世界の輪郭に溶ける

私という概念をいかに物語り、私を捨象していくか

自分が描いているレールの行方は思っているよりもあてにならない

2016年は自分の見えている世界の限界に絶望して、どうしたらいいかわからなくなった年だった。

人間が生み出した言葉というコミュニケーションツールは不完全であり、僕たちはこの不完全なコミュニケーションを続けているからこそ、おおよそ人間関係に問題が起きたり、悩んだりしているのだと。世界を構築している最小単位は言語であり、言語によって生まれた合意形成であり、合意形成によって生み出された人力であった。これが今の僕たちの社会を豊かにしているモノ、具体的にいうと家やビル、道路や線路を敷設している。iPhoneもそうかもしれない。アイデアを持つ人だけで商品を生み出すことはできず、そこには必ず役割を分担し、組織総出で動かすパワーがなくてはならない。その意味において、合意形成は社会を構築しており、その最小単位はひとつひとつの言葉なのだと。
合意形成は時に暴力が用いられることもあった。現代はもうちょっとマシだが、本質はあまり変わっていない。合意形成は高尚な文脈による、言葉を選ばずにいうと"政治的"な合意形成が主役であり、それは決める者と決めることを扇動される者の見えない長く深い階層が横たわっていることを意味しているのかもしれない。それが悪いことであるかどうかはおいておいて、そのような解釈は存在しうるだろう。つまり、僕はそういう類のバイアスでもって、社会を眺めている。

 

 

2017年は、それでもブレない自分の芯を持ちたかった。なんだけど、ブレない軸を決めるということは、その時点で「もしかしたらなれたかもしれない自分の未来」を捨てることを意味するんだと思った。僕はそのことに後髪を引かれながら生きていた。
そこには少なからぬ痛みが伴った。海辺のカフカで言われたような砂嵐を耐え続ける期間があった。この砂漠の社会で巻き起こる砂嵐に埋没していってしまう人もいるかもしれない。それほどに、かなりキツイ体験だった。
僕は、この激動の1年間に思う「ねばならない」によって、思っている「ねばならない」ほどには「ねばならない」わけではないことを知った。

というより、おそらくだけど、「自分の思うこうなっておいたほうがよい」あるいは人のいう「できたほうがいい」ことは、大抵あてにならない。なぜならそれは、環境に大きく依存してしまうからだ。

 

僕はいまUXプランナーという職務に就いているが、職務がざっくり決まった当時の僕はUXっていう言葉のニュアンスを履き違えていたと思う。「それは自分が向いていることのなのか、自分がやるべきことなのか」をあまり理解していなかったし、それ自体は狭義なビジュアルデザインを指していると思っていた。でも今僕が担当している役割は、ビジネス的だけど、それよりももっと概念的な仕事であることを知ったし、その意味ではもしかしたら今社内に存在している仕事の中でも伸び率が高く、向いているのかもしれない。特にUXには専門的な学問分野が存在しているわけではない(現状の日本では)し、エンジニアリングに比べて専門的に尖っているわけでもないから、未経験の僕が「ITサービス業」に開発側として携わるとしたら、ポジションとして都合が良かったという意味もあるだろう。

そもそも、僕たちは社会的に定義されたスキルの概要をあまりよく理解していない。しかも、それらを理解するのは割と難しい。だから見かけ上の「フロントエンドは割とできた方がいい」的なこととか、そういうものはたしかにそうなんだけど、「そんなこといったらおよそスキルを冠する定義上のそれぞれは全て出来たほうが良いと言ってしまえるのでは?」という話になってしまう。

ということは、僕たちができることとというのは、「環境による必要性に応じて身につけた何かを応用していくことしかできない」のではないか、という話になっていくか、もしくは、「必要性を要する環境を自ら構築するか」のどちらかでしかないかもしれない。

 

環境による必要性に応じて身につけるスキルは学習効率が良い。大抵この手のスキルは必要性のハードルが高いからこそ、自分にとって本当に身についているものなのかどうかわからない。しかも相対比較によって自分の立場が決まるとなると、「自分ってまだまだだなぁ」と思わされる。だから後になって、「あー自分はここまで登ったんだ」って気づくものなのだと思う。山登りに集中している時に背後の景色を見ようとは思わないのと同じように。

それと同時に、型があるとその後の成長角度を上げられる。なまじ我流で通用してしまうということは、パワーだけでホームランがでるが、手首をこねるクセによって、変化球に対応できないとか(かなり適当に言ってるけど)右足でシュートが打てないと大事な局面で点が取れないとか、そういうことにつながってしまう。
一年目がまず学習にコミットすることを求められるのはそういうことなのだと思う。我流で短期的に出せる成果はあるが、その成果にあぐらをかくといずれ挫折してしまい、そこで躍起になってしまうともう最悪のスパイラルになる。

僕たち新人は、自分が出来るということにあまり自信を持ちすぎると大抵どこかでコケるように出来ているのかもしれない。勿論、そうでない人もいると思うけど、あくまで一般論として。

 

後者の機会創出は、前者のような、学習の型が存在していないというリスクがある。だからこそ、自分自身がこの守破離を堅実に律することが必要になる。当然、そうするのもよいかもしれないが、もし世界に突き抜けたいのであれば、多分だけど、後者を選択したほうが良いのかもしれない。その世界にレールを敷いてくれる人は存在しないし、自分で敷かなくてはならないのかもしれない。でも、多分世の中に存在しない価値や俗に言われるイノベーションといわれるものは、そういうあいまいさや不確実さに耐えた集合体が生み出しているのではないかと僕は思う。もしかしたらうまくいかないかもしれない。というより、うまくいかないものだと思う。

こうして環境は僕の意志とは無関係に変動し続ける。一発留年してしまったら、今のこの状況が生まれてなかったように。


だからこそ、この後者の選択には覚悟が必要であり、その覚悟は明確な目的と強い意志が必要になる。僕は今、2016年の自分がそのための助走をしていたことを知った。自分が今何をしているのかということは、今その時点ではよくわからず、後になってここにつながったって言えるものなのはどうやら本当らしい。

 

「開発がわからないと開発の人が集まらないんじゃないか。だから自分ができるようになるんだ」って思って動いていることは僕にとって、あてにならないことだった。

 

 

 

ただひとつだけ、本当にあてになったことがある。

 

それは、こうして自分と向き合い続けることと、それによって自分の器を広げ続けられたこと。その一つ一つの価値観が、僕の血肉となって生きていくこと。

開発の為の開発スキルというような打算的な思惑から湧き出た気持ちよりも役に立つものは、僕が僕として生きる理由の開発だった。

 

僕は今、なれたかもしれない未来の可能性に生きる自分と別れを告げ、僕が僕として生きる理由と共に生きることを選択している。

 

 

 

 

今回の衆議院選挙に対して思うこと

衆議院議員選挙に行ってきた。僕はお世辞にも政治に詳しいというほどのものではない。でもそれでも政治については出来る限り自分が納得のいく投票を行いたい。そうでなければ、投票したくてもできないだろう。本音を言ってしまえば、『どの政党を支持すればいいのか、もし自分の意志に反した政党に投票してしまっているのであれば、それよりは投票しないほうがいくらかましだろう。』そういうことをしげしげと考えていた。とはいいながら、今回の選挙の争点は明らかに見えたし、歴史的な局面に政治参加しないなんてもったいなさすぎる。そういう思いから、悪天候の中にも関わらず母校へ投票しにいくことにした。

予め断っておきたいのだが、僕はまだ、どの政党を支持すべきかがわかっていない。おそらく有権者のほとんどが僕と同じような状況にあるはずだ。あるいはそうでない人もいるかもしれない。勿論、わかることに意義があるのかどうかはわからない。集合知が最も確度の高い正解とする言説も勿論存在する。国民が利己的な判断を下すことによって世論を捉えるということもあろう。
時々思うのは、人間社会における真実というものは常に存在していないものなのではないかということ。
特に、誰がどういう意図で動いているのか、何がどういう思惑で動いているのかというのは仮説は立てど、これが当時の真実なのであると言い切ることはできない。
例えば「なぜ日本は敗戦濃厚な最中で戦争に踏み切ったのか」その通説を問い直す営みは今日の意味上における「歴史修正主義」とされてしまうのか。今回の選挙は憲法改正が大きな争点でありながら、大きな問いとして立てられていたのは「立憲主義とはなにか、民主主義とはなにか」という問い直しだったのではないか。だとしたらその問い直しは「歴史修正的」なのだろうか。それとも「本質的な社会の在り方に対する健全な再考なのだろうか」

 

ぶっちゃけてしまえば改憲が行わなわれるのは明らかだった。というより、今回の衆議院の解散は「改憲を行うために行われたもの」と捉える方が適切だとさえ思う。
それ以外の公約に関しては政治パフォーマンスのネタでしかなく(言い過ぎだけど)教育費用の拡充や原発再稼働、消費税問題というのは悪く言えば「国民の感情論を焚き付けるテーマだから扱われているに過ぎない」と言ってしまったほうが良い。


例えば消費税をあげたほうが良いということが、仮に学者の研究によって明らかにされていた場合、すぐにでも増税したほうが良いかもしれない。しかし国民の理解が得られないことには増税は難しいし、世の中は信用という幻想によって動いているのだから、「消費税が増税した」という事実によって「消費凍結が起き」、「経済成長に陰りができる」という因果は起こりうる。


簡単に言えば、政治において重要なのは、「国民の感情をどこまで理解して、大局的な戦況を読むか」であって、これが行き着く先は「国民の感情を如何に扇動するか」ということになる。だからメディアが力を持つ構造であった。
SNSやインターネットがその役割を代替する勢いにある昨今では、メディアの持つ役割は鈍化し、役割を果たしきれていないという批判も目立つようになってきている。
一方、SNSという玉石混交ツールは多様な意見を反映している。だからこそ「どの情報が事実を述べているか」という取捨選択、いわば国民のリテラシーが上がっているのではないか。
今まではテレビや新聞でしか情報を取得できなかったが、情報経路が拡大することによってテレビや新聞の社会的地位は揺るがされた。そして情報過多になったことで、逆説的にそれぞれの媒体を「疑う力」が養われ始めた。「情報選択の見極め」が自然的に向上したのである。この傾向はこれからも続いていくだろう。それはおそらく人類にとって良いことなのだと僕は思う。政治というのは「大衆扇動的に決められる」ものではなく「民主的に決められる」ことが正義であると信じているからである。

今回の改憲はどうだろうか。これは本当に国民の意見を反映した状態になっているのか。
僕から述べると、逃げ腰だけど、「改憲に反対でも賛成でもない」という立場を取っている。
なぜならば、「改憲によってこれからの社会がどうなってしまうのか、全く予想がつかないから」である。

僕なりに立場を考えてみると、改憲派は対外関係(特に北朝鮮)に対して強硬路線を取りたいという感情的な立場であるとみる。あるいはそうしないと自国防衛が不可能であるという風に考えるのだろう。
一方で護憲勢力日米安保自衛隊の存在が対外的な緊張を煽るものとしてみているのではないか。「日米の関係がなければ、そもそも自分達が戦争に巻き込まれることはない」と考える立場をとっているとみる。
それに対して改憲派は、「日米の協調路線が解消されるということは他国からの侵略に脆弱になるということであり、現段階でそれはできない」と考える。
そこで護憲派は「憲法9条を守りながら自国防衛力を身につけることは可能である」と考える。
この考え方の違いは大した差ではないと思ってしまう。問題なのは、
自国防衛に対して「九条に対する解釈にどのような影響があるか」でしかなく、
憲法を改正したことによって起こりうるリスクの列挙とその可能性についてどのように考えるか、が焦点であると僕は思う。となると問題なのは、
改憲によって日本が侵略の危機にさらされるリスクはどの程度あるのか」
「護憲によって日本が侵略の危機にさらされるリスクはどの程度あるのか」
という点を比較することなる。
改憲によって行われることはおそらく「銃を持つ」ということである。
もし私達がマンションに住んでおり、その隣の住民が銃を持つと知った場合、「私が狙われるかもしれないから私も銃を持たねばならない」と思うだろう。
護憲は「銃を手放す」ことになるだろうか。隣人は「アイツは殴っても殴り返さないから殴っていい」と思うだろうか。あるいは「アイツは殴ると結構イタイくらい殴り返してくるから殴らないでおこう」と思うだろうか。
独裁国はどんな大義で日本に殴り込んでくるのだろうか。どんな意味があって侵略を行うのだろうか。
最善のシナリオは、「殴られてから対処する」ということではない。殴られないことが重要だ。でも核による抑止力が日本にどれほど必要なのか、僕にはわからない。

護憲派の立場に立ってみると、国際的な緊張関係に日本が巻き込まれているのは、米国との関係が同盟国としてみなされているからではないのかと考える事もできる。
米国からしたら日本はアジアへの玄関口であり、地政学的に確実に抑えておきたい「拠点」である。
以前までは米ソ対立の緊張関係からなんとかして日本や韓国を資本主義陣営に取り込む必要があったし、ソ連への経路としてその領土を拡大する思惑もあっただろう。米ソ対立によって朝鮮戦争という代理戦争が勃発した。北朝鮮という独裁国の暴挙は覇権国家の権力争いに巻き込まれた代償として、引き裂かれた結果として生まれた歪みだ。
雪解けの後、その対立関係は今は中国に向けられている。いずれにせよ、覇権国家としての地位を揺るがすことは起きてはならない。独裁者は常に寝首を掻かれることを極度に恐れる。スパルタが奴隷にそうされることを極度に恐れたように。

これは北朝鮮内でも同様に起きていることだろう。「独裁者としての地位を確保するために武力を誇示することで権力を維持したい」構図はどの時代にもみられることだし、おそらく北朝鮮の挑発的行為は支配力の低下によるものだと考えてもよいのではないか。すべて仮説でしかないのだけど。

だとするならば、論点は、
「支配力の低下により対外的挑発を繰り返す北朝鮮が、日本への武力行使をするメリットはなにか」
である。このメリットの如何により、「日本も武装すべきだし、時にはこちらから強気な姿勢を見せることも重要」なのか、「護憲的な立場をとりながら、防衛力を高めることに終始する」ことを選択することになる。
正直にいってしまえば、北朝鮮の無茶苦茶ぶりに憤りを感じない人はいないだろう。腹立つこともある。対話が必要といっても対話が成立しないようだとしたら、強硬手段をとるしかないという気持ちになるかもしれない。「強豪校のレギュラーで正捕手をやってる自分が万年ベンチにも入っていないアイツにすげー舐められた態度を取られている」状況は、すげえムカつくだろう。感情的になってはいけないと思い、うまく対応をしてきたが、温厚な人間も堪忍袋の尾が切れるというものであって、強行路線に走りたくなる気持ちもわかる。このバランスを取るのは難しい。
とはいえ、この論点にしたがって議論をするならば、答えはひとつに収束しそうなものである。事実や予測、リスクによる冷静な分析によって、どうすべきなのか、自ずと答えが出そうな気もする。


しかし「共謀罪の成立」「特定秘密保護法」「安保法」に対して採決を強行したという印象が強い。これはまさに来るべき時への先駆けと映ってしまう。
これらの法案は果たして本当に民意が反映された結果だったのだろうか。これは本当に自民党の意志によって決定されたものなのか、あるいは大きな圧力がかかっているとみるべきなのか。

僕がわからないのはまさにその一点である。自民党を応援すべきか否かは、「自国防衛、独立」に対してどのような立場を取っているのかがわからないのである。

それでもやはり、アベノミクスの功罪と裏にある日銀のアヤシイ動きについてはもっと考察を深めていかなければならないし、真実を追求することを止めては行けないと思う。参院選では「自国利益を守る為に日本企業を強くする必要があるし、トップアップでおこなわなければならないこともある」と思っていたし、それは間違いないだろうと思う。しかし蓋を開けてみれば、異次元緩和によって金利は歴史的な低水準となり、銀行は少なからぬ打撃をうけたにも関わらず、それでも「企業がお金を借りてくれない」

企業はというと、「これから起こる不景気に備えて貯蓄しよう」という流れが膨れ上がる内部留保から見て取れる。アベノミクスが当初期待していたような動きが起きなかった。企業が儲かったお金が投資に回されることがなく、労働者の賃金があがらなかったのだ。これでは一部の富裕層と労働者の格差の拡大を招いてしまう。

日産や東芝、シャープがバタバタと倒れていく中で、神戸製鋼が今度は倒れることになりそうだ。もし僕の仮説が正しく、「アベノミクスによって自国の企業を再成長させる」ということが目的であったならば、結果としては失敗しているといえるのだろうか。きらびやかな日本を彩った伝統的産業は危機に瀕しているにも関わらず、国民の意識はどこに向いているのか。

経済的にも判断が難しく、外交関係も凄まじくヤバイ状況の中で、最善のシナリオを選択していくためにはどうしたらいいのだろうか。


そのひとつの観点として、憲法に立ち返るという動きはどうだろうか。
権力が濫用される組織や国家は必ず滅びる。これを定説とするならば、どのようにして権力の集中と不敗を防いでいくのか。監視と抑制に対して明文化されたルール、約束が扇の要として機能した状態で権力を行使されている状態を目指すべきだし、そう簡単に豊かな国にはなれないかもしれないけど、それでも多くの人が納得できる決定をすべきだと僕は思う。憲法が「多様な考え方、価値観を持つ人々が共存するために明文化された基本的枠組み」として機能することを期待されて制定されているものだとするならば、「どんな手段を用いても正解を引く」ことよりも「予め決められたルールを遵守することで納得解を生み出す」ことを重視することが「暫定解としての確からしさ」を保障してくれるのではないか。少なくとも民主主義なのであれば、「有権者の納得解こそが正解」といってしまっても良い。今起きていることは、言うなれば「政治権力の在り方が変わることで国家の在り方それ自体が脅かされている」状態になってしまうかもしれないという風にも言える。

 

権力に対する抑止効果が失われ始めている今だからこそ、政治の意思決定プロセスへの問い直しは有権者が考えるべきテーマのひとつとなればと思う。

それとはまた別に、最近は日本人論が個人的にホットなので機会があれば書いていきたい。

 余裕ぶっこいてたら留年しかけた話


8月からおよそ二ヶ月くらい働いてみて感じたこと。
昨日と同じような一日が僕の意志とは関係なく流れていくようなそういう感覚。もしかしたらそれは清流かもしれないし、濁流に呑まれていることに気付いていないのかもしれない。僕は今、その人生の流れみたいなものをパシッと捉えきれていないことに不安を感じている。僕は経験に隷属しているが故に、経験から切り離して今起きていることをあるがままにみることができない。それでも僕は必死で考えてみる。それはあるいは無駄な試みかもしれないけど、そうしないと残機切れになってしまうような感じもしている。

働きだしてからの一週間は思っていたよりも早く過ぎ去った。その1週間の密度は僕が想像していたような、1日ごとにレベルアップが実感できるようなものではなかった気がする。あるいはレベルアップしているのかもしれない。だけど、昨日と今日の僕を比べてみてなにが変わったのかみたいなことを考えて、なんとなくこれっぽいみたいなことを言ったとしても、これが変わった所だと言い切るのがとても難しいのは確かだ。でもこの微小な変化を逃さずに記録していくことはポケモンの世界でレポートを書いておくくらい重要なことのように思う。さもなくば、マサラタウンからやり直さないといけなくなるのかもしれない。僕はだからこそ、出来る限り内省に時間を取りたいと思っている。

 

 

 


今までの僕は、なんとなくだけど、人生には節目のようなものがあって、その節目を迎えることによって「僕の物語」第二章が始まるのだと思っていた。今考えてみると、大学生から社会人になるという変化は思ったよりも自然だったし、大学生であることと社会人になることに何か違いがあるようにも思えなかった。まるで成人式を迎えたからといって成人になったという実感がなかったように。良いのか悪いのかは別として、そういうものなのだと思う。

言ってしまえば人生に節目みたいなものは存在していない。僕たちが節目を付けたがっているそれはあくまで儀式なのだ。今までの僕は節目が存在していて、その節目を迎えることで日常が反転することを期待していたかもしれないけど、そうではなくて、節目がないからこそ、節目を設ける必要があったのだろう。昨日とは違う自分に変わるきっかけを必要としていて、その理由付けとして節目となるような儀式を期待するのは僕だけに限った話ではないと思う。

とにもかくにも、劇的な生活の変化をどこかで期待しているところがある。それは日常に退屈した物語の主人公がある日突然非日常に巻き込まれていくような映画のようなもので、だけど現実にはそんなことは起こらない。当然僕もそれが幻想だということを理解しているつもりだ。
なんだけど、それでもなお、どこかで幻想的な非日常を期待しているがために日常が退屈に見えるみたいなそういう生活を送っているような感覚がある。

だからそういう意味では、僕は留年したほうが幸せだったのかもしれない。少なくとも、心のどこかでそれを期待していたことは否定できない。勿論、それが周囲の人々に多大な迷惑をかけてしまうことになることは理解しているつもりだし、起きてしまったことに対して全力でリカバリーをしたつもりだ。でもそれでもどこかで理不尽な宣告を受け渡され、その不条理に対して憎しみを燃やしながら生きていく人生をどこかで期待してしまった自分がいた。もしここで本当に留年してしまったとしたら、僕はこれからどう生きようか。それはひどく悲観的な思考実験だけど、今よりもよりよい未来を描く為に必死こいて想像した世界線は、思ったよりも悪くなかったように思う。生活を続けていくことが困難であるということを除いたとしたらだけど。

 

 

 

アリストテレスは倫理的徳を重視した人だと僕は認識している。僕たちは善を目的として人生を謳歌しようとしている種だとする。その善の最高形は政治であり、人々の政治参加はそれ自体が善なる活動であり、徳のある生活なのだと。
民主的な政治参加によって人々が成長し、理性的でより人間的な進歩をするのだと。そしてそれ自体が幸福な営みなのだと。
簡単に言えばそういうことだと思った。僕はマキャヴェッリアリストテレスの違いについて言及しても、マキャヴェッリアリストテレスのどの点について批判を述べたのかについては言及しなかった。僕が単位を落としたのはそういうことだった。僕にとってこの事件は、まるで車に乗るのに免許がいることを法で定めていないにも関わらず無免許で捕まったようなそんな出来事だった。

大学というのは王政で、独立小国の融合体で、そこでは独裁政治が繰り広げられているのだ。国同士の争いは互いの不利益になることをわかっているから、お互いの国に干渉することはない。僕たちは独裁者である王様に対し懇願し、許しを請うことで学士の資格を得る。長期的に返済しなければならない負債を抱えながら。これはいわば税金だ。


勿論自分の非を認めていないわけではない。簡単な話、余分に履修申請をすれば済んだ話なのだ。ただ僕はどこか、何か腹にくくったことがあるとリスクヘッジをしない傾向がある。就職のときだって一社しか受けなかったし、最終学期で単位を落としてしまう可能性があるとわかっていながら、「今期受ける授業ではSをとってやるぜ」と意気込んでしまえば、リスクなんてものに目を向けない。言ってしまえば超めんどくさがりで、最小の労力で効果をあげたいという欲求が人よりも強いのだと思う。だから自分にとってやる意義を感じられないものに対してはトコトンやらないし、それで怒られるし、文句も言われる。それでもなぜかこの変わらない悪習を変えようという気になれない。流石にそろそろどうにかしたいとは思いながらも。


あいにく僕はホッとしている。どんなに非日常を期待していたとしても、日常の延長に描いた自分の人生からズレることなく生活を送れることへの吸引力は僕が思っているよりも強いものだ。それが安定と呼ばれるものであるかはわからないけど。

思ったよりも僕は自分の意志で自分の人生を切り拓いていないのかもしれない。そういう意味で、結局何が起きたとしても僕はその生活範囲に限定された思考をし、その限定的な生活範囲から出ようとするようなことはわざわざしないらしいことがわかってきた。だから少なくとも起きたこと、この生活範囲においては最善解を出すことに腐心していくべきだ。

あるいはそろそろ自分を崖から突き落とすような勇気を持つべきなのかもしれない。もしかしたら崖から突き落とされたとしてもケロッとした顔で「なんとかなったわ」とか言ってるのかもしれない。
結局、どっかでそうしないといけないことは薄々わかってきている。それが明日であるか、5年後であるかの違いにどれだけ差があるのかはわからない。ただ、まずはそれがいつになるかについて答えを出す必要があることだけはわかってきている。

 

自己超越的な試みは自己破壊という痛みを伴う

最近自分の考えていることがみんなとズレ始めているような気がしてさみしいのと、いつからどうしてどう変わってしまったのかっていうのをまとめておきたくなったので書いていきます。ベースとなる考え方は変わっていないと思うんだけど、自分を含めた人間をあんまり信用しなくなったようなそんな気持ちです。

 

最近の変化①かなり駄々こねてバイトはじめました。

銀座にいます。刺激的な同期に触発されて楽しいです。適当にランチでも行きましょう。

 

最近の変化②大学終わりました。

単位取れてれば無事に卒業できると思うのですが、問題は学費が払えなさそうでちょっと困っているっていうのがあって、節約生活なうです。

4年生の最終学期に履修をミスって選択必修科目を4/12しか取っていないっていう悲しい事態が起き、同期に「やーい1単位落として留年BBAww」と言ってた自分に大ブーメランが刺さりました。頑張って8単位履修しました。日本政治史と政治学説史と、メディアと世論っていう政治学科っぽい授業だったのですが、大変興味深く授業を受けることができてハッピーでした。特に政治学説史はイチオシで、日本政治史もすげー面白くて、メディアと世論も考え方がダイナミックに変わったし、、、この辺は語りだすとキリがないのであれだけど。

あとは語学と卒論なんだけど、フランス語が致命的に不安です。死にたい。
言語と関するモノがことごとく苦手な理由について誰か教えて欲しい。railsとか・・

 

最近の変化③卒論書いてみました。

前回のブログに簡易版が載っていますが、基本的にみたいと言ってくれれば喜んで送っているので感想とかくれると嬉しいです。

 

 

 

最近考えていること

結論から言えば、最近の自分のやりたいことっていうのは、人間行動の科学的な実証を明らかにした上で、新しい労働の在り方を生み出していきたいということです。
なので、ポジティブ心理学進化心理学はイチオシの学問領域なんですけど、ここらへんって日本語の文献が中々なくて困っているって感じなので、面白い本があれば紹介してほしいです。

 

 

 

考えてみれば、村上春樹エルサレムで壁と卵のスピーチを披露してから、僕も卵の側に立ちたいと思い、ずっと「なんか出来ることないかな〜」と思い続けてきたわけです。社会というシステムを僕たち人類の手によって生み出しておきながら、そのシステムがかえって人々を苦しめてしまっている。僕の考える根本的な立場はまさに共産党宣言であり、革命的であったわけです。

ところが今の自分が考えていることというのは、どちらかというと人間に対する諦念の方が強く、福祉は新陳代謝を悪化させることもあるという学習から、救済が必ずしも善いことではないことを実感してきた。良かれと思うことが実は退廃を招いてしまうことに対して慎重になり始めた。そういう変化があったのです。

今までは「そうはいっても搾取はよくないだろう」というふうに思っていましたが、最近は「いうて僕も自己複製子のうちのひとつであり、自分というのは壮大な人類の自己拡張的な試みのうちのひとつにすぎない」ことへの諦めを感じずにはいられません。では、この感情的な反応はなんなのか。それは根源的には資本階級へのルサンチマンであり、身分不相応に対する不平でしかなかった。となると、「民主政は衆愚政だから、人類に民主主義はまだはやい」と言っていた自分に大ブーメランが返ってくるわけです。悲しい。

だから僕は、このブーメランを回避してみたい。出来ることなら、人間としての自分を構築することによって、脱構築したい。

 

人間について僕が思うこと 

人間が人間らしいと言われる時、それは伝統的な行為の発露によるところにあると僕は思うのです。根源的な欲求、例えば食事、睡眠、性

こうした欲求に忠実であることは人間らしいと言われています。
感情的な人々のことを「あの人は人間味があるよね〜」などと言うことは多いでしょう。感情の起伏のないひとを「サイボーグみたいな人」と言ったりもしますよね。
ここで言われる人間らしさというのは、生物学的に普遍であるということですから、動物的であるとも言えるわけです。
となると、人間が人間らしくあると一般的に思われている事物というのは、実は動物的であるということになります。だとすると、人間らしいというのはもともとは脱生物学的であり、超動物的な行為のみが人間を人間たらしめるはずだったにも関わらず、人々は喜々として動物たろうとするわけです。 

これは僕からするとチャンチャラおかしい話です。人間らしいというのは、欲求を理性でもって抑制できるところにあったはずです。人類が資本主義という生産様式を生み出した際にも、ウェーバーによればその精神の根源はプロテスタント的な禁欲に美徳がありました。しかし実態はそうではなかった。

どうしてこのような事態になってしまったのか。可能性としてありえるのは、人間が自制できないことへの正当化なのではないか。つまり自己利益の最大化を正当化がしたかったのではないか。自己利益は広義に用いられます。経済活動も含まれるでしょうし、社会的な地位や立場を獲得するといった欲求も含まれるでしょう。
こうした行動原理を人間らしい行動と呼ぶことによって正当化を試みた。しかしそうすることによって動物らしさと紐付いてしまった。 これでは、人類の不完全さを許容していくことが善いとされてしまう。おそらく、それでは社会は退廃する。進歩というのは常に、自然→不自然の方向へ流れていくものだからです。

 

 

人類とテクノロジーの話

人類は、人類の持てる能力が他の種よりも劣っていたからこそ、運動能力を外化することで生存確率をあげようとしたといって良いでしょう。力がなかったから落ちている石を投げるようになったり、木の棒で殴ったり、殺傷能力を上げる為に尖らせたりしたわけです。

人間能力の外化作用の結果として生み出された生産物がテクノロジーだとしたら、人間は自己能力を拡張するためにテクノロジーを生み出し、テクノロジーによって自らを進歩させてきた種だと言うことができます。

だとした場合、人類の進歩的な生活行動は、テクノロジーによって自らを進歩せしめんとする点に尽きます。今の人類はインターネットを活用することによって溢れんばかりの情報を仮想空間に外化し、保存することが可能になったわけです。僕たちはその引き出しを自由に活用しながら、日々進歩しているとします。

狩猟採集民族の生活行動が自然的であるとするならば、テクノロジーを活用した行動原理というのは、不自然的な動きをしているといえます。

さきほども言ったとおり、伝統的な生活行動は動物的です。一方で、進歩的な生活行動は人間的なわけです。つまり進歩とは常に自然からの超越に向いている。自然的な生活行動から不自然的な生活行動へ変異していくことになります。


人間社会も自然的な状態から不自然的な状態へ進歩してきました。近代国家の成立はまさに不自然的な状態なのです。
しかし、資本主義の生産様式は、自然的な生活行動、つまり自己利益の最大化を正当化している。
自然→不自然の方向が進歩であるならば、
自己利益の最大化は自然→自然、もしくは不自然→自然の流れとなります。
これは長期的にみて、異常が起きることになる。ではどうしたら良いか。

 

自己超越=私欲の否定が生きる意味となるとき

人類の進歩的な行動が人類の伝統的な行動への逆行だとしたら、理性はその逆行にあたります。
僕はまさに、だからこそ、人間という枠内を理性でもって超越してみたい。ニーチェのいう超人に向かう道を選択したいと思うようになりました。

 

夏目漱石は近代人類の本質的な性向であるエゴイズムを描き、大衆化することを目指していました。人間行動の原理を追求したとも言える作家ですから、僕はそういう意味で好きなわけですが、100年前(もっと言えば2000年前くらいから始まっていますが)に人間行動の構築が始まって、現在は自然科学がその実証を果たすところまでやってきています。

 

政治哲学の系譜がプラトンに始まるものだとした場合、ようやく政治の根本的な課題である権力の集中と腐敗という問題が、哲人王の出現によって解決可能になるかもしれない未来が近づいてきている。
僕という自己複製子の一部が、人類の構築と脱構築を通じて超越的な存在になれるかどうか。生きる理由というのはまさにこの一点にある。

 

おそらく僕は19の時から生に執着がありません。だからいつ死んでもいいと思っているのですが、しかしそれでは未練が残る。それは結局のところ感情機能の発露でしかないかもしれないんだから、理性で克服するならば未練など関係無しに死んだほうが良いです。だけど、「そこに問題があることを知っておきながら、お前はなにもしないのか」という僕の根源的な生き方を否定することになる。
「もしお前がそれに取り組まないのであれば、お前は今すぐ死んだって良いだろう。」
「今死なないことを選択している限り、お前はお前の思う問題に対して何かしらの行動をとるべきだ。」
この生き方でさえも、結局は未練という感情でしかないかもしれない。
となった時、僕を含め、人類の理性獲得はどこまで可能なのか。克服できていないからこそ、自分という自己複製子を使って壮大な実験を試みる。それは僕の生き方にフィットしているわけです。

理性は私欲の否定を可能とします。それは公益主義に発展します。

人類の自己利益の否定が可能なのか。もし僕がそれを全うすることができたら、まだ人類に希望はあるかもしれない。
これが人類に対し諦めた僕が生きる唯一の理由になりそうだ、というわけです。

 

人間というのは経験の奴隷であって環境に服従しています。
ではそこから自由になるにはどうしたらいいか。
この自由の有限性に自覚的でありながら、自己のあり方を模索していくこと。それが今の自分の答えです。

 

自分のあり方を模索していくというのは、比較検討を通して根拠を探り続けるということでしょう。しかし問いというのは最終的には無根拠に到達します。そこに自分のこだわりが現れる。感情機能です。
そのこだわり(感情機能)を取り出して、比較の段に上げることで、自己客観視ができる。こうして絶えず比較を繰り返していく生き方は超人への段階的な試みであるし、僕はそういう人を信頼できる人間であるとみなします。

 

 

同期の哲学人とこんな話をしていました。もし僕たちが永劫回帰していることに気づけないとしたら。生きる意味と言うのはまさに偶然的な非意味的形態に過ぎません。だとした場合、虚無に陥る生を選択するか、生を肯定する生き方を選択するか。そこにおいては僕たちの自由が存在しえます。

 

僕は、生を肯定する生き方を選択することにしました。僕は経験の奴隷であり、環境に依存した存在であることを認めながら、その要因を分析し、選択可能性を広げ、その中でも現存社会の課題を本質を明らかにし、実証主義的な解決を国家単位で実現するという歴史的な偉人の系譜を継承するという使命を選び、全うしようとすることにしました。

今はとてもいい時代です。思考実験でしか問題解決の方向性を示せなかった偉人たちは、今の時代をとてもうらやましく思うでしょう。

だからこそ、彼らが築きあげたこの豊かさの恩恵を被っている限りにおいて、偉人の歴史的な功績を後世へ繋ぐ歯車のひとつとなることを積極的に選択してみようと思うのです。

 

 

 

共産資本主義の合流

ようやく卒論がほぼほぼ完成した感じになってきたので、1年かけて自分が何を明らかにしたくて、何を言いたかったのかについて書いていきたいと思います。
以前のブログでも書いてたんですけど、もうちょいわかること増えました。

abhiniveza.hatenablog.com

 

この時の僕は「うわー資本主義に敗北したわーこれもう正しいわあ無理だわぁ」
ってなってました。暫定解として「社会的富の総生産量をテクノロジーによって増やしましょうがまあ正しいよね」っていう風に思ってたんですけど、「じゃあどうしてそういう風に言えるの?」っていうところが実はぽっかりと抜けてて、自分的にもそれで納得してもいいんだけどなんか腑に落ちねーなってなってたので、その後もずっと考えてたんですよね。
それと、この時の自分にとってじゃあ何のためにそれを突き止めたいかっていったら、「これから社会人になるにあたって"俺なんで働いてるんだっけ?"って思ったらダメな気がする」っていう危機感がずっとあって、それをなんとかして「僕このコンパス持ってるからブレません」になりたかった。とりあえずまあ技術革新に貢献してればそこそこハッピーになるなって思ってたんですけど、考えたらきりがないんですよね。「じゃあなんで日本はマイナス成長になったの?」とか「アベノミクスはうまくいったと言えるの?」とか、「成長ってなんなの?」とか「ぎじゅつかくしんってなんなの?」とかfぁfぁkjdf;jヵ

 


んで最近でた結論として、「あ、こうだわ、このまま行くとこうなるわ」っていうのがわかってきました。それが共産資本主義の合流です。

つまり、僕が最も言いたいのは「資本主義が成功すると同時にその社会は共産主義みたいになってるよね」
っていうことなんです。
これだけいって「あーね!それな!」ってなる人と「ばーかこの観点抜けてんだろ」ってなる人には多分僕の記事あんま価値がないと思うんですけど
経済成長ってなに? くらいの人には価値があるんじゃないかなと思ったので書いてみたいと思います。

あと、「みんなわかってないよね〜」ということをわかることってすげええええ大事だと思います。日本政治史を専門?にしてる大学の先生に「経世会の総理大臣ってみんな悲惨な感じになってますけどそれって陰謀的なアレが本当にあったんですか?」って聞いてみたんですけど「わっかんないよね。本当なのか笑」って言ってたんでまあみんなわかってないし、経済成長がなんでしなくなったのかとかも意外と専門家も「まあ多分こうだと思うけど本当かどうかはわっかんねーな?」ってなってるんで、やっぱみんなわかってないっていうのが持論です。





前置きはこんな感じで、以下要点を纏めていきます。
全部僕の意見なのでそうじゃないというところもあると思うんですがこんな感じです。

・資本主義の問題点は格差拡大や貧困というよりもむしろ、公正な競争と倫理観のある経済活動が出来ていないこと

・資本主義が現状最善な理由は経済成長の効率が最も良いから

・現行体制は実は混合経済体制

・経済成長の停滞理由は人口動態もあるけど規制(政府の介入とか)によって首を締めていることが理由と考える人達がいる

・自由市場化したらいけない市場はあるだろう

・資本主義に公正な競争は原理的にほぼ無理

・資本主義の成功には欲求の充足が必要

・共産資本主義化する未来は存在する


資本主義の問題点は格差拡大や貧困というよりもむしろ、公正な競争と倫理観のある経済活動が出来ていないこと

 

資本主義ってなに?っていわれると「う〜んなんだろう」って僕もなるんですけど、一番理解しなきゃいけないことは「資本主義は生産様式のひとつである」ということなんじゃないかなと思います。生産様式というのは、モノを効率的に生み出す仕組み、と考えたらわかりやすいと思います。その前提の上で、「労働者の剰余利益を資本として自己増殖していく仕組み」というのがいいんじゃないかなと思います。
剰余利益っていうのは僕達が雇われて働いてるとき(労働者)に実際に生み出した価値の何割かを雇い主(資本家)に奪われているアレです。
僕が1個100円のりんごを一日で100個つくってもし全部売れたら10000円になります。
この10000円は丸々僕の手元にはいるわけではないです。いいとこ1000円くらいの時代もあれば5000円の時代もあります。ビジネスモデルにもよるんであれなんですが、つまり、自分が働かずにお金と人を動かすことによって利益を得て、その利益をまた動かすことによってお金を儲けていくやり方でいこうねっていうのを資本主義って呼んでます。
もっといえば「あなたにはあなたが生まれたときから有している権利があるので、もしあなたが何かを欲しいと思ったらそれをあなたの財産として認めますよ」っていうのを相互承認している社会でもあるということです。この思想にもとづいてアダム・スミスパイセンが言ってるような市場原理を導入してます。市場原理っていうのは「人々が好き勝手商売したら受容と供給を満たすように勝手に人々が動くように出来てるからほっといていいんだよね。」っていうやつです。神の見えざる手が人々を動かしているっていうアレです。こういう考え方を自由主義って言います。
資本主義は自由主義と仲が良いので、よく曖昧になりがちです。資本主義は生産様式であるのに対し、自由主義はルール・約束に近いです。

なんでじゃあ今どこの国でも大抵資本主義を導入しているかっていうと、これは諸説あるし言ってしまえば資本主義陣営が社会主義陣営に勝ったって話なんですけど笑
なんで勝ったの?ってなったら経済成長の効率が社会主義国よりも良かったからだと僕は思ってます。なにがあったかは正直まだ僕にはわからないけど、一般的には社会主義国の自滅と言われています。
社会主義っていうのはどういう生産様式かというと(社会主義は経済体制であり生産様式であるし、自由主義のようなルール・約束でもあると僕は考えてます)大きく2つのポイントがあります。それが
私有財産の否定計画経済体制です

私有財産の否定というのは、いまから大体100年前くらいにマルクスエンゲルスっていうおっさんたちが「資本主義を導入したせいで格差が生じるわ。労働者は奴隷のように扱われるわ、こんなんハッピーな社会じゃない!労働者はもっと抵抗しないと!」「人間がなんでハッピーにならないかっていったらブルジョワジーが富を独占しているからや!ハッピーな社会っていうのはみんなが平等で富の偏りのない状態なんだ!」
みたいなことを言ってたらみんなが「いやーほんそれな!」「ほんとマルクスパイセンの言うとおりだわおれらでこれ実現しね?」っていって制度化したんですね。
つまり、「お前のものはみんなのものだぜ」っていうのを中央政府が管理して、均等に分配したら、みんな平等でしょ?
っていう考え方です。

計画経済っていうのは「モノを生み出すのに市場原理に頼るよりおれらが管理して動かしたほうが安定するよね」ということで、「食料はこれくらいつくってね、衣服はこれくらい、家はこんなくらい」みたいなことを政府で決めて働いてもらうんですね。
それで「Aさんの給料はいくらいくらで、Bさんの給料もいくらいくらです」っていって感じで働いてもらうんですね。

まあ、みなさんのお察しの通りうまくいきません。だいたいみんなサボります。
でも「社会主義って頑張った分だけ報われないからダメだよね〜」ってだけだと2点くらいしかもらえないと思います。社会主義がどうしてだめだったのかの本当の理由は「独裁」だと思います。


政治権力っていうのは長い間維持することってすごい難しいんです。歴史上では大まかに民主政・貴族政・君主政の3つの政体があったんですけど、どれも大体うまくいきません。なんでうまくいかないのかっていったら、権力の集中と腐敗が起こるからです。

あんだけ「平等の社会を実現すんぜ!」って言ってた政治リーダーたちは実は、こっそり莫大なお金を儲けていました。
これはほんとダメですね。ソ連でいうとオリガルヒ(政治学科ならダールのオリガーキーを知ってるはずですそういうアレです)っていう新興財閥について調べるといっぱいでてきて楽しいです。
んで、このオリガルヒたちがまあ、自分達の思い通りにしようといろいろ画策してるんですね。規制を強めたり、自分達に都合のいいルールを敷いたりしちゃいます。
となるとまあ、みんなおこりますよね。ばかやろー!ですよ。
そこで出てきたのがプーチンなんですけど、ちょっと話が長くなるのでプーチンについては調べてみてください。参考でいうと、

blog.livedoor.jp

これが最高でした。
簡単に結論を言えば、社会主義っていうのはうまく経済成長できなくてみんな貧しくなって爆死したんですね。でも一方で人類初有人宇宙飛行に成功したのはソ連ですし、世界で一番深い穴を掘ったのもソ連で、実は技術力は凄い高かったんです。まあそれもなんでそんなことできるかっていったら政府の権限がとてつもなく大きかったからという話なんですが。

というわけでこんな感じのロジックで資本主義が現状最善な理由は経済成長の効率が最も良いから
ということになってるのが現状です。
ただ、ぶっちゃけると社会主義は経済成長するに相応しい生産様式ではなかったよねっていうのが僕の持論なんです。

つまり簡単に言えば、
資本主義=豊かになるけど徳のない社会
社会主義=貧しいけど徳のある社会
のどっちを選択するか、の話だったはずなんです。だから社会主義に近い一部の国では国民の幸福度が高かったりします。あと江戸時代とかもかなり社会主義に近い感じあります。なんだけど、社会主義は貧しくて徳のない社会になっちゃった

社会主義がそうなっちゃうんだったらまあ、人間って本当にダメだよねぇ、だったら、まずは豊かになろうじゃん?」
っていうのが資本主義だと認識してオッケーだと思います。

豊かになることが第一目標だから、経済成長が必要になるということです。

じゃあ豊かになるってどういうことやねん?経済成長ってなにをもって経済成長っていうねん?

って話になるんですけど、これはもう一言でいえば「生産性の向上」です。
言い換えると「技術革新」となります。

生産性の向上というのは、僕が今年りんごを一日100個つくったとしたら、来年は120個作れるようになる。ということです。虫の除去の仕方とか、水のやり方とか、「なんかこうしたらもっとうまく言ったかも〜」を改善することによって僕達の技能が上がるわけですね。すると同じコストで20個余分に作れるじゃないですか。20個余分に作れたら1個あたりの値段も下げられるし、より多くの人にりんごを食べてもらえます。そうするとより多くの人がハッピーになります。
これが大雑把にいえばGDPが上がるということで、去年より豊かになったね!ということになるんです。
「経済成長のためには外貨を稼がないといけないよねぇ」っていうのもよくある話だと思うんですけど、それだと△なんですよね。なんでかっていうと、輸出入を繰り返しているだけだと生産物増えないんですよね。だから重商主義は批判されたんです。
簡単に言えば
Aさんがりんごを100個もってて、Bさんがパイナッポーを100個もってたとして
Aさんはりんごを100個渡すけど、Bさんは80個しか渡さない。
そうするとAさんは20損をして、Bさんは20得をするわけです。
これはたしかに「やったー日本は豊かになった!」だし、そういえばそうなんですけど、社会全体の富の総量が変わらないから、日本が得した分だけ損をする国がでてきちゃうわけです。だから貿易っていうのはなるべく輸出入のバランスが取れるようにしないと「お前の国だけ儲かってるのだめだぞ!」っていわれて車とか壊されちゃうわけです。
この仕組みを回すのがとにかく上手だったのが資本主義の経済体制というわけです。なんでかっていったら「頑張った分だけハッピーになるから」ということになります。

なんだけど、結局人間には能力の差っていうのがあって、お互いに競争しあってより良いものを作ろうぜっていうルールだと圧倒的に勝つやつと圧倒的に負けるやつが出てきます。これが経済格差ですね。
圧倒的に勝てるやつはとにかく頭がいいから、どうしたら出し抜けるかがわかるわけです。そうなると「いやそれはおまえやったらダメだろ!」みたいなことでも「いやでもこれやるとめっちゃ儲かるんやで」っていう事態が起きてくる。

リーマンショックは何が起きたのかっていうと社会的信用のない人でも家を買えるようなローンを作ってめちゃくちゃ売ったんです。
社会的信用がないっていうのは、「こいつにお金貸しても返ってくるかわかんねーな?」って状態のことです。つまり「この人の所得だと多分ローン組んでもお金支払えないよねえ」って人たちなんですけど、この人達にとにかく売った。証券も売った。

その結果としてリーマン・ブラザーズの株価が暴落して経営破綻になっちゃったんですね。詳しい流れは僕もよくわかってないんですけど、簡単にいえば

金融機関「家のローンはらってください〜」
1さん~10000さん「いやちょっと今月はきついっす」
金融機関「ちょwお金戻ってこないから会社経営できねえw」
投資家「あれ、この会社の経営ちょっとやばくね?今のうち株売却しといたろ!」
って流れだと思います。

よくよく考えてみたら「いやそんなことすんなよ・・・」みたいなことなんですけど、未然に防ぐのはまあ無理です。明日もしかしたら競合のD社がきわどい手を使ってくるかもしれない・・・ってなったら囚人のジレンマみたいになります。どっかがキュレーションサイトを大量生産したらうちもそうしないと負けちゃうわけです。負けちゃったら株主に「おまえんとこもうお金だしてやらねえ」ということになっちゃいます。というわけで資本主義に公正な競争は原理的にほぼ無理ということになります。

これはかなり言い換えると
「資本主義に公正な競争と適切な倫理観が備わっていたら、最強」
ということになります。ワールドカップみたいにしたらいいと僕は思うんですけどね。


富の再分配の話も、資本主義にどう倫理観を備えるか、という問題と言って良いでしょう。公正な競争をしても圧倒的に勝てるやつがいっぱいいるってなると、問題は変わらないですよね。そこで「ほんと申し訳ないんだけどみんなの為にちょっとお金わけてくれないですか?」っていう方式を取るのが現状最善なんじゃない?って言われてるんですけど、これもタックスヘイブンとかをみれば「多分うまくいってない」ってことになると思います。ピケティは「お金が国境またぐときに税金かけようぜ」って言っててビル・ゲイツは「いやそれだとちゃんと使えるやつのお金まで(ちゃんと使えないと思ってる)政府の財源になるやん、それだったら累進消費税にした方がよくない?」って言ってて、どうしたらいいのかは多分まだ結論でてないと思います。資本主義の格差拡大に関してはどうやって再分配するのが良さそうか、っていうのを知の巨匠がしっこたま考えてる最中ということになります。

ちなみにベーシック・インカム(BI)が世の中を賑わせていると思うんですけど、あれはリバタリアン(自由至上主義)の思想なんじゃないか?って僕は思ってます。なんでかっていうと、BIの出発点っていうのは「いろいろ税制生まれて複雑になっちゃって、何がどうなってんのかわっかんね〜よ」「これ管理楽にしたらもっと効率よくお金回せるんじゃね?」って感じです。
これはつまり「政府の機能を縮小すること」を目指しているのではないか?
とも言えるわけですね。自由至上主義の立場というのは「市場原理が不活性化しているのは政府の余計な介入と規制があるからだ!」「全部市場に任せたらうまくいくから余計なことすんなよ!」っていう古典派経済学の流れを脈々と継いでいるというか「神の見えざる手」をめちゃくちゃ信望してますね笑

僕はどの立場かというと、

①目指す所は共産主義
②現実的には経済成長重視
なので自由放任に対しては一部賛成で一部反対でどちらかというと結構反対です。
なので折衷案として、「政府が守るべき市場は政府が守りましょう」「基本方針は規制緩和」「じゃあどこなら自由放任がよくてどこは政府が守ったほうがいいんだっけ?」っていうのを考えていくのが大事だよねっていう風に思ってます。自由市場化したらいけない市場はあるだろうということです。
自由至上主義って格差広がっちゃうんですよ。強者の論理なんですよね。経済成長の停滞理由は人口動態もあるけど規制(政府の介入とか)によって首を締めていることが理由と考える人達がいるというのはリバタリアンのことです。僕は日本人なのでコミュニタリアン寄りだと思っています。

 


現行体制は実は混合経済体制

資本主義VS社会主義っていって、資本主義勝ったから日本は資本主義〜
ってなると思ったら実はそうではないのが面白いところで、
ほとんどの資本主義体制の国家は混合経済体制です。
混合経済体制っていうのは、「市場原理だけにまかせたらなんかうまくいかねーよ。独占する企業でてくるし、倒産した企業立ち直らせないとまじやべえし、負の外部性は起こるし、公共財はどうすんだし、宇宙人くるかもだし、みんながみんなホモ・エコノミクスじゃね〜し」ってなったので「じゃあ政府がなんとかしないとだよねえ」ということで金融緩和をしたりお札刷ったりしてちょっとインフレさせたりするのをやってみるっていうわけですね。市場の失敗に対処する必要があったわけです。
経済政策っていうのは計画経済の孫みたいなもんで、社会主義のいいところと資本主義のいいところをハイブリッドした体制を敷いているのが今
って感じです。
ぶっちゃけいいとこどりって今のところ最強です。共和制とかもハイブリッドなんですけど最強です。間接民主主義もハイブリッドなので最強です。ハイブリッドは最強ということを覚えておくと良いと思います。ただ最強っていっても現存体制の中で最強なだけでダメなところもいっぱいあります

 

 

共同体主義が日本らしくていいよ

僕は日本人なのでコミュニタリアン寄りなんですけど、コミュニタリアンっていうのは共同体主義と訳されてます。
自由っていうのは言ってしまえば個人主義なんです。
「俺に構わないでくれよ、おれも構わないから」だから「お互い自由を尊重してるんだからお前が今お金なくてもそれはお前のせいだろう」
になっちゃうんですね。これ、日本人には合ってないんです。日本人っていうのは和を持って尊しとなしですから、みんなに合わせて生きたいわけです。空気を読みたい。
今の日本人の承認欲がお化けになっててTwitterでは日常的に炎上してるしインスタにはアレだしアレなのは自由=個人主義思想が戦後注入されて人々がバラバラになっちゃったからだと思ってるんですよね。
昔の日本はわりと地域社会で、連帯してたんです。助け合って生きてた。
家にはおばあちゃんおじいちゃんいたし、おにいちゃんの家族も一緒に暮らしてるみたいな、サザエさんみたいな社会だったわけです。
ところが日本は工業化して核家族化が進んで、地域社会も分断されて、人々の所属場所がどんどんなくなっていった。
終身雇用とか年功序列っていった制度も、日本人らしいなって思っていて、所属・連帯の先が企業になっていったんですね。
でも今の日本って、終身雇用制度が崩壊して、中途採用とかも増えたし、非正規雇用が増えて、結果として「自分がどこに所属しているのかわからない」人が大量にでてきちゃった。

そうなるとみんなひねくれちゃう。自分の存在を認めてほしいですから、ちょっと攻撃的になっちゃう。
これが今の日本の現状なんじゃないかなーと僕は思っています。


だからこそ今の日本には地域性というか、連帯が必要だなって思っているし、
会社以外の居場所が必要なんだろうなっていう風に思っているし、
それこそシェアハウスが大ブームしているのも、新しいコミュニティの成立を人々が求めている証拠なんだろうなって思っているわけです。

ただ、共同体主義も自由が好きな人からするとちょっと窮屈です。
共同体の中で生活するためには、みんながちょっとずつ我慢することを強いてしまうからです。
ちょっと我慢することを強いるのが共同体主義だとしたら、
日本人が出る杭を打ちたがるのは「俺がこんなに我慢してるんだからお前もちょっとは我慢しろ」
って潜在的に思っているのかもしれないですよね。


あと共同体主義の致命的なポイントは、自由主義ほど市場原理が働かない
っていうところだと思います。だから今専門家は「お金以外のインセンティブってなんかないんだっけ?」っていうのを科学的に探っている段階になっている。というわけです。ポジティブ心理学ですね。the science of happinessっていう学問があるらしい。

この辺は不勉強だからこれから勉強していくとして・・・・



共産資本主義化する未来は存在する

僕が一番いいたかったのここなんです。

共産主義思想は元々人類の理想を示したものだと僕は思っています。人々は社会主義国という苦い思い出を痛感しているから、共産主義思想は権力の独裁と労働者の意欲を低下させる最悪の政体のひとつなんじゃないかと思われている気がするんですけど、

強引な共産主義国を実現した結果として、社会主義国家が誕生し、全体主義思想を強制させる結果となってしまった。

のがボトルネックだと思います。
じゃあどうしたらうまくいったのか。
僕は必要な富(=技術革新によって生み出された生産物)の生産量が充足したらうまくいくと思っています。

例えば

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 人間が政治を行った場合、権力の集中と腐敗が起きてしまうことが不可避であるならば、人間が正しく政治を行うことは不可能である。この立場に立つとするならば、AIというリヴァイアサンを生み出し、すべての人民が社会契約を行うことで理想的な社会に到達することが最も善いということになるだろう。そのような社会が仮に成立した場合、政府の存在は最小化されるか、もしくは最大化される。

 限界費用がゼロの社会ではもはや財産の所有に価値が置かれなくなる。富の価値は希少性によって決定されるものであるとするならば、富の総生産量が無限に限りなく近づいた社会では富の私的所有にもはや意味がなくなる。

 共有型経済や複合社会といったように、公益を尊重した徳のある社会が実現された場合、それはある種共通した思想を持つということになる。自己利益の追求という利己主義が現代の共通思想であるように、公益の追求が生産様式となる社会では、倫理観や道徳性がなによりも重視される。

  • 高度な分業化

 人々はテクノロジーの進歩により、専門が分岐し、より複雑な分業を敷くことになる。人々は自身の潜在能力を理解しており、自己実現の為に自らの才能を最大化する術を知っている。その為お互いの能力や職能に対し尊厳が生まれている。また、雇用の概念は溶け、人々は人に雇われる必要がない。

  • 知性の獲得

教育の効率が最大化された社会では人々は人々の持ちうる知識に差がなくなる。理性的な判断が可能となっており、理想的な直接民主主義が実現可能である。

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簡単に言えば、
「限界費用がゼロに限り無く近づいたら所有の概念溶けるよね〜」
「そんな社会が実現したら私有財産とか価値なくなるよね〜」
「そしたら人々って共産主義思想を持つようになるんじゃないの〜?」

って感じです。
限界費用ゼロ社会からかなりインスピレーションうけてます。

www.amazon.co.jp

 

皮肉にも、資本主義は成功と共に新しい時代の幕開けを迎えることになります。それが忌み嫌っていた共産主義の時代なんじゃないか。
ということなんです。

もし共産主義と資本主義が手を取り合うような時代が僕の生きているうちに訪れるのであれば、それほど楽しいことはねーなっていうのが最近の夢です。

「じゃあこれを実現するために、政治機構が腐敗する前に技術革新してなんとか資本主義を成功させるのが現代人の役割だよね〜」

が僕の目指す所となりました。

肌感なんですけど、次の政治的な支配者に徳がなかったら多分もう人類の敗北なんじゃないかなと。そう考えると僕たちは人類史上最大の激動時代にこれから突入していく可能性があるわけです。そう考えると結構楽しいです。

僕たちにはテクノロジーを人類の反映と幸福に向けて適切に使えるだけの徳が必要とされているのではないか。
そうなってくると、もっともっと哲学をして人類はどうあるべきなのか〜っていうのを
多分みんなで考えないといけないんだろうなって言うふうに思います。

直近でやんなきゃいけないことは人々の欲求を充足させること。
マズローの5段階でいうところの自己実現者をテクノロジーを活用してなんとか増やす
ってところになると思うので、
やっぱマルクス好きだし労働者の立場からなんかできることないかな〜っていうのをぼけぼけ考えていきたいと思います。


卒論をギリギリで書き上げて「共産資本主義っていう新しい概念あるじゃん!」
って気づいたんですよね。「これまじでフィジビリ研究したらおもしろいことになるんじゃね?」「てかむしろそのフィジビリを卒論で書くべきだったのでは?」「いやでも学士の人間にそこまでできるキャパないよねw」ってなって終了したのですが、なんでもっとはやく到達しなかったのかっていって落ち込んでました。
とはいえ考えなきゃいけないこといっぱいあると思うので、社会人になってからもほそぼそと研究していけたらいいな〜って思います。


PS.本当はホッブズロックルソーあたりにも触れて書きたかったのですが、体力がなくて断念_(:3」∠)_

 

最後に参考文献載せて終わります。

 

トーマス・セドラチェク(2015)『善と悪の経済学―ギルガメシュ叙事詩、アニマルスピリット、ウォール街占拠』(村井章子訳)東洋経済

アマルティア・セン(1989)『合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究』(大庭健川本隆史訳)勁草書房

カウシック・バズー(2016)『見えざる手をこえて:新しい経済学のために (叢書“制度を考える")』(栗林寛幸訳)NTT出版

橋本 努(2008)『経済倫理=あなたは、なに主義?』講談社

樋口 均(2016)『国家論―政策論的・財政学的アプローチ―』創成社

飯田 泰之(2014)『図解 ゼロからわかる経済政策 「今の日本」「これからの日本」が読める本 (ノンフィクション単行本)』角川書店

重田 園江(2010)『連帯の哲学 1 フランス社会連帯主義』勁草書房

ジェレミー・リフキン(2015)『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』(柴田裕之訳) NHK出版

ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)『サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之訳)河出書房新社

エーリッヒ・フロム(1965)『自由からの逃走 新板』(日高 六郎訳) 東京創元社

 

 

佐藤航陽のブログ(最終閲覧日 2017/07/06)

http://katsuaki.co/?author=1

共同体主義の批判検討(最終閲覧日 2017/07/06)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/47/3/47_3_320/_pdf

混合経済体制論(最終閲覧日 2017/07/06)

http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170706194201.pdf?id=ART0008304808

カール・ポランニーの「複合社会」と国家の役割―福祉社会における公共性―(最終閲覧日 2017/07/06)

http://jshet.net/docs/conference/77th/kasai.pdf

nandoブログ(最終閲覧日 2017/07/06)

 http://nando.seesaa.net/article/155722930.html

Philosophy Guides(最終閲覧日 2017/07/06)

https://www.philosophyguides.org/

苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説)(最終閲覧日 2017/07/06)

https://ittokutomano.blogspot.jp/

内田樹の研究室(最終閲覧日 2017/07/06)

http://blog.tatsuru.com/

 


 

 

 

初恋の女の子が家の近くに越してきた

最近といってもおそらく2年くらい前から、家の近くに初恋の女の子が引っ越してきた。

彼女は社会人なので、通勤のために実家から通っている。僕の方は取りこぼした単位を拾う為に今期から真面目に1限に出席するようになって、そのおかげで朝の電車が同じになることがたまにある。今までは1限なんかにとてもじゃないけど出席することもなかったから、まさか1限に出ることで同じ電車のしかも同じ車両になることがあるなんて思いもしなかった。
確かに地元は一緒だったし、なんだったらどの辺に住んでいるのかも知っていたから、僕の最寄り駅にも自転車を使えば通えないこともない。彼女の大学が高田馬場から東西線で一駅のところだったから車両の一番後ろに乗ることを知っていて、僕の方は西武新宿で乗り換えて中央線に乗っているので、一号車に乗る。だから思いもしなかったっていうのはさすがに言いすぎかもしれない。ただ同じ車両になるというのはひどく窮屈だ。緊張しさえする。こちらとしては彼女の姿をこの目に収めておきたいのに、あの羞恥心が邪魔をしてしまう。職場が青山にあるというので大江戸線に乗りたいのだろう、彼女が中井で降りる気配を感じる。夏目漱石のこころをiPhoneにインストールしているkindleで読み直しているけど、様子が気になって内容がちっとも入ってこない。
こんなことになるなら、引っ越すとしても元の家から徒歩で15分くらいのところじゃなくて、もっとこう"シティ"な感じのところにしてくれたら良かったのに。パパが僕たちの地元を大変お気に召しているのだろうけど、大したもんはココにはない。ジョギング中の夫婦が「ヨーロッパに来たみたい」なんて言っていたのを聞いたことがあるけど、僕は地元に"ヨーロッパらしさ"を感じたことは一度もない。ヨーロッパらしいってしかもアフリカっぽいと同じレベル感なのがグッとくる。フランスもドイツもスイスもフィンランドも"ヨーロッパっぽい"のだろうか。日本はアジアっぽいのだろうか。


それにしたって彼女のほうだって気まずくないのか。もしかしたら彼女の方は全く気にしていないどころか、僕なんかに微塵も興味を感じていないのかもしれない。そうだとしても不都合だ。朝の通勤時間に小説やビジネス本を読むような彼女には東横線か、あるいは田園都市線がお似合いだと思う。青山の広告代理店でパリッとクリエイティブな仕事をしているのなら、意外と二子玉川や武蔵小杉なんかも良いかもしれない。トレンディがある。そんな彼女の住まいが閑静なローカル線の住宅街で僕の家から走って2分だなんて。


初恋の女の子が僕の通っている小学校に引っ越してきたのは4年生の時だ。
学芸会の準備で役を決める際に視聴覚室か何かに学年で集まる機会があって、僕はその時三組だったから、二組に転校してきたその子を見かけるのはそれがはじめてのことだった。僕は一目惚れをした。

控えめにいって、ものすごく可愛かった。もしかしたら可愛くないのかもしれないとかそういうことを思うことなんか一切ない。疑いのない可愛さ。とにかくものすごく可愛かった。広末涼子のような清涼感にしかしどこか影のある、もしかしたら深田恭子かもしれないようなミステリアスさ、とまではいかないけど、こう、幸の薄そうな、アンニュイな佇まい。目が合っているようでどこか僕よりも遠くを見ているようなそういう雰囲気のある女の子。きっと心臓に包帯を巻いているに違いない。
そんな少女の横顔を偶然にもあの場で拝んでしまったその日から、僕の好みの女性のタイプが確立してしまった。確実に言える。初恋というのは実に恐ろしいものだ。

僕は地元の公立中学に進学することを決めていたし、彼女が日◯研かどこかの塾に通っていてそれで女子中学校を受験するというのは友達から聞いていたから、中学に上がったらこの思いも終わってしまうんだなと思っていた。金輪際のお別れになるんだろうなって思った。なんでかわからないけど、また会えることを期待したお別れであったり、悲しさのようなものを感じないまま中学生になった。今思えば、そういう感情が終わってしまうということが当時の僕にはよくわからなかったのだと思う。小学生の頃の僕たちはただ誰が好きだ誰と両思いだとかそういう秘密を"バクリョー会"と名付けたなんだかよくわからないグループでこっそり共有しあって、それでその子と廊下ですれ違うたびに肘で突き合うといった交友関係を楽しんでいただけだったのかもしれない。一度も話したことのないにも関わらず、これは初恋なんだって確実に言えるそれは小学校卒業と共にお別れしたかのように見えた。

 

 

 



高校1年生のとき、僕たちの間で前略プロフィールが流行った。
僕もその当時ノリノリでプリクラをプロフィール写真に設定し、好きな異性のタイプのところに「幸薄い子」って書くくらいにはエンジョイしていた。
今でいうTwitterのようなタイムラインは「リアル」と呼ばれていて、幼稚園の同級生だったモデルの女の子は「りさのりある」とかいって人気を博していた。

「ぼくのりある」もささやかな人気を誇っていて、"ねっとりとした"自分語りとますだおかだの岡田のような芸風がウケて意外にもいろんな人に見てもらえていた。
ゲストブックというのが前略プロフの中の機能にあって、そこに知人がコメントを残すことが出来るようになっている。そのときに現れた nさんが話題になった。彼女は僕のゲストブック=足跡 にミルクキャラメルが欲しいと言った。
僕が高校にあまりいかず(行ってなかったことはしらないだろうけど)近くのコンビニでバイトをしていたことを彼女は知っていた。
彼女の言うミルクキャラメルがうちのお店にあるかどうかの話を聞かれて、多分あるとかいう適当な返信をしていたのを覚えている。そのうちみんなが僕とnさんのやりとりに興味を持つようになって、学校に行くと「あのn ってだれ!?ww」とか言われるようになった。 
僕とnさんとのやりとりが130件を越えたあたりで、nさんはバイト先に来た。

僕は度肝を抜いた。まさかこんなことがあるのだろうか。あの女の子だった。
バイト中にも関わらず連絡先をその場で交換した。夜勤のお兄さんと一緒に夕勤に入っていたのだけど、事情を説明したら怒られなかった。むしろ茶化された。
そこから僕たちは小学校を卒業してから今までの4年弱を埋めるかのようにメールをした。

当時の携帯は文字数制限というのがあり、1万字を越えると入力ができなくなるのだけど、僕たちは文字数いっぱいになるメールを1時間半かけて丹精に返信した。そりゃ50~100個にもなるトピックを全て覚えられるはずもないから、3つくらいの返信を書いたら下書きに保存して、次のトピックはどんなこと話していたかを確認して・・っていうのを繰り返す必要があった。内容で言えばニコ動が面白いとか、彼女は御三家クラスの女子校に通っていたので、自然とヲタい趣味を持ちやすいのだと思うけど(偏見)、時かけMADがあーだとか、あるいは東京事変だどうだとか、そういう話もした。彼女は軽音部で、家にはドラムセットが置いてあって、透明人間をコピーしたりしていたらしい。椎名林檎が好きな女の子だった。高校1年生にしては早熟しているという感想がある。

返信をするのは一苦労だった。でもそれが楽しかった。真面目なのかわからないけど、分岐した話題には全て返信したし、彼女も返信してくれた。そういう色恋を僕は純粋に楽しんだ。
 

 

次第に僕達の仲は縮まっていく。バイトから上がって、電話がかかってくる。僕はそれには返事をしない。その代わり、デートに誘う。


正直にいって、僕は彼女に対して劣等感があった。先程も言ったとおり、これは羞恥心なのだ。尊大な羞恥心と言っても良い。彼女は1時間半かかるメールをしながら、僕が必死に入力している時間に勉強をしている彼女に対して僕は恥ずかしい思いをしないでは居られなかった。大学入学に向けて自主的に勉強をしているような子だった。
僕は偏差値が50もない都立高校に進学して、あまつさえ学年ワースト10の人間だったから、そういう天上人の姿を目の当たりにして惨めな思いがした。

「勉強なんて、くだらない」
「どうせやったって役にたたない」
「学校の先生が馬鹿に見えて仕方がない」

僕はみんなが僕と同じようにそう思っているに違いないと思っていたから、ボイコットと言えるような授業態度を取ることもあったし、それがきっかけで停学になることもあった。そういう人間なのだ。そういう貧困家庭で文化資本の微塵もない人間が彼女のような幸福に溢れる少女と関わるなんてこと、あってよかったのか。
僕は気持ちに応えたかった。けど、自分の無様な境遇を誰よりも理解していたからこそ、彼女の気持ちに応えることもなく、返信を止めてしまった。

「あの時いったこと、なかったことにしてください」

これが彼女から送られてきた最期の言葉だった。




僕が勉強に対してひどいコンプレックスを抱えていたのは、進学した環境へのミスマッチもあったけど、それよりも大きかったのはきっと彼女へのコンプレックスが勉強に向いていたからだと思っている。僕はそうやってここまでやってきたのだ。

幼馴染いわく、彼女はAO推薦で入学したらしい。
ものすごくモテるけど、性格が奇抜らしく、恋愛に発展することはそう多くなかったと聞いた。
彼女は3年生になって、イェール大学に1年間留学した。留学費用は親から借りて、社会人になったので、親に返していると言っていた。

 


彼女はきっと大学でケインズハイエクを勉強するような感じではなかっただろう。
きっとホロコーストに関心を持って西欧政治史を学ぼうとしたのだ。ハンナ・アーレントのようなそんなイメージがある。"アンシュルス"という響きが彼女を形容する。留学ではどんなことを学んだのだろう。

僕の方はどうだっただろうか。
見えない格差に悩まされないことはなかったし、この断層をどうにかして上り詰めてやろうと思った。もしかしたら届かなかったかもしれないし、もしかしたら届いたかもしれない。
でも、ある種の上流に来て思った。僕は平面的な世界しか見ていなかったことに気づいた。ここには奥行きがあって、階層が同じになったように見えても、生きる世界が交わることはないのだと。
彼女の生きてきた歴史を僕が覗くことが出来ないことが、たまらない不安となった。彼女の見える世界と僕の見える世界はブラウン管に映る「カサブランカ」と最新液晶で見る「君の名は」くらい違うに決まっている。僕はこれから出会う数々の人々に対し、僕と過ごすことのなかった埋めることの出来ない時間に苦しみから逃れることは出来ないというのか。僕にとっての特別に入り込む余地のないように、僕が彼ら彼女らの過去の特別に取って代わることのできないことを知ってしまった。世界の連続体は人によって異なる。見てきたもの、感じてきたもの、そこから学んだこと。それぞれがそれぞれの世界のかろうじて交わった範囲でしか交友出来ないのであれば、それほど虚しいことはない。



努力というのは貧しいものに必要とされるものであってほしい。
恵まれた家庭に生まれ、愛され、そうして社会になんの疑問を抱くことなく生きてきたのであれば、どうかそのまま幸せになってほしい。
社会人になって、通勤中にビジネス本を読んだり、コピーの勉強をする必要なんてきっとない。いつかきっと、おそらく今も付き合っているであろう彼氏や職場の人と結ばれて、2児の母になって、幸せになっていってほしい。
彼女のそれはエリートに他ならないではないか。もしそうであるならば、世界の溝はますます深まっていくことを受け入れなければならない。

彼女が政治経済学部に進学したように、僕も政治経済学を学んできた。
彼女が広告代理店に就職したように、僕も卒業したら広告を生業とするのだろう。
どこかで交わってもよかったはずの世界が、どんなに類似共通する点があっても交わることのないこの世界の片隅で僕はまことに勝手に息苦しさを感じている。

おそらく10月までに引っ越すことになるだろう。
僕が24年間生きてきた思い出深い地元を出た時、僕と彼女を結ぶ共通点がついに無くなる。
それは小学生のときにはわからなかった別れのような感情を僕に芽生えさせるのか。
あるいは僕の眼前を照らす原動力として、ずっとこころのどこかに仕舞われたまま生きていくことになるのだろうか。


一度空いた穴が塞がることはない。僕は彼女に穴を空けてしまったのだ。


1-1 理想の社会が存在する場合、それはどのような社会か

私たちの生きている社会では、常に何かしらの問題が発生している。人類が誕生してから今日に至るまで、その問題の本質は変わっていない。すなわち、人間関係における問題である。
社会における問題の全てを人間関係だけに置き換えてしまうのは些か難しいのではないかと思われるかもしれない。日本で言えば、地震や台風といった天災の被害を問題とすることもあるし、人類以外の動物との関係、病気や障害といった健康や生命に関わる問題も問題である。だがしかし、課題設定を”理想社会を達成する上でその障害となっているもの”という制約の上で考えていくこととすると、人類の病を克服することや、技術革新によって生産性があがり、食料危機を乗り越えるといったことは人類にとって共通の目標と呼べる。勿論、病気のない世界もまた理想の社会ではあるのだが、人類が理想の社会を実現できていない理由にはならないということだ。


人類が文明を持つようになってから5000年~10000年、もしかしたらそれよりももっと長い歴史があるかもしれない中で、なぜ人類は絶えず争いを繰り返してきたのか?個人から見て非常に長いと感じられるその期間の中で、どうして人類は理想社会の実現に至ることができなかったのか?そのような社会が実現していたらしいという証拠が単に見つかっていないだけなのかもしれないが、ある特定の期間において成功と言えるだけの社会を構築することは本当に出来なかったのか。あるいは出来たのか。


この問題を紐解いていくのは非常に難しい。なぜなら、その当時において成功したと言えたとしても、成功を持続することが非常に難しいからだ。
例えば専制君主制は君主が自由に権力を行使していた時代であり、その時代における権力の維持機能は他の政治形態と比較しても長い期間権力を維持してきた。しかし専制君主制における民衆の生活に幸福があったかと言われると難しく、自由を奪われ、労働を強いられるといった隷属が常であった。こうした人権を無視した政治権力は集中により腐敗し、民衆による革命により倒されるといったことを繰り返している。日本においても同様だ。長期に渡って権力を維持してきた江戸幕府も、権力の集中と監視、税制の緊縛化を通して各藩に武力を持たせないようコントロールしたし、百姓や武士の意見を取り入れ、合意形成を取ることによって政権の長期化を実現した。しかしながら結末は、外的要因にもよるとはいえ、黒船来航以来ほぼ鎖国した状態を貫いてきた幕府が開国を迫られるようになった。フランスやイギリスの財閥が藩に武器を与え、力をつけさせ、さらに薩長同盟を実現させ、強力な藩が力を合わせることによって幕府は大政奉還を余儀なくされた。
このように、政治機能の維持の観点でみればある期間においてこれほど成功を収めている社会はないと言うこともできるかもしれないが、どのような政治体制を取ったとしても、陳腐化が起こってしまう。完璧な人類が存在しないように、完璧な政治が存在しない。それに、例え政権の維持がうまくいったとしても、それが民衆にとって理想の社会であるかどうかに関しては疑問である。ロールズのいう”無知のヴェール”によって民衆が他者の状況や自国や他国の比較をしないがゆえに幸福度が上がるといったケースも存在するが、それが果たして本当に理想と呼べる状態なのか?

 

 

 

人類は貨幣制度を本格的に導入することによって非常に強力な技術革新力を手にすることとなった。それが資本主義である。資本主義体制を導入する以前の原初的な社会状態においては、労働の蓄積と土地の所有によって富を増減させていた。その為、労働によって生み出された富は全て労働者の富となっていた。ところが、その富を資本と交換できるようになってから、資本を動かすことによって労働せずに富を得ることができるようになった。この金融モデルの強大化によって労働者階級と資産階級の格差が生まれ、労働成果の一部を資産階級が搾取する形によってより大きな富を得ることが可能になった。

この資本主義の制度は産業革命と共に始まり、それからというものの労働の効率化と生産手段の獲得に貢献し、人類史上最速の発展を遂げることとなった。

 

 

 

いずれにせよ、これらの問題の根本にあるのは、対人間における富の収奪にある。人間の争いの大本は今も昔も変わらず、いかに労働をせずに他者の富を得るかという点に帰結する。それは自然なことかもしれない。サバンナのライオンがシマウマを狩り、食料を得ることで生存するように、生物の根本は自分以外の誰かの富や生命を奪うことによって生存することを選択することがある。
このような状況下で、人類は農耕によって食料自給を学習することが出来た。火を扱うことを偶然にも学習した人類が調理によって今まで消化することの出来なかった食料を手に入れられるようになった。そして調理が可能となった食料、たとえば米、麦などを保存することによって人類は必ずしも動物の生命を奪わなくても生存できるようになる。農耕によって労働の概念が形式化していく。人が富を生産し、その富を蓄積する働きがこの頃から生まれ始めた。
ところが今度は他者の労働によって生み出された食料を強奪するものが現れる。食料の強奪を第一義的な目的となっているが、食料という富をより多く保有することが人間の尊厳の現れにもなった。人間は農耕によってコミュニティを形成し、領土を決定していく。その領土にも生産のし易い土地といったものもあるし、その土地の拡大によってより多くの富を生産することが可能になる。こうして人間は本来自分達の所有物ではないはずの土地を奪い合うことを始めるようになった。富の概念は人間の生産した食料にとどまらず、装飾品や武具、土器や石器も含まれるようになっていく。そうして人類は奪うべき富を拡大していくことになった。

 

 

争いの根源は収奪の攻防である。誰しも、自分の労働対価を奪われることを望まない。自らの意志で分け与えることはあるかもしれないが、理不尽に奪われることをよしとしないだろう。ましてそれが生命であればなおさらである。人類は最低限の富を獲得していくことによって社会性を築き、収奪の攻防を平和的に行えるシステムを発明することとなった。それが法である。これによって社会のルールが明文化されることになった。人間は信用と信頼を行えるようになった。法を破ると罰せられるという不利益が収奪の抑止となり、より複雑な社会を構成できるようになった。

 

さて、失敗と改善の連続の中、人類は一部の国においては最低限の生活を保証し、争いや収奪をほぼ抑制している状態を生み出しつつある。この状態からさらに改善へと文明を発展させるとしたら、私たちはなにをボトルネックに設定し、そのボトルネックにどう対処していくべきなのか。

思うに人類は理想社会という青写真を既に手にしているのではないか。人々が幸福である為に生活の保障と自由と尊厳、これらを高次に満たしながら他者への公益性を労働の意義とできるような社会が実現されたとしたら、それは限りなく理想に近い社会なのではないか。もしそうだとしたら、私たちに不足しているのはその理想社会に対して前進する力なのではないか。人類は社会を構築しているが、その構成員の思想は多様であるから、必ずしも全員の利害が一致するとは限らない。更に、私たちが意志決定をしていく際に、必ず少数派の意見を封殺してしまうことがある。民主主義の本質は合意形成にあると思うが、多数決にその本質があると曲解されてしまうと、どうしてもマイノリティを排除する動きが生まれてしまう。このように、より社会が高次になるにつれて、問題が人間関係に帰結していく。