えさせるのか。
あるいは僕の眼前を照らす原動力として、ずっとこころのどこかに仕舞われたまま生きていくことになるのだろうか。


一度空いた穴が塞がることはない。僕は彼女に穴を空けてしまったのだ。


1-1 理想の社会が存在する場合、それはどのような社会か

私たちの生きている社会では、常に何かしらの問題が発生している。人類が誕生してから今日に至るまで、その問題の本質は変わっていない。すなわち、人間関係における問題である。
社会における問題の全てを人間関係だけに置き換えてしまうのは些か難しいのではないかと思われるかもしれない。日本で言えば、地震や台風といった天災の被害を問題とすることもあるし、人類以外の動物との関係、病気や障害といった健康や生命に関わる問題も問題である。だがしかし、課題設定を”理想社会を達成する上でその障害となっているもの”という制約の上で考えていくこととすると、人類の病を克服することや、技術革新によって生産性があがり、食料危機を乗り越えるといったことは人類にとって共通の目標と呼べる。勿論、病気のない世界もまた理想の社会ではあるのだが、人類が理想の社会を実現できていない理由にはならないということだ。


人類が文明を持つようになってから5000年~10000年、もしかしたらそれよりももっと長い歴史があるかもしれない中で、なぜ人類は絶えず争いを繰り返してきたのか?個人から見て非常に長いと感じられるその期間の中で、どうして人類は理想社会の実現に至ることができなかったのか?そのような社会が実現していたらしいという証拠が単に見つかっていないだけなのかもしれないが、ある特定の期間において成功と言えるだけの社会を構築することは本当に出来なかったのか。あるいは出来たのか。


この問題を紐解いていくのは非常に難しい。なぜなら、その当時において成功したと言えたとしても、成功を持続することが非常に難しいからだ。
例えば専制君主制は君主が自由に権力を行使していた時代であり、その時代における権力の維持機能は他の政治形態と比較しても長い期間権力を維持してきた。しかし専制君主制における民衆の生活に幸福があったかと言われると難しく、自由を奪われ、労働を強いられるといった隷属が常であった。こうした人権を無視した政治権力は集中により腐敗し、民衆による革命により倒されるといったことを繰り返している。日本においても同様だ。長期に渡って権力を維持してきた江戸幕府も、権力の集中と監視、税制の緊縛化を通して各藩に武力を持たせないようコントロールしたし、百姓や武士の意見を取り入れ、合意形成を取ることによって政権の長期化を実現した。しかしながら結末は、外的要因にもよるとはいえ、黒船来航以来ほぼ鎖国した状態を貫いてきた幕府が開国を迫られるようになった。フランスやイギリスの財閥が藩に武器を与え、力をつけさせ、さらに薩長同盟を実現させ、強力な藩が力を合わせることによって幕府は大政奉還を余儀なくされた。
このように、政治機能の維持の観点でみればある期間においてこれほど成功を収めている社会はないと言うこともできるかもしれないが、どのような政治体制を取ったとしても、陳腐化が起こってしまう。完璧な人類が存在しないように、完璧な政治が存在しない。それに、例え政権の維持がうまくいったとしても、それが民衆にとって理想の社会であるかどうかに関しては疑問である。ロールズのいう”無知のヴェール”によって民衆が他者の状況や自国や他国の比較をしないがゆえに幸福度が上がるといったケースも存在するが、それが果たして本当に理想と呼べる状態なのか?

 

 

 

人類は貨幣制度を本格的に導入することによって非常に強力な技術革新力を手にすることとなった。それが資本主義である。資本主義体制を導入する以前の原初的な社会状態においては、労働の蓄積と土地の所有によって富を増減させていた。その為、労働によって生み出された富は全て労働者の富となっていた。ところが、その富を資本と交換できるようになってから、資本を動かすことによって労働せずに富を得ることができるようになった。この金融モデルの強大化によって労働者階級と資産階級の格差が生まれ、労働成果の一部を資産階級が搾取する形によってより大きな富を得ることが可能になった。

この資本主義の制度は産業革命と共に始まり、それからというものの労働の効率化と生産手段の獲得に貢献し、人類史上最速の発展を遂げることとなった。

 

 

 

いずれにせよ、これらの問題の根本にあるのは、対人間における富の収奪にある。人間の争いの大本は今も昔も変わらず、いかに労働をせずに他者の富を得るかという点に帰結する。それは自然なことかもしれない。サバンナのライオンがシマウマを狩り、食料を得ることで生存するように、生物の根本は自分以外の誰かの富や生命を奪うことによって生存することを選択することがある。
このような状況下で、人類は農耕によって食料自給を学習することが出来た。火を扱うことを偶然にも学習した人類が調理によって今まで消化することの出来なかった食料を手に入れられるようになった。そして調理が可能となった食料、たとえば米、麦などを保存することによって人類は必ずしも動物の生命を奪わなくても生存できるようになる。農耕によって労働の概念が形式化していく。人が富を生産し、その富を蓄積する働きがこの頃から生まれ始めた。
ところが今度は他者の労働によって生み出された食料を強奪するものが現れる。食料の強奪を第一義的な目的となっているが、食料という富をより多く保有することが人間の尊厳の現れにもなった。人間は農耕によってコミュニティを形成し、領土を決定していく。その領土にも生産のし易い土地といったものもあるし、その土地の拡大によってより多くの富を生産することが可能になる。こうして人間は本来自分達の所有物ではないはずの土地を奪い合うことを始めるようになった。富の概念は人間の生産した食料にとどまらず、装飾品や武具、土器や石器も含まれるようになっていく。そうして人類は奪うべき富を拡大していくことになった。

 

 

争いの根源は収奪の攻防である。誰しも、自分の労働対価を奪われることを望まない。自らの意志で分け与えることはあるかもしれないが、理不尽に奪われることをよしとしないだろう。ましてそれが生命であればなおさらである。人類は最低限の富を獲得していくことによって社会性を築き、収奪の攻防を平和的に行えるシステムを発明することとなった。それが法である。これによって社会のルールが明文化されることになった。人間は信用と信頼を行えるようになった。法を破ると罰せられるという不利益が収奪の抑止となり、より複雑な社会を構成できるようになった。

 

さて、失敗と改善の連続の中、人類は一部の国においては最低限の生活を保証し、争いや収奪をほぼ抑制している状態を生み出しつつある。この状態からさらに改善へと文明を発展させるとしたら、私たちはなにをボトルネックに設定し、そのボトルネックにどう対処していくべきなのか。

思うに人類は理想社会という青写真を既に手にしているのではないか。人々が幸福である為に生活の保障と自由と尊厳、これらを高次に満たしながら他者への公益性を労働の意義とできるような社会が実現されたとしたら、それは限りなく理想に近い社会なのではないか。もしそうだとしたら、私たちに不足しているのはその理想社会に対して前進する力なのではないか。人類は社会を構築しているが、その構成員の思想は多様であるから、必ずしも全員の利害が一致するとは限らない。更に、私たちが意志決定をしていく際に、必ず少数派の意見を封殺してしまうことがある。民主主義の本質は合意形成にあると思うが、多数決にその本質があると曲解されてしまうと、どうしてもマイノリティを排除する動きが生まれてしまう。このように、より社会が高次になるにつれて、問題が人間関係に帰結していく。

 

わからないが口癖になった日

「わかんないんだけど、〜〜かもしれない」って言うことが増えた。おそらく、その前に口癖になっていたのは「それって本当なの?」だったと思う。

それって本当なの?

ほとんど全てのものが本当にそうじゃないかもしれない。

でもほとんど全てのものが本当にそうじゃないかもしれないのは一体どうしてなんだろう?


大学1年生のときに、波頭亮さんの『思考・論理・分析』という本を読んだ。
かるとは分かること、分かるというのは分けること。物事を分けて、その違いを認識することの繰り返しによって僕たちは理解している。一般的な学問も、比較に出発点がある。
この本は後輩に貸してから行方不明になってしまったので、手元にない。思えば論理的思考の本、いっぱい持ってたんだけど後輩たちに貸してから手元に戻ってきている本がない笑 数ある論理的思考の本の中でも特にオススメを教えてくれと言われたら、僕は考える技術書く技術よりもこちらをオススメすると思う。内容、殆ど思い出せないんだけどね。

悲しかったのは、論理的思考やなぜなぜ思考といったアレも、突き詰めるとキリがないということ。なぜを5回繰り返せ!っていうトヨタ的なアレは5回という一区切りを付けている点で◯だと思う。なんだけど、じゃあそれを後輩達にやってみてっていうと、論理の階層が飛躍したり、同じ階層の段階で同語反復になっているだけだったりする。
問題の分析になったとき、例えば新規事業を始めたいとして、現状の課題を分析してみようとなると、最初の課題設定に置かれるのは大抵「メンバーの企画力がない」
となる。ここでなぜなぜ思考としてそれはなんでなんだろう?と考えるのは簡単だと思う「メンバーの企画力がないっていうのはなんでなの?」と問えばよい。すると、「メンバーに論理的思考がない」的な答えが返ってくる。
どうしてこうなってしまうのか、僕にはよくわからなかった。おそらく僕も同じようなミスを行ってしまっているだろう。問題発見、課題解決が難しいのは、適切な課題設定と適切な課題分析と適切な仮説を立てるのがひどく難しいからだと思う。

ここで問わないといけなかったことは、「メンバーの企画力がないってどういうことなんだろう?」「その仮説は数ある問題の中で最も重要な課題なのか?」なのだと思う。大抵の場合僕達の思考というのは暗黙知に包まれた範囲でしか思考していない。人間の認識というのは割と雑魚くて、ここからは思考しなくて良いよね〜っていう自動化が常に起きている。だからこそ、「問うべきお題はなにか」という点を考えなくてはならない。しかしそれを意識して思考するのはとても難しいのだ。だから僕ができるささやかな抵抗は「自分たちが気づいていないことは何か」と問うこと。それこそアプリオリに「あーこれだね」なんてわかれば一番いいんだけど、大抵の場合は経験的認識に依存しているため、経験的な認識や思考のクセ、思い込みやバイアスを外す訓練をするという意味で問いの角度を変えるというのは結構重要だと思っている。

話はズレたけど、論理というのも結局、ゼノンのパラドックスのように、どこまでも細分化できてしまうキリのなさが存在している。僕たちが物事をより確からしく理解する手段として信望されていた理性や論理たちが自らのうちに脆弱性を秘めているという危うさに自覚してしまうと、それ以上に手段を持ち得ない僕は困惑してしまう。
それってどういうこと?それってなんで?この2つの問いは悪魔的だ。問いは重要でありながら、僕達の生を脅かす。だから僕たちはどっかで打ち止めしないといけない。だけど、それっぽい課題で打ち止めする根拠みたいなものがないことがほとんどだ。じゃあ僕たちはどうしているかっていったらその集団や組織のリテラシーがうまい具合に合致している点で「まあこんなところでしょう」という集団的な合意によって決めるか、もしくは、「定量的に分析するとこうなので・・・」というデータ的なアレで決まる。
集団的な合意っていうのはバイアスの宝庫だったりする。多くの場合、関係者の利害が意志決定を阻害していることが多い。どうしてそうなるかというと、集団での合意によって責任者がいなくなるからだと思う。だから、決定は責任者が一人で行ったほうが良い。
そういうわけで意志決定というのはとても孤独な仕事だと僕は思う。誰にも頼ることのない中で何を拠り所にしたら良いというのか。とても孤独なその仕事を全うしたいのであれば、思想をひたすら磨くしかない。というのが僕の結論だった。


僕が大好きなおっさんが「すべては疑いうる」といったんだけど、わからないが口癖になってしまった理由はまさにここの点にある。その気になれば、存在も時間も、疑いうる。本当なんてものは存在せず、あるのは形式的な解釈が具現化した社会のみであるということに絶望した時、「あ〜これからどうやって生きていこうかな〜」って思った。
このまま死ぬのもいいかもしれないし、このまま生きてみるのもいいかもしれない。
でも死ぬことへの恐怖が僕の意志とは関係なく抵抗することからいまだ逃れられていないので、「あ〜雑魚いな〜自分」と思ってしまう。

僕が村上春樹を愛読している理由は、彼が小説という物語を通して、この問題に対し懸命に取り組んでいるからだと思う。「自己の存在を疑い、問い直し、殺してみる」
そうやって頑張って自分自身をよりよく理解しようと努めているのだけど、毎度失敗する。本人がどう思っているのかわからないけど、成功した試しはおそらくないのだろう。おそらくこれからも成功することがない中で、しかしそれ以外に方法が見当たらないまま新たな物語を規定し、擬似的に死んでいく。根源的な、プリミティブな欲求を取り出し、捨象してみる。そして失敗する。失敗して収集がつかなくなってしまったからこそ、村上春樹の小説には結論がない。でもそれで何がいけないというの?
読者の期待を裏切るかのように、主人公の僕は日常的な生活に戻っていく。その点において、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドスプートニクの恋人では唯一その他の小説とは趣きが異なる。これもきっと彼なりの取り組みなんだろうなーと思って読んでみる。


与えられたレールの上を走るのはとても楽なことだ。就職し、働いていれば、大抵の場合、よく生きているとみなしてもらえる。でも本当にそれは「より良い生き方なのだろうか?」「わからない」

自由からの逃走という本の取り組みは衝撃的だった。結論から言えば、人間は自由であることに不自由さを感じてしまう。
自由と責任という二項対立の問題はハイエクも取り上げていたけど、大衆は自由であることを実は好まないのだ。生きるという自分の生への責任を自分で負うことはとても大変なこと。「だれもお前の為に死んでくれないのに、どうしてお前は自分で生きようとしないの?」


 

ヘーゲルに言わせれば、僕達が得られる自由の範囲は「選択自由性」にあるという。
僕たちが自由を想像する時、もしかしたら「自分の思い通りにいくこと」を自由と呼んでしまっているかもしれない。僕が生きていた中に限っていうと「空を飛んでみたい」と思って飛べたことはなかったし、「お金持ちになりたい」と思ってもすぐにお金持ちになんてなれなかった。自分の思い通りにいく人生なんて僕は経験したことがない。

おそらく自由というのはそういうことではないのだろう。僕たちが享受できる自由というのは、「2つか3つの道があって、君はどの道を選ぶか?」くらいなんだと思う。
「多分だけど左の道も真ん中の道も右の道も、君とって同じくらい苦しいことが前提だよ?どうする?」
「わかんない。わかんないんだけど僕は左の道に進むことにするよ」

今までの僕はわからないことがないように生きていこうとしすぎていたのかもしれない。そしてそれは僕だけじゃないように思う。
今もわからないしこれからもわからないなら、せめてわからないことを選択して生きていくことにしよう。

 

 

勉強の効用について

後輩に勉強の効用について問われたので、これを機会に自分がなんで勉強していたのかをまとめておいた方が良いなって思うようになった。自分で言ってみてはあれだが、「なんの為に勉強をするのか」という問いに対して、万人にウケる答えを僕が用意できるとは思っていない。僕が対象にしている人は基本的に大学1~3年生、もしくは高校生に向けて書いているつもりになっているので、大学を卒業している人や社会人の人が読んでも実りがあるとはいえないかもしれない。僕よりも勉強をしっかりやってきた人にとってはそんなことも知らないのかと言われてしまうことがあるかもしれない。

また、自分自身も答えが出ていないから勉強を続けているという側面もあると思う。というよりそもそも、勉強というのは何かの目的があってはじめて続けるものなのか、というのも疑問である。効果がないからやらない、ということが起きないようにするためにも勉強は必要なのだが、勉強をしないことにはわからない。

これらのことをうまい具合に論理立てて説明するのは少し難しいな、と感じている為、多少論理構造がずれることもあるかとは思うけど、そこは指摘していただけたら嬉しい。もっともっと、勉強をするということはどういうことか、というのを小玉たちと話しておけばよかったな〜。

 

まず僕が大学に戻って勉強をしよう、と思った経緯について説明をすると、そもそも僕は「クソみたいな大学を中退して働くぜ!」と言っていた人間だった。はっきりいって僕も学問に対しては蕁麻疹がでるくらいには"苦手意識"のある人間だったのだ。
中学生のときから「なんの為に勉強をするんだし」と思いながら全く先生の言うことを聞かなかったし、偏差値48の都立高校で学年最下位争いをしていた僕が高2の春に大学受験を決意したのも、「今だけはお前ら(身の回りの大人や社会的な常識)の言うとおりにしてやんよ」くらいの気持ちだったから、生まれたときから「あっ勉強って楽しいな?」って思っていたような人間でなかったことを知っておいてほしい。だからこそ、勉強をしなかった自分に憎しみと後悔を込めて、「勉強したほうが本当に良い」っていうようになっていった。
じゃあそんな反知性主義者がどうして勉強しようという気になったのか、というと、
「実際に働いてみてわかる、なにもわからなさ」にぶち当たったのが非常に大きい。
「社会を良くするビジネスプランを練るぜ!」と意気込んでみたところで、世の中がどのようなルールで動いているのかをよく理解しないまま考えていても相当早い段階で「まじでこれ以上は本当にわからん」っていう壁にぶち当たる。この壁に対して気合で乗り切るっていうのもひとつの方法だったのかもしれないけど、当時の自分には赤字垂れ流しても行先の見えない戦いを3年続けて死なないと言えるだけの自信がなかった。
加えて、今の社会は本当に、「明日なにかが大きく変わってもおかしくない」ってレベルで未来を見通すのが困難になっていると感じていた。それこそ10年前とかなら「HTMLCSS書けます!」といえばITリテラシー高めの人だったかもしれないし、「なんかインターネットって来てんじゃね?」っていって何かしらを始めればなにかの成果が出るような時代だったのかもしれない。インターネットとモバイルの波があったと思うし、その波に乗ることがどうやら成功確率を大幅に上げていたっぽい。だからもしそうだとしたら、波が何時くるのか、その波に乗るにはどうしたらいいのか、を理解して行動に移せるようになることがなによりもまず自分にとって重要なのではないかと思った。しかし重要そうなのはわかっても、高度な専門性の必要性と複雑さの増した社会でビジネスをするのは尋常じゃなく難度が上がっている。しかも今起きている波が今はまだなんなのかわからん。今は資本を持っている会社や独占がうまくできている先行プレイヤーに追い風となっている感じがなんとなくしてる。ともあれ、今の自分に出来ることのなさに絶望したので、就職するとか修行するとかいってる前に、もっと根源的な基礎能力を高めないことにはどうしようもないな〜と思うようになったということだった。

こう書いてみて思うのけど、やっぱり僕は元反知性主義者だったので、「何の為に勉強をするのか」という理由が合理的に腹落ちしていない限り、勉強しなかった人間だったと思う。だからこそ、何の為に勉強をしたほうが良いのかについて、出来る限り伝わってもらえると良いなって思う。
しかし大前提として、僕は「何の為に勉強をするのか」という問いを立てる段階から既に勉強は始まっていると思っている。だから何のために?と聞かれたら本当は「自分で考えろ」って言いたいところなんだけど笑
ところで、ぼくたちはなぜ「勉強する」ということに対してこんなに否定的なのだろうか。そもそも勉強とはなんなのか・・・

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

べん‐きょう〔‐キヤウ〕【勉強】[名](スル)
1 学問や技芸などを学ぶこと。「徹夜で勉強する」「音楽を勉強する」
2 物事に精を出すこと。努力すること。
3 経験を積むこと。「今度の仕事はいい勉強になった

前提として、勉強という言葉を語るのに重要なのは主体性・自発性だと思っている。
僕たちが勉強という言葉を聞く時というのは「勉強しなさい」という"しなさい"という強制、命令が組み合わさっているように感じていると仮定する。これは親がいう言葉、先生のいう言葉、大人がいう言葉が命令口調であることによるものの可能性が高い。その結果として「しなければならないもの」であり「させられているもの」であると僕たちは感じるようになってしまった。もちろん幼少期から勉強を強制させられたこともなければ自ら勉強をするようになった人もいるとして。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


これを踏まえた上で、僕は自分でする勉強について話すことにしたい。もっと言えば、
「自分で問いを立てて自分で調べて考えて自分で答えを出す」
という一連の作業を"勉強"と呼ぶことにしたい。その為、僕にとって"勉強"とはなによりも「問いを立てる」ということ。「問いを立てる」ということは疑問を持つということ。疑問というのは好奇心と結びついている。好奇心というのは物事を前向きに捉えること。前向きというのは良し悪しではなく、スタンスの問題。


ここで言いたいことがひとつできたのだけど、勉強というのは自らの問いに自らで答えていくものなので、勿論対話を通したりや教えてもらうことで効率化を図ることはあるけど、中高や大学の機関がイマイチだからといって君が勉強をしなくていい理由にはならないし、大学を叩いて自分が賢くなった気になるのは違うと思っている。単純に「君が大学を有効活用できなかった」のだ。
勿論僕も大学の在り方についてこうしたほうがいいと思うこともあるし、大学の腐敗が起きている理由のひとつに代謝の悪さと既得権益化が起きていることを指摘したいが、それはここで話すことではないのでトピックの提示に留める。あくまで建設的に。

  

さて、「なんの為に勉強するのか」という問いに僕が答えるとしたら、だいたい3つくらい出発点がある。中でもパワーワードなのは

「搾取されない人間になるため」

人間社会というのは「情報の非対称性」と「力の不均衡」を利用して自己利益を拡大していく営みがある。「情報の非対称性」というのは、相手は知らないが自分だけは知っている状態である。
自分達だけが知っている情報を生み出してしまえば、モノの値段を自由に設定することができる。値段を自由に設定することができれば、適性価格よりも多くの金額を設定して売りに出すことができる。ビジネスでは「いかに情報の非対称性を生み出し、情報の提供またはサービスやモノの提供を行うか」をやるとなかなか儲かる。

これはまた別の例だが、かなり極悪な行為のうちのひとつに「紙幣をバレないように刷る」ということがある。これを利用して通貨発行益を稼ぐことができる。正確な情報を得ることが出来ていないのと、経済は結構雑魚なのでイマイチわからんのだけど、お金を刷っていることが僕達にわからなければ、インフレは多分起こらない。ってなったときに「そんなことを政府がするわけない!」って言う人がいるかもしれないが、果たしてそう言い切れるだろうか? 日本史でも出て来る金の含有量を調整したらインフレ起きてやばかった事件とかが現実に起きていることは歴史上で確認できる。ただこの事実を知っていれば「もしかしたらしているかもしれないし、していないかもしれない」という可能性を観点として出せるようになるし、似たようなことを企業はしている可能性に転用して考える力を身につけられる。ぶっちゃけインサイダー取引とか本気だせばバレなさそうだし、株価を調整して身内で絶対に上がる株を売買するみたいなこと、違法だけどやってる人達はいるだろう。最近話題の森友学園もおんなじようなことをしているから問題になっているし。


「力の不均衡」もえぐい。労働者は資本を自分の身体以外に持たないため、自分の時間と能力を市場で売り買いしているが、資本家は土地やお金や労働を売り買いすることによって労せず資本を増殖させていくことができる。また、経営者と労働者の関係も不均衡だ。給料の設定は経営者が行うが、時間あたりいくらもらうのが対等な関係であるのかがよくわからないし、労働者の代わりはいくらでも利いてしまう側面があるので、文句を言ったら仕事を与えてもらえない可能性がある。仕事がもらえなくなったら労働者は生活ができずに困るが、労働者一人がボイコットして急に仕事にこなくなっても、労働者ほど経営者は困らない。

これは特に重要な2つだと感じているけど、法律や税制も、「マイナススタートで知って初めて0」という情報の非対称性が起きている。生まれたときから情報の非対称性が起きているといって良い。如何に税金の控除を受けるかとか、如何に税金を支払わずに済むように手続きができるようになるか、とか、如何に法律の抜け穴をみつけることができるか、が割と大事。自分はこの2つに対しては「そうなんだ〜」くらいにしか思えてないので詳しい人は教えてほしい笑
とはいえ、こういったものは国家で決めていることなので、民主主義国家であれば「消費税増税します!」っていう法案に対して国民がノーといえば増税されることはない。ただ今問題になっているのはメディアを活用した情報・印象操作によってマジョリティを扇動して自分達の思い通りに法案を通そうとしたり、重要な法案をメディアで報道しないようにすることによって国民が気づかないままやばそうな法案が通ってしまうことだと思う。今でいうと共謀罪とか。自分で正しいと思う判断ができる人をエリートと呼ぶとして、今の日本にそうした人がどれほどいるだろうか。僕はそういう判断がまだできる状態にないのでエリートであるとは言えないと思うけど、エリートが少数派になったり、本当は正しかった人がマイノリティになると、民主主義は腐敗速度をめっちゃんこ加速させる可能性がある。これが今言われている民主主義のダメなところ、とされているけど僕個人が思うに、叩かれるべきは「制度を悪用すること」だと思うんだよなあ。

2つめにある僕なりの答えは
「自由に近づくため」
だった。

よく受けていた授業の先生が言っていたのだけど、
「経済的自立、社会的自立、思想的自立の中で、最後のものを身に付けなさい」
僕はこの言葉からかなり影響を受けている。
1つめにもあるけど、基本的にこの世の中はみんなが自分の利益を最大化するように動いている状態が前提であり、実際にその通りになっていればwin-winだよね。っていうルールに基づいて動いている。だからこのルールに則って「自分の利益を最大化させてやんぜ!」といって動いている人たちというのは健全な人たちなのかもしれない。
こういう表立ったルールがあればいいのだけど、世の中にはルールとして明文化されてないけど実はルールとなっていたルールが数多く存在する。ぼくはそれを「社会的通念」と呼んでいるが、例えば「みんなが残業してたら自分も残業しよう」とか、「大学にいくのが当たり前」とか「大企業にいったら幸せになれる」とか「おしゃれな街ランキング1位吉祥寺♡」とか「浮気はダメ、ゼッタイ」とか
考えてみたらだれが決めたのかわからないんだけど、なんか暗黙の了解事項になっていることに対して、「それって本当なの?」
っていう問いを向けられることっていうのが個人的にすごい重要だと思っている。
それに、さっきも言ったとおり、どうやったらお金を儲けることができるようになるか、という能力も勉強をすれば身につくので、「経済的自由」に近づくことができるはず。悪いことはしなくていい。例えば地政学的に、時代背景的に、どこにいくら投資すると何年でいくらリターンが得られるか、という答えを出せるようになれば、お金に困ることはなくなるのかもしれないと仮説を立てて頑張っている。

 

3つめの答えは
「能力向上のため」

僕の場合は人間的成長をすることに関心があるので、学問的な勉強も、社会的な勉強もだいたいなんでも好きなんだけど、特に学問的な勉強で得られる脳のビルドアップに効果があると思っている。高度な専門性に耐えうる基礎知識を習得し、複雑化した社会を見通し、自分で問いを設定し、自らその問いを解き、次の時代の価値を生み出すことの出来る能力を僕は身につけたかったし、その点で言うと悪くない成長曲線だった。
また、僕の指向性として、RPGなどのゲームではなによりもまず、レベルアップごとに全ての能力が+1あがるようなパッシブスキルを好んでいたし、実生活でもそうしてきた。そのせいかわからないけど、なにかテクニカルな武器があるかといえばないので、現状はただのポテンシャル人間でしかない。同期にはゴミムシと呼ばれている。
でも、もしかしたらゴミムシになるかもだけど、そうやって自分の能力を出来る限り指数関数的に伸ばせるように順序立てて考えるとするならば、まずは脳科学かなにかを勉強して、人間の脳はどのように学習をするのか、どのように学習すると効率が良いのか、を理解してから学習を進めていくようにすると良さそう。次に純粋な思考力を上げる訓練をして、経験値が通常50しか入らない出来事から500経験値を得られるようにしてから進んでいくことが出来たら、とても良い気がする。

 

 

 

これが僕個人の思う勉強する理由で、大学の学問体系に沿って僕のしてきたことっぽいことをまとめるとこんな感じになると思う

- - - - - - - - - - - - -
【分類】
- - - - - - - - - - - - -

【分野】オススメ度+やりこんだ度

やったこと




コメント

 

- - - - - - - - - - - - -
【人文科学】
- - - - - - - - - - - - -
人間・人為の所産 (arts) を研究の対象とする学問

【哲学】★★★★★

やったこと
・問いを立てて考える
・哲学系の本を読む
・ネットで調べまくる
哲学史をみる

例えば純粋理性批判をゴリゴリ読んだとか、存在と時間を読んだとか、そういうことをしていたわけではなく、そういうのはネットに落ちてる解説とかをヒントに考えるテーマを拾ってそれについて四六時中考えるっていうのが基本的な日常だった。

【文学】★☆☆☆☆
やったこと
・近代日本文学の名作をちょろっと読む
村上春樹をひたすら読む
・思考

文学に対して学問的な教養があるわけではなかったので、芸術的表現がどうとかそういうことはわからない。でも小説を読む意義みたいなことはある程度語れるようになった気がする。目的がない限り本を読むことはないのだけど、小説に描かれる心理描写から人の共感性を高める訓練はできると確信していたし、人間の浅はかさやエゴといった負の部分に考察を入れる意味でも◎に感じる。あとは適切なコミュニケーションを学ぶことなど。村上春樹は自分にとってまさにライフハックだった。

【宗教】★★☆☆☆
やったこと
・ひらすらネットで調べる

人間社会を理解する上で宗教を学ぶということは割と切っても切り離せないと思ったのがきっかけだし、対立や思想の原点がどういったものかに興味が湧いて調べるようになった。幸せとは何かという問いに答えを出す為には宗教を学ばないことには始まらなかったので、自分の煩悩や執着をなくしていく試みを通して公益の最大化を人間が美徳とできるのかどうかを知るために毎日自分と向き合い続けた。結果として幸せになるためには死ぬしかねーなって結論になったのでそこそこ病んだしそこそこ満足した。

【芸術】★☆☆☆☆
やったこと
・美術館にいく
・演劇を観る
・映画を観る

人間としての感性を鍛えていきたいなーと思っていたので、お誘いがあったら積極的に行ってみたのだけど、これが結構よかった。特に演劇は面白い。人間の精神を昇華するひとつの表現方法として芸術というのが存在していると思うのだけど、そこからなにを読み取ることができるかというのを頑張ってた。でもやっぱ絵画から学びを得るのはとても難しい。演劇のプロット、論理性、世界構築感にとてもハマった。

【教育】★★☆☆☆
やったこと
・人材育成系の本をひたすら読む
・人材育成としての活動を行う

これは特別座学で学んだことは少なかったように思う。
マネジメントやコーチングの本はひたすら読んでいただけかも。デュルケムやデューイが何を言っているかについてはよくわからない笑 本質としては自身をより良く教育するために学んだといった側面の方が強かったように思う。

【歴史】★★☆☆☆
やったこと
・世界史をさらっと学び直す
・興味のある部分を集中的に調べる

歴史ってジャンルにおいて最も興味が湧いたのがユダヤ迫害の歴史とお金の歴史だったので、その辺を重点的に学んだ。歴史を学ぶことの有用性は未来を見通す為に必要な原理を発見するところにあると思ってるので、もっと深く勉強していきたい。個人的にはユダヤ人関係については絶対に勉強した方がいいと思う。WW2が起きた根本的な理由のひとつなので。


【心理】★★★☆☆
・心理学の本をひたすら読む
・調べる
アドラーにハマったのもあったけど、自分の感情や自分というものをいかに理解するかという点でも結構重要だった。自分にはどういう感情が備わっているのか、どのような欲求があるのか、それらをどう対処するのが良いのか。フロムとアドラーを重点的に。アドラー教育心理学っぽい人なのでその点でいうと教育にも触れてるのかな。メンタリズムみたいなやつはどちらかというと行動経済学にはいるような感じ。影響力の武器とかファスト&スローや予想通りに不合理は個人的にそっちに括られてる。

- - - - - - - - - - - - -
【社会科学】
- - - - - - - - - - - - -
人間の社会の様々な面を科学的に探求する学術分野の総体

【政治】★★★★★
やったこと
・授業
・本をひたすら読む
・日常的な思考

政治学科だけど、政治の制度、例えば議院内閣制とか、大統領制とか、その違いや特徴について考えていく授業は受けていたとはいえ、あまり興味がなかった。
国際政治にもあまり興味が湧かなかったところがある。
自分が一番関心があった分野は政治思想って感じだと思う。概念というか。資本主義というものを理解する。とか、社会主義はなぜうまくいかなかったのかとか、マルクス主義マルクスを理解する、とか。特別な研究をしたというわけではないので、なんとも言えないんだけど。。
専攻していたという割には古典をあまり読んでいないので、そこに負い目が・・・
政治を勉強したというよりも、「理想社会を実現するためにはどうしたらいいのか」という問いをひたすら答えていった結果身についていったという感覚があるし、それで良かったように思う。

【経済】★★★★☆

やったこと
・本を読む

・いっぱい調べる
・日常的な思考

社会のルールを理解する為に必要なのでだいたいやる。とはいえミクロマクロをやったわけでもないので数式とか見せられると爆死する。多分この分野も経済"思想"の方を理解していった感じ。実学に近い計量政治学とか、金融工学とか、そっちの方が未着手なので多分やったほうがいいと思うんだけど、手が付けられてない状態。
文系大学生が専攻すべきは経済でサブウェポンが哲学だと結構本気で思ってる。

【社会】★★★☆☆

やったこと
・とくになにかをやった感じはしてない

社会学とはなにか、という問いに答えるのは難しいんだけど、今のところ、社会の構成に対して多様なアプローチで考え理解していくものだと思ってる。代表的なものに家族、文化、人口学、都市政策らへんがあった。切り口の多様さでいうと社会科学の中でも◎なんだけど、社会科学が科学しない要因はやっぱり仮説検証の出来なさ具合にあるなーと。。

【経営】★★☆☆☆

やったこと
・代表活動
・経営、戦略の本はしこたま読んだ
座学での勉強をしたかっていわれるとイマイチぴんとこないんだけど、結構実践知があるように感じてる。組織の本質とか、メリット・デメリットとか、組織活動のパフォーマンスを最大化するためにはどうしたほうが良さそうかとか、組織戦略をどう組んでいくのが良さそうか、みたいなところはちょっとわかる気がする。
所属していた組織の性質柄、人材の評価・配置には自信がついた。

- - - - - - - - - - - - -
【自然科学】
- - - - - - - - - - - - -
自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにする学問


特になにかを勉強したわけではないけど、脳科学量子力学ってなんだろうとか、そういうのは本を読んだりいろいろしてた。イーロン・マスクも言っていたけど、物事の原理原則を突き詰めていくというのがかなり効果があって、その能力を養うのは数学と物理だなーと思う。これからは理系分野にも手を出していきたいと思いつつ・・・

 

能力のつけ方はT字型にしろ!とかN字にしろ!(?)とかなんかいわれてるけど、個人的にはピラミッド型にしていくのが好き。
バーベル型にするのも割と良いと思うんだけど、高度な専門性に耐えうる基本知識の習得が重要だと個人的には思っているので・・・・
そうなるとやっぱ数学がゴミみたいに出来ないマイナスをはやく解消したほうが良さそう・・・・・・・・・


ピラミッド型っていうのもやっぱり土台となるのは人文科学で、中間に社会科学、上段に自然科学、または実学としての経営学商学、経済学を身に着けていくのが良さそう。
ピラミッドを二次元に捉えるか三次元に捉えるかでいったら三次元の方が強そうだから、是非そうしたいんだけど、横と後ろに配置されるらしい学問がなにになるのかとか、それぞれの連関を理解した知識の結びつけがまだうまくいっていないので、そこが課題になってる感じがする。 

 

 

 

まとめ

勉強の効用について、何のために勉強するのかの動機は説明したけど、勉強してよかったと感じることについてはあまり話せていなかったように思う。
勉強してよかったと思うことのひとつに、「無知の知」を理解できたんじゃないかと思うところがある。
「自分たちが知っていることなどほとんどなかったのだ」と打ちのめされ、絶望した時に初めて門戸が開かれる扉があって、それを開けることができることで景色がまた一段と変わった印象があって。例えば「認識の限界」と呼んだり「知性の限界」と呼んだりしていたようなやつ。自分の愚かさに気づき、人間が理解出来ていることは殆どないことであったり、存在の証明をデカルトがしたっぽい感じになってるけどあんまうまくいってないことであったり、その中でかろうじて公理と呼んでいいことは物理法則だけであったり、現存する思想の中でも実存主義の立場に身を置いておく方がよさそうであったり・・・

自分の認識できる世界の狭さに気づいて、けれどもその世界を出来る限り広げていこうと思うときに主体的な勉強が始まったのかもしれない。

あと本来的に「勉強の意味とは」となったときに究極的な答えであり続けてほしいなって思うことは、「勉強の意味は人間的な成長を遂げることにある」ということ。トッドが長い人類の幼少期に終焉を迎えるといったように、知性の獲得を通じて、人間の愚かしいと言われている点を人間が相互扶助的に改善していくことが出来たらなあと思う。うん、それが一番大事かな~。


もうひとつ

これからの時代、何が必要だと思いますか?という問いに答えるとしたら、
「今自分が出している暫定解は"問いを立てる力"だよ」と答えると思う。
これから起きるだろうテクノロジーが人間の仕事を奪うっぽいという時代の流れの中で、代替されない可能性と、その能力習得の難しさや希少性を考えつつ、自分がどうやら得意らしく武器になりそうなこと、で考えていった結果、日常的にしていた「なぜなぜ?」が実は最も良さそうなんじゃないかなと。
確かにプログラミングのスキルがあることに越したことはないと思うし、自分も一通りやったのだけど、どう考えてもこのスキルを習得して武器にする頃にはプログラミングスキルが陳腐化しちゃってんじゃないかって思うし、陳腐化した時に食っていける人材はエンジニアの上流階級だけっぽいって考えると、自分がすべきことじゃないのかもしれないな〜って思うことがある。(それでもやったほうが良さそうなのにはかわりないんだけど・・・)
じゃあ自分って何をするのが一番いいんだろう、って考えた時に、中途半端な僕がすべきただひとつの仕事は、
文理、ビジネスアカデミックの中間地点にたつことの出来る人間になることなのではないか。
そういう風に思うようになってから、自分にしか出来ないことが出来るようになる為に、割とこのナゼナゼ能力に集中して時間を投下すべきだと思った。それは今までやっていたことを続けていけば良さそうだったので、とりあえずそういうことにしておいている。これは人によって違っていて良いし、違っているべきなんだけども。

 

とはいえやっぱり難しい。
「どうやったら日本の国内総生産量を増やせるか」
「どうやったら日本の雇用を安定させることができるか」
「どうやったら人々の能力を最大化し、適切な仕事を提供することができるか」

これらの問いに答えを出すのはまだまだ先の話かもしれない。

 

自由の代償は高い

 

ちょうど一年くらい前に一泊二日の沖縄旅行に行ったことがある。短期インターンの優勝祝いだった。そのときにたまたま知り合った別タームのインターン生がいた。はっきりいって、僕は彼を尊敬している。
3月の、あれはまだ寒い冬が終わっていないかなってくらいの時期だったと思う。羽田空港に着いたものの、集合場所が明記されていないからどうしたらいいのかわからない。正直、修学旅行にでもいくみたいに思っていたし、引率の先生がいるのとおんなじ感じかなと思っていた。でも飛行機の時間は決まってるから乗らないわけにはいかない。そんなこんなで乗り込んだ乗内には、おそらく同世代であろうメガネをかける真面目そうな青年が、指定された席に座ってちょっとした学術書を読んでいた。その時僕は「休日のこの時間に一人で座っているなんてことが起こるとしたら、それは乗って良いのかわからない飛行機にのる時くらいなんじゃないか」と思った。乗内アナウンスが「高木さん」を呼んでいる中で、僕は「彼がBタームの優勝に導いたな」と思った。それが僕が彼を知る初めてのエピソードだった。


でもそんな彼と真面目に話したのは就活が終わった6月中旬のことで、そのときだってまだ彼のことをよくわかっていなかった。「うわこいつすごいな」って思うようになったのはつい最近のことだ。そう思うようになったのも、彼が何を考え、何に悩み、どういう意志決定をしたのかを追体験したからに他ならない。

正直にいうと僕は思考停止していた。というより面倒だと感じた。なぜなぜ思考は5回繰り返せ!とか言われているけど、どうして5回なのか、4回ではダメなのか?本当にブレイクダウン出来ているのか?そこちょっと同語反復になっていないか?・・・的な疑問に追いやられてよくわからなくなる。膨大な情報の中で確実性の高い変数の選択をしていく作業、どの変数を切り落とすか、どうやって切り分けて思考するか。就活っていうのは大変な作業だ。

「結局それって決めの問題じゃん。決めたらそれでいいじゃん。」

当時の僕は少なくともそう思っていた。勿論今はそんなこと口が裂けても言えない。せめてもの懺悔として書いていこうと思う。

全くもって、自分の無知無能に気づくことの精神的な負荷はない。

 

 

就活をしている学生諸君。はっきりいって、僕達が得られる情報量なんていうのは、ほとんどない。あるように見えるだけだよ。

でもそのような状況下においても、まるでホームズのように推論を辿ってひとつの仮説に収束させることが出来る。するかしないかは別としても、そうやって僕たちは限りある情報から推論を組み、ある仮説を導き出さなければならないのだ。

「この会社は自分にとって入社するに値する会社なのだろうか?」

 

勿論この仮説立証には、ある隠された前提が存在している。
「就職することは間違っていない」
という前提だ。
僕はこの前提をある程度許容した上で仮説を立てることにした。つまり、この変数は切り捨てて考えないと思考が煩雑になる。こういう感じで思考を前に進めていく必要がある。


「この会社は自分にとって入社するに値する会社なのだろうか?」
さて、この問いに答える為にはまず、何がわかればわかるのかを考える必要がある。
給与?職種?立地?成長速度?従業員満足度?人柄の良さ?

こういった条件は就職先を決めるにあたって必要とされているかもしれないが、退職するときの理由にはあまりならないのではないかと思った。
つまりもっとディープで根深い問題が孕んでいて、僕たちはその絶望を目の当たりにするから退職するのではないか。そんな仮説を立てた。もちろん、希望と勇気を胸に掲げている人がそんなことを考える必要はない。ただ僕には、「どうしてこんなに優秀な彼が選考を辞退したのか」という事実が僕の心象にあまりにも大きく、根強く残っていたし、「どうして先輩方は1年以内に辞めていくのか」という事実が僕にも起こりうる可能性があると考える必要があったのだ。さもなくば、入社後、期待値のギャップに苦しんで期待通りにいかない可能性が出るからだ。

僕はよく「事実と解釈は切り分けて考えないとマジでミスる」といっている。

例えばこんな愚痴はよく聞く。「まじ事業推進スピード遅いつらたん」
この情報を聞いて安易に意志決定してはいけない「あの会社には行かないでおこう・・・」って意志決定をするのは、結局のところ自分でなにも決めることが出来ていない。この情報からはまだ何一つとして得られるものがない。
事業推進とは何を指しているのか?予算承認プロセスなのか、施策をひとつ打つのにかかる承認なのか、エンジニアの工数が足りないのか、ミーティングがいちいち多いのか、
事業推進スピードが早い状態はどういう状態なのか?これは僕達にとって早い遅いは重要な問題なのか?重要だとしたら、改善は可能なのか?改善できないとしたらどうしてなのか?改善できないとしたらどう対処すべきなのか?

みたいな風に考えないことには、解釈から事実に到達することが出来ない。
一般的に、社員さんの話を聞くとか、OB訪問をするとか、そういうときに話されることの8割は解釈の話をしていると思ったほうが良いと思う。その解釈に至った背景や、その事実が起きてしまう理由について構造的に把握した上で、対処法が「この会社に入社しない」なのであればそうすべきだし、対処可能もしくは問題としないと決めたのであればもう少し話を聞けばいいと思う。

もう一つ、
「感情と論理は切り分けて考えないとヤバイ」
もよく言っている。これは事実と解釈と似ているところではあるんだけど、例えば
A君「あいつマジで優秀だよな」って言ったときに B君「でもアイツ自分のやりたいことしかやらないじゃん」
みたいな会話のとき。単純化して話しているけど、ここで容易に「確かにそうかも・・・あいつ大したことないな・・・」って思ってはいけない。
こういう時はB君の感情的な要因がそう言わせている可能性がある。
これは例えば「僕商社に行こうと思ってるんです・・・」って人事に相談したら「商社はやめとけ」って言われる理屈と同じで、こういう感情を出発点とした論理は至る所に蔓延している。僕たちは人間の負の感情という地雷原をなんとかして避け続けるか、踏み散らかしても死なないマッスルを手にするか、そもそも通らないか、空を飛ぶかして目的地に到達しなければならない。

これらが僕の思う、「僕達が得られる情報なんてほとんどない」ことの理由だ。

企業は学生が欲しい。学生にきてもらう為に様々な工夫をする。ときには思ってもいないことや、事実とは相反することをいうこともある。僕たちはそういった無自覚の悪意を避けながら、僕達にとって良いとされる何かを掴みにいく必要がある。

 

もう一つ、僕達が犯している認知のエラーは
自分にとっていい会社=「自分が思っている通りに働けること」

ということなのではないかと思う。もし自分が思っている通りの環境で思っている通りの仕事で思っている通りのやりたくない仕事は誰かがやってくれるとして、果たしてそのような状況は本当に起こりうるのか?起こりうるとしたらどのようにして起こるのか?起こらないとしたら、何を許容し、何を曲げないでいる必要があるのか?
そういう風に考えていくと、悲しいかな、そもそも「自分の思っている通りにはならない」らしいことが徐々にわかる。

となると、作業としてすべきなのは
何が譲れなくて、何は許容できるのか

を明確にすること、となる。
その実現の為に必要な情報は何で、必要な行動はなにか。
ということを考えていく必要がある。

 

抽象的に話せる内容はどうやらここまでらしい。

僕はずっと自由になりたかった。でも僕は自由というものがどういうものか、よくわかっていない。自由という幻想を抱きながら苦悩しているだけかもしれない。
どうして自由になりたいんだろう?それはきっと何かしら窮屈な思いをしているからじゃないか。
「そんなこといったらみんなもしてるでしょ?窮屈な思い」

 

 

社会的通念が僕の思想を毒していることに気づいてから、僕は何を信じたら良いのかよくわからなくなった。
住みたい街ランキング見て、「吉祥寺に住んじゃえ♡」みたいなことは僕にはもう言えない。言えたほうが幸せかもしれないし、言えないことが不幸かもしれない。でも、そういうことなのだ。窮屈というのは、自分の意志が何かによって阻害していると感じるときのことを指すのではないか。そんなことを言ってしまったら、僕はいつも窮屈な思いをしている。自由に生きたい。でも自由という言葉の意味がわからない。もしかしたら僕も「自分の思い通りに生きる人生」に幻想を抱いているのかもしれない。それを自由と呼んでいるのだとしたら、それは暴力的だ。僕はどこかで自分のことを特別な人間だと思っていて、僕が特別な人間であることの理由として「思い通りに生きてやる」と思っているのかもしれない。そうだとしたら、これほど愚かな行為はないのだろう。

 

「自由の代償は高いぜ」
あるゲームキャラクターは死に際にそのようなことを言った。

芸術こそが社会的自由を唯一許しているように感じることがある。10代の僕には気づくことができなかった。今になってわかる。ゲームの描くシナリオと社会の構造が酷似している。少しずつわかってくる。彼らは出来る限り婉曲的に、僕達に警鐘を鳴らしているように見え始める。答えは教えてくれない。ただそこには、僕達が避けては通れない困難と、その処方箋が示されている。

 

彼も同じ仮説を導いたのだろうか。論理的に帰結した僕の仮説を時には誰かに聞いてもらいたい。

 

 

 

 

無知からの解放と人類の未来について

信じていた人に信じてもらえていないことっていうのは悲しいことのように思う。
でも、大抵の場合において、信じている人に猜疑心を向けることというのは、信じていない人には疑いを向けることがないという点において、人を信じるというのはどうやら同時に疑いを持つということでもあるのかもしれないなと思うようになった。

 

そんな時、僕たちはどうしたらいいのだろうか。
僕の答えは「文章を書く」ということだった。

だから僕は今から文章を書こうと思う。なんのとりとめもない文章を書いてみようと思う。そこにどんな意味が込められることになるのかはわからない。今僕が純粋に言葉にしたいものを、意識してか意識しないでかを抜きにしたときにできる、感情の取り出しに挑戦してみたい。今の僕はどうしようもなく伝えたいことがある気がするし、しかし一方でどんなことを誰かに伝えたとしても全くもって意味がないんじゃないかと思うこともある。真昼のジョナサンで「よし今から文章を書いてやろう」と意気込んでみたけど、頭の中で紡いでいる文章をいざ文章に書き下ろしてみようとすると、途端にその手が止まる。道中、頭の中で考えていた時には革命的に思えた知的生産物も、文章が描くストーリーラインに沿わない限り、なにも響くことがないように思う。こうした知的生産物はCoccoが言ったような「私のうんち」と大体同じで、ずっと溜めておくことができない。どこかのタイミングを見計らって、出来る限り清潔感があって、ちゃんとトイレットペーパーが補充されているところでひっそりと排泄しない限り、病を患うんだろう。

Coccoは本当に秀逸だなって思う。確かに、僕の生産物は誰かにとってはうんちと同じか同じくらいだと思う。実を言えば、僕は間違いなく「なにか良いことを書いてやろう!」とおもって文章を書いているはずなのだ。なんだけどそこで生み出されたのは誰かにとっては僕のうんちでしかない。悲しい。でも仕方ない。だから僕は、牛の糞の化石が歴史的な価値をもたらすことと同じように、誰かに理解してもらえることで、もしかしたら世紀の大発見になるかもしれないことをどこかで期待することにしている。あるいは文章を読んだ誰かの人生にパラダイムシフトを起こすだけの衝撃を与えてみたい。でもやっぱり、専門家でない限り、牛の糞はただの牛の糞だと思う。

今日はホッブズが描いた理想社会が世紀の大発見と同じだった。今の僕たちが「政治経済学部ってなにが学べるんだろうね」などといってしこたま考えた結果「なんかホッブズが言ってたことと同じになったね」っていうようになって初めて価値が出るのと同じように、今はよくわからないけど100年後200年後になったらすげー大切なことだったみたいなことを僕はどうにかして言えるようになりたい。「やっぱホッブズつえーわ」みたいなことを200年後の日本で言われたい。特に12歳とかこれから中学生になる途中で「進撃の巨人・・・」とかやっちゃう年頃の君に「あいつやっぱつえーわ」って言われるようになれたらいい。でもホッブズのようなことが言えるようになるにはそれなり努力が必要だと思う。ホッブズが当時いっていたことを言えるようになるにはそれなりの努力が必要になると思う。ただ、ホッブズ現代社会にもたらしたインパクトを真似しようとすると、それなりなんかの努力じゃ到底足りない。それどころか、どこに生まれるかからやり直さないと難しい。となると、僕の生まれた場というのは、果たして僕の意志によって選択されただろうかということが気になってくる。2年前の僕は「僕だったらある程度恵まれた国なんだけど、恵まれすぎていない環境に身をおくことで自分の精神を高めたいと思うだろうな」と思った。そして僕は実際に"そういう"環境に生まれた。

僕は単純に思想家になりたいというわけじゃない。やっぱりそうだよねって思うことではあったんだけど、歴史を俯瞰してみる努力を始めてから、どうやらこの人類というのは、あるひとつの共通したゴールに向けて、血の絶えない壮絶な試行錯誤を繰り返しているらしいことがわかってきた。そしてその共通のゴールがどのようなものなのかもなんとなく認識するようになってきた。これは先人のおかげだ。
では今の時代というのはどういう時代なんだろう?っていうのを考えていくと面白いことがわかってくる。僕の見えている矮小な世界観を吐露するつもりでいるのだけど、それはケツの穴を見せるのと同じくらい、僕の底が知れる恥ずかしさがあるので、出来る限り遠回りして書きたい。経験したことはないが(多分)、排泄物を見られることよりも、ケツの穴を見られることの方がよほど恥ずかしいものなのだろう。

 

最近は特に、エマニュエルトッドに関心を寄せるようになった。いくら先人が偉大とはいえ、現代における知性の最高峰は相対的に存在するし、ヘーゲルがいった弁証法を僕は支持しているので、思想の歴史的反駁の流れを想定すると、常に現代の最先端で言われていることが最も進歩的であるように感じられるはずだ。これは先のホッブズの話と矛盾しているように聞こえるかもしれないが、実際にはこちらの方が実現頻度が高い。そして僕はなんとなく、現存する知性の最高峰はトッド先生なんじゃないかなって思うようになった。これは勿論、僕の知る限りでしかないのだけど。
というわけでトッドの言ったことに触れたい。なんでトッドに触れることができたかというと、それはひとつには尊敬する先輩のうちの一人の方が書かれていた文章の中でトッドの言ったことが引用されていたから。
「なぜ進学という道を選んだかというと、エマニュエル・トッドの言葉を借りるならば『もしかしたら存在するかもしれない治療薬を探すために、まずは発熱の元である病気の診断書』を書こうとしてみたいからです。」

もう一つは、大学の講義で受けている比較社会学の単位を取るためにレポートを提出する必要があったからだった。社会統合の特徴をそれぞれの地域性の違いに言及した上で、さらに「講義内容に即して」論述しなければならなかった。講義の半分くらいはまともに聞いていない中でインターネットをフル活用しながらたどり着いた結論が、講義内容の結論とほぼ同じだったことと、その結論を語っていたのがトッド先生だったことが僕には衝撃的に思えた。どうにかしてこのことはレポートに書かなくてはならないと駆り立てられる気持ちになった。そうして2000字程度の文章を提出すれば単位が来る所、3倍以上の文章を書いて提出することにしたのだった。

トッドの言ってることは乱暴にいえば、その人の家庭環境がどういうものかによってその人の価値観が形成されるよねっていうのを人類学的な普遍性として法則を抜き出したみたいなもので、衝撃的だった。親が厳しかったらその子供は規律を重んじる思想を信仰しやすいといったように。

イデオロギーの領野は、どこでも家族システムを知的な形式に転写したものであり、基礎的な人間関係を統御している根本的な価値——例えば自由、平等、そしてその反対物——を社会的レベルに転換したものである。」

 

「文化現象の優位性を明らかにし、ある種の経済政策の幻想性、もしくは有害性を明示したとしても、それは決して地球の未来に悲観的な姿勢をとることを意味しない。反対である。リズムの相違はあるとはいえ、識字率の上昇は普遍的な現象なのである。現在の統計学的なカーブによれば、あまり遠くない将来、完全に識字化された世界、つまり無知から解放された世界をかいま見ることができるのである。もちろんそのような状況は、識字化と完全な経済的テイクオフとの間にかなりの時間が必要であるとして

も、もっとも緊急を要す人口問題と、経済問題の解決につながるものであろう。世界の歴史で特権的な瞬間となるこの未来の瞬間は、文字の発明から人類全体がそれを習得するまでの数千年に及ぶ長期の学習の終了を意味する。それは人類の長い幼少期の終わりを印すものである。」

彼が⾔うように、人間の文明の発展は経済学で語られることが非常に多いが、それは一面的な見方でしかないし、経済が発展するという現象は、あくまで文化的な発展の後に結果として起きるものなのだ、というのが、人口学や人類学を研究している彼だからこそ出る発想であって、ユニークさがある。そしてデータを元に実証することを試みている点で、少なくともウェーバーの、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」よりはより適切に説明しているように感じる。このユニークさと納得感がとてもおもしろくて好きなのだけど、特に僕個人がとても好きなフレーズは
世界の歴史で特権的な瞬間となるこの未来の瞬間は、文字の発明から人類全体がそれを習得するまでの数千年に及ぶ長期の学習の終了を意味する。それは人類の長い幼少期の終わりを印すものである
というフレーズで、告白してしまうと、これを伝えたいが為に僕は1000字近くも遠回りしたことになる。

トッドがいうには、人類にとって文化的発展の第一フェーズは識字にあるという。どういうわけか、家族システムと識字率の向上は大きな相関性を占める。
次に、女性の識字率が向上すると晩婚化が生じる。晩婚化が生じると出生率の低下が起こる。識字率の向上を出生率の低下の大きく2つが、近代化の要因とトッドは言う。(そう言われて僕はやっぱりグーテンベルクの活字技術が宗教革命や産業革命をもたらした可能性を支持したいのだけど話がそれるのでおわり)

識字率の向上が何故近代化の要因になるかといったら、それに伴って労働効率が上がるからなのだが、それは確かに、知性の獲得によって労働生産性が上がることは僕達も実体験として納得がいく。

そして、この識字率の向上こそが無知からの解放であり、人類の長い幼少期の終わりを印すのだ。

無知からの解放というのは、自由を享受する上で非常に重要であるように思う。
文字を読み書きする行為を通して、自分で考えることを養うことができる。自分で考えることができるようになれば、権力者が扇動する際には一度立ち止まって考えることができるようになるし、相手の立場に立って考えることが出来るようになれば、意見対立も民族対立も起きるようにはならない。友達が卒論の中で「民主政治は大衆が自ら学ぶことによってのみ、専制君主などの他のどの体制よりもベターなのである」といっていたが、もしも本当に、僕達大衆に知性が備わったとしたらデモクラシー革命は終焉を迎えるのかもしれないなと思う。
悲しいのは、現状最善解の民主主義(僕達もこの制度の中で暮らしているのだがあまり実感がないのは日本人の政治関心の薄さにあるのは置いておいて)がBrexitやトランプ大統領の当選によって欠陥扱いされ始めているということだったりするのだが、こうした知的エリートの誤謬が今までの歴史の中でより大きな間違いを犯すことになってしまったことを鑑みると、やっぱりここは一度「民主主義ってどういう制度で、どういう風に扱うとなにができちゃうんだっけ?」と考えるところから立ち戻ってみるとなにか得られることがあるんじゃないかと思ってみたりする。知性の獲得というのはそういうことだと思う。もしもみんなが同じように、一度立ち止まってみることが出来たら、きっと僕たちは国家や思想から自立することができるのではないか。そこでようやく僕たちは自由を得ることができるのではないかと信じるようになった。

面白いのは、僕にとってそこが人類のターミナルだと思っていた場所が、トッドに言わせると幼少期の終焉となっている点だった。つまり人類には次のフェーズが待ち受けているらしい。僕にはそこがどうしても描けない。何が起きるのか。SF小説やSF映画にあるような話なのか、あるいはオカルトの世界観であるのか、人類が肉体を捨て、地球の安全保障役になる日が来るとするならば、それはヘブライ人が神様と接触していたと同じ構図を人類がたどることにでもなるのだろうか。人類に青年期があるとするならば、僕はそこを具体化していきたい。

 

さて、ここで思考を止めてしまっては勿体無い。
次に考えなくてはならないのは、識字率の向上をどうやって世界的に実現するか、を考えることになる。のだが、これは残念ながら、もう2段階進んでいる。
第一段階はパーソナルコンピューターの普及
スティーブ・ジョブズビルゲイツが大まかにその両翼となっている。
第二段階が検索エンジンの普及
ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンが面白い研究をしてたら実現しちゃった的な感じ。

もしも情報非対称性を減らすことが世界にとって有益であると彼らがわかってやっていたとするならば、それを実現してしまった彼らは天才中の天才であるし、彼らは実際にそれを実現したから天才中の天才になったのかもしれない。(もうやだ)

現状によると、第三段階がこれから待ち受けているらしい、ということがわかる。様々な因子があるとはいえ、現在人類の課題となっている点はおそらく、これらのデバイスを適切に扱うことが出来ない点にある。

まず第一に、適切な情報を公開する能力が人間にはないという点。構造的に、インターネット上に公開されている文面に信憑性を求めることは難しい。これは公共事業ではなくビジネスだからだというのも要因として大きな影響がある。

第二に、情報を取捨選択する技術がどうやら乏しい。これは僕にも言えることだが、wikiに書いてあることを信じるなと言われても、知らない段階でその情報が正しいかどうかを判断することができない以上、まずはどう解釈されているかを知ることしかできない。

第三に、意見交換の場として扱うリテラシーが低い。
これは匿名性のたどる道だが、2chTwitterが炎上することのように、インターネットによって人間の負の感情が表面化する。この問題の解決には、人類に服を着る文化が出来たのと同じように文化発展をすることがないと難しいように思う。Twitterなどをみていると、日本社会においては特に、社会の構造的暴力に苦しみながら、また、自分の境遇を何かのせいにしたいと思いながら、日々我慢を強いられているっぽいことがわかってくる。みんな主役になりたかった。みんなアカレンジャーになりたかった。でも、みんながアカレンジャーになることはできない。キレンジャーになる必要がある人もいれば、アカレンジャーたちを支える博士になる必要がある人もいる。ときには敵役を演じなければならないかもしれない。夢が幻想のまま終わることは確かに健全ではないが、現実である。

 

また、スマホなどのようなデバイスが供給されたら途端に人類が賢者になる、といったことも起きなかった。これは使用者のリテラシーとともに、ニーズが多様である点が大きそうだ(そもそもiPhoneは電話だ)
この多様性は尊重されるべきだと思う。しかし一方で、能動的に、主体的に、人類は適切な情報にアクセスしなければならないと思う。という点において、情報の非対称性をなくすという目的がもしあったとしてもなかったとしても、効果がいまひとつであることは認めなければならないらしい。

 

僕が支持したい時代の系譜は、人類が次に到達する段階を加速させるところにある。
それは出来る限り確からしさが保障された情報にアクセスされ続けることができる状態になることであって、また、その情報が全人類的に知られている状態となることである。となると、究極の知性が個人のデバイス化もしくは一体化されることによって、人類が無知から解放されることを実現することになる。VR技術が現段階で実現可能性の高い次のデバイスのように感じられるが、あくまでこれらの技術は空間やコミュニケーションの拡張に留まると考えれば、次の覇権を担うところまでには至らないのではないかと思うし、しかし一方で五感の拡張という立場に立った時、人間の電脳化が終着点なため、記憶の移植は容易に行えるようになる点を踏まえると、VRが覇権を取るかもしれない。これは自分自身の無知によるものだが、現段階と電脳化の段階にはいくつかのステップが存在しているらしいことがわかる。今の僕の限界はここで、僕のケツの穴はここにある。

 

 

本当のところを言えば、僕が本当に関心を示していたのは資本主義VS社会主義の構図であり、特にこの資本主義という概念に対して怒りの鉄拳を加えてやりたかった。反駁の嵐を叩き込むことによって、どうにかしてこいつを倒してやろうと企てていたのだ。どうしてそう思ったかといったら僕の出自に関係する。そもそも大学受験をしようと思った理由というのは「この腐った社会で生きるためにはどうやら一旦社会のルールに従わないといけないらしい」ことがわかったからで、浪人中に「みんなが平等に暮らせる世界ないかな」って思っていたらマルクスが「やっほー呼んだ?」と言ってきたのであった。そんな平等主義の思想とマルクス主義が程よく共鳴して、資本主義批判をするようになった。だから僕が政治経済学部にいるのは偶然ではなく、僕の学問はマルクスによって開かれたと言ってよい。ただ、勉強していくうちにどうやら僕のこの出自に拘ることはちょっと器小さくないかということになったので、世界を救うため的なニュアンスに変更しようとしている(いい感じのフレーズがほしい)

そういえば、アジカンのゴッチが「出来れば世界を僕は塗り替えたい 戦争をなくすようなたいそれたことじゃない だけどちょっとそれもあるよな」って歌っていたように思うのだけど、多分同じことを僕も思っているらしい。青臭くて、だけどこの青臭さを大切にしたいと思う感覚は、僕の大学生活にルーツがあるように思う。余談だけど。

というわけで最近の僕は歪みをもたらすものだと思った自由至上主義の批判をひたすらしてやろうと思っていた。とくにハイエクを倒してやろうと思ったけどハイエクが強かった。というより、思想の根幹は割と似通っているものだったんだってことに気づいた。ハイエクは隷属の道から入ったのだけど、ファシズム批判が強すぎてもうこれはきついわってなってから嫌いだったのだけど、ハイエクの解説を読んでいくうちに「あれどうやらこのおっちゃんも知性の限界について言及しているし、致命的な思い上がり(まだ読んでない)っていってるし、意外とプラグマティカルだな・・」ってなったのが大きい。自由至上主義者はあかんやろっていう偏見がハイエクのおっちゃんを理解するのに妨げになっていたことは、自分のものの見方の一面性を疑い続ける契機になったし、コレは実社会でめっちゃんこ起きてることだなと思うようになった。

さてそうやってがむしゃらに考えてみていたのだけど、結論としては、まず人類がしなければならないのは社会的富の総生産量を増やし続けることとなったため、あえなくこの主義思想の前に撃沈し、僕の企ては失敗することとなった。

この結論に至った背景はまだハイエクを十分に理解していないよねっていう点からも、またいつかどこかで書くことにするとしても、まだこの結論を反駁する余地はあるはずだと思っている。決して諦めたわけではない。資本主義も社会主義も本質的には生産様式であることを踏まえると、富の集中が技術革新もたらしているがしかし一方で歪みを許容しないといけないこの資本主義を倒すためには資本主義に取って代わる新しい生産様式の制度設計する必要があるということになる。しかし、これはちょっと骨が折れる(と言うより僕の力ではまー無理だし、出来てしまったらノーベル賞もの)

理想を言えば、人類が公益の最大化を第一義的に目指すことが出来れば資本主義でなくても経済成長はできるよね。という話ではあるのだけど、資本主義の利己性を経済成長の原動力にしている現在に取って代わって利他性を原動力にする為にどうしたらいいかが全く思いつかない。それこそ知性の獲得以外に方法がないように思う。逆説的なのだけど、人類が公益の最大化を美徳とした社会が実現されていたら、それはもうすでにハッピーな社会なのだと思っているので、ハッピーな社会を実現する過程で実現されることは絶対にない。(こんな単純なロジックに気づかなかった半年前の僕)

 

そういうわけで僕の暫定解は
「社会的富の総生産量をテクノロジーによって増やしましょう」
ということになったのだが、これが僕達の生きる現代の使命のようなものなのだなと納得してみようかな、という気になったため、多分、思想家になるのとはまた違うのだろうということになった。勿論、思想家ではあるのだけど、目指すところがホッブズではなく、フォードとか、スティーブ・ジョブズとかその辺の人たちだったらしいということになった。ホッブズになることの難度を踏まえても、やっぱ結構難しい。それにやっぱりこうした反論を自分の中で生み出してしまう。これはトッドを教えてくれた先輩とのラインなのだけど、

「社会的富の生産量って、とりあえず個人が放置してても、社会の流れ的にこのまま増え続けそうだとは思わない?」

 

それに対して僕はこう答えた。


「その通りだと思うし、実際にそうだと思います。

僕個人がなにをどうこうしたとしても、今言っているレベルの例えばそれこそ資本主義から社会主義に制度変更しましょうっていうのは起こせないと思ってます。人生100回やりなおして2回成功するかしないかくらいな気がします笑
僕もその点において自覚的でありたいと思います。でもそれはややもすると、どこでなにをしていても同じだから無意味だよねってことになってしまうんですよね。諦念でもありますが。
でもどこでなにをしていたとしても、なにかの為に奔走し続けるのは意味のあることであってほしい。
例えば売れないバンドマンがジョンレノンになることは極たまにあるし、ヤクルトを応援していた村上春樹がいきなり小説を書こうと思い立ったら現代日本小説家の最高峰になっちゃいましたみたいなことも起こり得ます。
なにをどこでやっていても、なにかが起きる可能性があって、その可能性が存在する限り、自分はどこかでなにかをしていないといけないことはわかっているつもりです。」

 

 

客観的にこうだよねって言えるようになったものの、しかし自分の人生とその答えを結びつけることはとても難しい。だけど、僕が何故この暫定解を構築するのに必死だったかと言われれば、僕達がなぜそれをするのかをはっきりと、そしてありありと語る為に必要不可欠なものであると信じていたからだと思う。そうした絶対にブレない信念を自分の中に拠り所として用意しておかない限り、僕は自分のやっていることに疑いの目を向けてしまうことは明らかだと感じられた。だから、ぼくは就職する前にどうしてもその盤石な思想基盤を築いておく必要があった。それは就職するという不自由な環境の中で自由を享受するために必要な希望であった。方法はいくらでもある。ジョンレノンを目指してもいいし、村上春樹を目指してもいい。マルコムXも良いかもしれないし、麻原彰晃もワンチャンあるかもしれない。その中で暫定どれを取るのが誰かにとって、また、自分にとって最善で最短か、というのを、自分という人間に何ができるのか、という点から考えられるようになったことを示している。

ただ、就職するという結論は換えがたかった。それは自分の意志の弱さがそうさせていることはわかっている。でもそうした希望の中に生きることを決意してから、僕はやっと、ビジネスとはなにかという問いに進んでいくことが出来るようになった。
出来ればなるべく、ビジネスの話をするときは、この思想基盤の前提の上で話したい。そうでない限り、ビジネスのお金儲けにつきまとうイメージを払拭することが出来ない。でも、多分もう大丈夫なのだと思う。

 

 

先日ある先輩にこんなことを言われた。

「おれたちはお前の名前でお前のことを固有名詞としてイメージすることができる。お前というコンピテンシーは確かに、おれたちの共通言語として語ることができる。でもおれには俺という人間がお前みたいに形として存在していないから、何かを手に入れる必要があった。だから俺は今VRの業界にいるんだよね。」

 

僕にも実体なんてないと思う。でも最近思うのは、
中身のある人間というのは、いつだって自己を超越した利他心を原動力をしているような気がしているということで、出来れば僕はそうした生を全うしたい。
僕が今持っている思想基盤については、また次の機会にでも書けたら良いと思う。